パンドラの箱~知ってはいけないことがあるらしい

歴史・戦史

これは193回目。世の中、知ってはいけないことが、いろいろとあるようです。下手にネットで公開すると、ろくなことにならないようです。恐ろしいのはお化けより、人間であり、国家権力という共同の幻想かもしれません。

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パンドラの箱が開いて、災厄が世界を覆った。箱の中にのこったのは、「エルピス(希望)」だった。・・・本当だろうか。古代ギリシャ人は、嘘をついている。

なにゆえかくも人類は、自ら災厄を呼び込もうとするのだろうか。戦争である。戦争には金がかかる。国家は、通常でさえ財政赤字を抱えていることが多い。だから、いざ戦争にでもなると、なおさら金がかかる。

だから、国家はその金を工面するのに、さらに国債を増発する。当然、借金であるから、金利が伴っている。この国債の引き受け手が、そもそも戦争を画策した元凶であることが多い。実に世の中は、借金で動いているのだ。金利こそが、すべての動機なのである。

この金利収益は膨大である。従って、貸し手はその膨大な利益を享受するために、国家を戦争に仕向けようとする。その「元凶」が一体誰であるのかは、今日はとくに言及しない。

ただこの「元凶」たちの陰謀に、実現可能性を与えるものが問題だ。それには二つある。一つは、経済的需要だ。戦争や征服によって経済が回復することが可能だということは、多くの歴史が証明している。これも、本日はとくに言及しない。

もう一つある。それが「理念」という魔物だ。イデオロギーといってもいい。排他的な宗教運動(信仰)もそうである。どちらも、一見「きれいごと」を並べる。

自由、平等、人権、労働者の権利、機会均等や貿易の公平性、既得権の尊重、内政不干渉、民族の伝統と誇り、・・・そしてこれらは、それを掲げる人たちよって、千差万別であり、グローバルに横断的・普遍的統一性は無い。平たく言えば、それを掲げる人たちの立場次第で、どうにでも刃になる代物にすぎないということだ。

たとえば、中国人民共和国憲法( 1982制定)には基本的人権の規定がある。表現の自由についての規定もある。

第33条 中国公民は法律の前に一律に平等であり、国は人権を尊重し保障しなければならない。

35条中国公民は、言論・出版・集会・結社・デモの自由を有する。

誰がどう読んだところで、「表現の自由」が認められている。では何故ネットまで検閲するのか、民主化を求めただけの言論知識人・劉暁波(ノーベル平和賞)は何故軟禁され、ろくな治療も受けずに、事実上殺されたのか。なぜ香港の騒乱が一向に収まらないどころか、激化していっているのか。

イデオロギーや、それを利用する権力というのは恐ろしい。そして、それをつけあがらせるのは、中国のネット規制を渋々ながらも許容するアップルや、大手ネット企業たちで、要は足元を見られているのだ。日系の製造業も同じ穴のムジナといっていい。

中国のネット規制は、一段と巧妙になってきていて、先日の日経新聞によれば、在中国の外国企業の企業秘密や情報が、筒抜けになっているという。つまり、ネット規制をする一方で、傍受と情報詐取を当局に許しているというのである。

それはさておき、ほとんどの戦争は、底流に経済的需要がある。それを糊塗(こと)するために、こうした「理念」と呼ばれる「きれいごと」が使われる。

要するに、本音で交渉をせず、ひたすらご都合主義的に利用される理念と理念が、ぶつかり合うのである。少なくとも、そう見せているのである。裏では、本音が沸騰しているにもかかわらず、それをお首にも出さない。そして、この「きれいごと」のぶつかり合いのような、かりそめの世界観こそが、あたかも事の実体であるかのような演出するのに、最大限寄与しているのが、メディアである。

もちろん、メディアにも人物はいる。本音を見抜いて、それを立証し、衆目に公表しようとするメディア人士たちだ。彼らはたいてい、抹殺される。

10月16日、地中海に浮かぶロマンティックな小国マルタで、衝撃的な事件が起きた。現地では知らない人がいないほど有名な女性ジャーナリスト、ダフネ・カルアナガリチア( 53歳)が、自宅から出た直後、車に仕掛けられていた爆弾で、吹き飛んだ。暗殺であることは疑いようもない。

