天には輝く星、我が胸には・・・
これは197回目。先年、仁川発、済州島行きの客船セウォル号が遭難した。300名前後の修学旅行中の高校生などが死亡あるいは、未だに行方不明。あまりに酷い結果に言葉も無い。若い人たちが、かくも大量に命を落とすというのは、どうにも納得のいかない事実だ。
こういう事件にはつきものの、英雄的行為と恥知らずな行為が、さまざまメディアで報道されている。ふと、この遭難事件で思い出したことがある。戦前の気比丸事件と一人の日本人学生のことである。遭難の様子の詳細はわたしも知らなかったから、今回改めて調べてみたところ、以下のような経緯だったようだ。
ちょうど太平洋戦争が12月8日に真珠湾攻撃によって始まる一ヶ月前、昭和16年11月5日に気比丸は遭難。当時新聞は、ウラジオストックから流れてくるソビエトロシアからの機雷に触れ気比丸が沈没したことを報じた。
日本海を往復していた気比丸の船体は優美で、日本海の女王と言われていた。その概要は総トン数4,523t、旅客の定員は758名、敦賀~清津~羅津航路に就航し、2泊3日の航海で日本海を横断していた。
昭和16年11月5日、旧朝鮮・清津港を出発、乗客357名、船員89名を乗せたまま清津の港から170km、満月好天の夜22時14分、船首左舷にソ連の浮遊機雷が接触、触雷一時間後に同日23時10分、あかりをつけたまま船首から真逆さまに沈没、船尾に乗客を乗せたまま、沈んだと言われている。
総員436名の中、280人は救助されたが、156人は死亡行方不明となった。その中で、乗客は136名死亡行方不明となり、乗組員20名は殉職した。この船に、弘津正二という学生が乗船していた。
当時、弘津正二は、朝鮮の羅南中学卒業後、熊本の第五高等学校文乙に入学、そして京都大学の文学部哲学科に入学していた。天野貞祐教授(戦後文部大臣)を指導教官として、倫理学、カントの哲学、西田哲学を学ぶことになった。この後、徐々に世界大戦の様相が濃くなり、卒業が短縮されることになった。父親も亡くなり、兄も出征、店の仕事を引き継いで、やむなく一年間の休学をせざるを得なかったという家庭の事情があった。
大学の卒業を延期することが出来ない状況下、弘津は卒業論文として、カントの「実践理性批判」「道徳形而上学原論」の2冊の原書を読み、これに反論し自論を加えて、「カントの実践哲学批判」として卒論をほぼまとめ、いよいよ京都大学に戻って、浄書するだけになっていた。
カントの「実践理性批判」「道徳形而上学原論」の原書を大学図書館から借りて、大切に清津の家に持ち帰り、完成近い卒業論文とともに乗船していたのである。船底の三等船室に残した柳行李にしまいこんであるカントの原書2冊と卒論を船室に取りに行くと言って、暫くして帰ってきたときには、船体は船尾を上にして急傾斜になりつつあった。
当時の新聞では、ただ簡単に、「沈没していく気比丸の甲板にたたずんで煙草をくゆらせていた」と報じていたが、実はデッキに上がってくる前、船室では重傷者が多数いて、乗客を救命ボートに移乗させる為、若い船員、青年たちとともに救助活動を行い、甲板に上がってきたところであった。
たまたま隣りにいた左官屋さんから『早くボートにお乗りなさい』と言われても、『どうぞお先に』と言って煙草の火をつけ悠々と運命を船とともにしたと新聞では報ぜられていた。カントは “Es ist gut”「これでよい」という言葉を口癖のように言っていたそうであるが、この時も 弘津は“Es ist gut”「これでよい」と言ったのが最後の言葉になった。
後日分かったのであるが、弘津は、2人の子供とその母親に自分自身のボートの順番を明け渡して、船に残り、デッキで煙草を燻らせながら “Es ist gut”「これでよい」と言って、船と運命をともにしたのである。
このとき船上で何が起こったのか。生存者の証言が、33年後に明らかになっている。弘津と羅南中学の同期生であった朱・韓国大法院判事(日本では最高裁判所である)が驚くべき事実を明らかにしたのである。
それによると触雷した気比丸の乗客が救命ボートに殺到しているとき、同乗していた特高警察がピストルを構え、「乗るのは内地人(日本人)だけ」と朝鮮人を制したそうである。そのとき、弘津は、「私は朝鮮人と行動をともにする」とそのまま海中に消えたという。
そしてこの事は、生き残った朝鮮人の間で口伝えに広がっていった。朱判事は「哲学徒が一冊の本のために命を捨てるはずはない。弘津さんは警官の言葉を聞いて、自然に差別を否定する行動をとった。私は当時、大変なショックを受けた」と。33年経っていたのであるが、弘津のことは韓国人の間で語り継がれ、朱判事は「弘津さんはいつまでも私の内に生きている」と言って、この話をするたびに、眼から涙があふれて止まらないのを抑えられなかったそうだ。
有名なルポライターである何某は、「そんなはずはない」とこのことを否定し、当時の気比丸には強制連行されていた朝鮮人が乗っていたはずだ、ということまで言い出し、いわゆる美談が、その後の日韓関係をも危うくさせていくことになった一つの原因を作るような人もいる。なにをかいわんやである。
三浦綾子の「塩狩峠」にでてくる鉄道員・永野信夫の殉職といい、気比丸事件の弘津正二の行動といい、いずれも敬虔なキリスト教徒らしい。ある意味、弘津の最後にとった行動とは、朝鮮人を見殺しにするということは、日本人の心を殺すことにほかならないと、思い至ったためかもしれない。
この学生が愛読していたカントには有名な言葉がある。
「私の心を震わせるものがこの世に二つある。 天にあっては星の輝き、地にあっては我が心の道徳律」
ケーニヒスベルクにあるカントの墓石に刻まれている彼自身の言葉だ。
翌年昭和17年1月に、弘津の膨大な日記がまとめられ、「若き哲学徒の手記」は出版された。弘津を直接指導していた天野教授が序文を書いている。その後の学徒出陣で出征した兵士たちが持参した、ベスト3にも入っていたと言われる本だ。
今回のセウォル号遭難でも、およそ今後長らく、あるいは永遠に知られることのない高潔な行為があったに違いない。わたしたちがそれを知ることは無いだろう。が、間違いなくあったと信じる。
セウォル号転覆後、日本の海上保安庁は、生存限界72時間という絶対期限がある以上、韓国側に「救援に参加する用意あり」と、緊急電を打ったが、韓国側は断ったそうだ。理由はわからない。
反日を守り、領海に日本を入れたくないために、自国民を見殺しにしたということになりかねない。狭隘なナショナリズムや潔癖なまでの民族の自尊心にこだわることで、自国民、それも多くの有為な若者を死に至らしめたのだとしたら、余りにも情けない結果だと言わざるを得ない。