ダフネは80年代後半よりジャーナリストとして活動を始め、マルタの政治汚職や社会問題を次々と暴露してきた。特有の報道スタイルは辛辣きわまりなく、マスカット首相をはじめ、政治家、警察、弁護士、国内外のビジネス業界のあらゆる権力者を敵に回す衝撃的なものばかりだった。

おそらく、彼女に内部情報を提供する強力なネットワーク(反主流派や、利権が衝突する競争相手)が存在していたのだろう。右も左も容赦なく批判する彼女は、彼女自身が爆弾のようなものであった。小さなマルタ社会では、誰がどこでどうつながっているかわからない。彼女を擁護したり、支持したりすることは、自分や家族の立場までもが危うくなることもありうる。

彼女を暗殺した正体は何なのか。ダフネのブログには、アゼルバイジャンやリビア、マフィア組織、オフショア企業など、マルタが不正に取引したと思われる様々な疑惑が証拠と共に取り上げられてきた。

車に仕掛けられていた爆弾は、彼女の携帯電話の使用と連動していたのではないかと推察されている。自宅を出る30分前、彼女が自身のブログにアップしたことは、こうである。

“There are crooks everywhere you look now. The situation is desperate.”
(今やどこを見ても犯罪者ばかり。この状況は絶望的だ。)

一番、ダフネ暗殺の導火線となったとされているのは、例のパナマ文書問題である。また、直近彼女が手掛けていた犯罪ケースは、リビア西部からの原油の密輸であった。リビアの幽霊病院(実際には存在しない架空の病院)での、架空の治療にかかわる多額の請求などの物的証拠が、彼女のパソコン内で発見されたと、暗殺後に息子が発表している。

一つではないかもしれない。彼女ほどのジャーナリストであるから、複数の案件で命を狙われていた可能性は高い。いずれにしろ、マルタ島はロシア・マフィアを中心に、マネーロンダリングの中継点と化しているため、どのような利権がどううごめいていようともおかしくない。

しかも、それは直接的にはロシア・マフィアであろうと、イスラム過激派であろうと、それらはしょせん、なんとか暴露することができるもっとも表層部分の主体である。彼らもまた、もっと入念な謀略の中で利用されているだけ、と考えるほうが自然だ。

つまり、仮にその直接的な下手人がロシア・マフィアだとしても、あるいは、マルタのマスカット首相一派であったとしても、それはほとんど狂言回しにすぎない役者たちであり、本丸はもっとずっと奥に控えているということだ。しかも、一見すると、まったく無関係のように見える、とんでもないところに元凶がいるということも考えておかなければならない。

少なくとも、不正で膨大なマネーがマルタを通過しているのは事実であり、そのマネーの出元と行き先にいる本丸たちは、一体何を最終目的として、そのマネーをどう使おうとしているのかが最大の問題だ。ダフネは、その糸口にすぎない、ごくごく表層の部分を若干暴露しただけで、ばらばらに吹き飛ばされたわけである。

パナマ文書問題は、近年世界を動揺させたが、どうも一時的だったように見える。以来、日本などではメディアがまったく報じないからだ。各国でも似たようなものだろう。深入りできないのだ。

しかし、この問題は非常に深刻で根深い。だから大手メディアは、この問題を表看板の記事にはしない。そのため、大した影響もなかったスキャンダル程度の認識しか一般人は持たない。

こうした背筋が寒くなるような現実というものは、実はそこかしこに数多存在する。たとえば、昨年(だったと思うが)出版された「日航123便 墜落の新事実」(青山透子、河出書房新社)である。

1985年8月12日18時56分に、墜落した有名な事故だが、とてもではないが動揺することなしに、読むことは不可能なほど深刻な内容である。

救いは、そこにけっして結論を書いていないことだ。しかし、著者(墜落で死亡したキャビンアテンダントの同僚である)が長年、執念で積み上げた事実の数々は、あれが単純なボーイング社の修理ミスによる後部圧力隔壁の破損によるものではない、ということをはっきりと示している。

わたし自身、当時、圧力隔壁の破損などではないことくらい察しがついていた。圧力隔壁の破損で穴があいたのなら、機内では全員失神していたはずだ。事故後回収されて現像された事故発生直後の機内の写真では、まったく物も飛び散っておらず、整然としたものだ。ありえない。そもそも、機長らコックピットの人たちは、だれも、酸素マスクをつけていなかったことがはっきりしている。なにか重大なことが隠蔽されているとしか考えられないことは、誰でもわかったはずだ。

あの事故で、わたしがとても印象的だったのは、そしてその後ずっと心の中でわだかまりとなっていた当日夜のNHKの報道である。アナウンサーは、ニュース速報が入ったと言って、原稿を読み上げたのだ。

「ただいま入った速報によりますと、現地に救援に向かった自衛隊内部で、銃撃戦が行われ、死傷者多数が出た模様です。」

この速報を見て、覚えている人もきっと数多くいるはずだ。テロップも出たのだ。わたし自身、信じられず茫然としたのを覚えている。直後、「あれは誤報でした」と訂正が入ったが、戦争中でもあるまいし、そんな誤報などありえないだろう。なにかがあったに違いないのだ。

横田の米軍ヘリが墜落直後の現場上空に到着し、位置情報を米軍司令部と日本政府と自衛隊に連絡をした(事実であることが、当時の米軍搭乗員が、近年になって退役後に公表している)にもかかわらず、当時政府は、現場が特定できないといって、何時間も長野県だ群馬県だとあちこちニュースが迷走していた。おかしいではないか。

尾根を挟んで反対側の上野村では、墜落当初から「あれは御巣鷹山だ」とはっきり村民たちが特定していたのだ。JALにも、政府にも、自衛隊にも、警察にも、各地上波TV局にも手分けして連絡していたのだ。にもかかわらず、なぜ、一向に場所の特定をせず、自衛隊は翌日未明に到着した、「ということになっている」のか。

そもそも、政府はようやく御巣鷹山らしいということを認めた段階で、即座に習志野の第一空挺部隊に現場急行せよという命令をだしていないのだ。なぜだ? その理由は、「夜間の山岳地帯であるから、危険であり、そういう訓練をしていない」と官邸は言った。これもわたしは覚えている。

一体、夜間の山岳地帯に降下できない最精鋭の空挺部隊など、ありえない。夜間山岳地域、それも敵中に降下するのが空挺部隊であろう。一体、なにを言っているのだ、という感じは、当時わたしの心につきまとった。すべての公式発表が、異常性を帯びていたのである。

わたしが知っている、そして誰でも知っている二次情報では、こうしたことを述べるのが限界である。著者の今後の安否が大変心配されるところだが、先述通り、著者は結論は書いていない。それは想定や推測にすぎないからだ。しかし、そこにある多くの確認されている事実(政府発表や事故調査委員会の言う事実とはまったく違う)は、いくつかの空恐ろしい仮説を、読む者誰にも想像させる。

安泰に生き延びたければ、知らない方が良い事実がある、ということらしい。暴いたことが、もっと酷薄な現実を招来する可能性も確かにある。日航機123便でこの有様である。福島の原発の炉心溶解にいたっては、一体なにが本当のところあったのか、実際には藪の中である。

事故(とされている)や、津波による不可抗力的な災害(とされている)などでも、身に危険が及ぶ機会は、そこらじゅうにあるといっていい。ましてや、国家と国家が政治の延長として発動する戦争という悲劇にいたっては、もはや関係主体があまりにも多く、複雑に利害がからんでいるから、その事実さえ明らかにすることもほとんど不可能に近いことなのだろう。

パンドラの箱は、これまでも、今も、そして今後も、いくつも開けられることになるだろう。偶発的にせよ、意図的にせよ、その災厄は際限がなく、そこにとても希望が残っているとは、到底わたしなどには思えない。

先ごろ亡くなった、週刊誌「プレイボーイ」の創業者、ヒュー・ヘフナーが名言を残している。

「世界は変わらないし、良くなっていくこともない。しかし、人生には涙以上のものがある。」

このサビの部分の原文は、こうである。

Life is more than tears・・・



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