誰が信長を殺したか~その1

歴史・戦史


これは213回目。日本の歴史上最大の謎の一つと言われているのが、「本能寺の変」です。一体あの事件は何だったのでしょうか。主犯は、そして共犯は一体誰だったのでしょうか? アカデミズムでは相も変わらず通り一遍の解釈ばかりですが、一般の研究者たちの間では、数多くの疑義が示されています。それらをわたしなりにまとめてみました。検証は今後も必要でしょうが、一つの仮説を考えてみましょう。

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江戸時代、文化7年( 1810年)頃、鶴屋南北の歌舞伎『当穐八幡祭(できあき やわたまつり)』の中のセリフに、「マジ(本気)な心を知りながら……」というのがあるそうだ。なんと驚くべきことに、江戸時代から「マジ」という言葉が使われていたとか。マジで驚いた次第。

それはともかく、歴史上の出来事でマジに驚く“トンデモ説”は数多い。中には、「さもありなん」と考えられる蓋然性のある仮説も少なくない。その一つに、長年研究されてきた謎がある。1582年6月21日(天正10年6月2日)に起きた本能寺の変である。

その三ヶ月前に、最大の脅威であった武田家を滅亡させた織田信長は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。史実では、家臣・明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊中の信長と後継者の信忠を襲い、自害させたクーデターが、本能寺の変である。

しかし、この謀反、現在でも定説と呼ばれるものは確立していない。日本史上最大の謎とされている。

目に見える異変は、5月15日の安土城から始まっている。信長は、武田家との戦いで長年労のあった徳川家康を迎えて饗応した。その接待役が明智光秀だが、17日に突如解任されている。理由はとってつけたような話がいろいろ伝わっているが、信長と光秀が、かなり悶着したということは事実のようだ。いったい、何が原因で衝突したのか。民間の研究者を中心にした諸説を織り交ぜて、一つの仮説シナリオを紹介しておく。物語のようなつもりでお読みいただきたい。

一般には、中国地方で毛利勢相手に苦戦している羽柴秀吉に加勢せよと、光秀が信長から急遽命じられたためといわれている。

当時安土城には、家康が武田の旧臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ=信玄の娘婿で本人も武田の血を引く。武田勝頼滅亡に際しては、武田方を裏切っている)を連れて来ていた。穴山は大量の金塊を信長に進呈して所領を安堵され、覚えめでたかったようだ。

すでに、この段階で本能寺の変の張本人が明智光秀だけではない、という仮説が生まれている。家康は、武田が滅亡したにもかかわらず、恩賞らしい恩賞がなかった。家康こそが、武田の猛攻をこれまで満身創痍で食い止めてきた功労者だったにもかかわらず、である。甲斐・信濃を幾ばくかでも領有することができれば、一気に大大名への道が開けるはずだった。

しかし、武田の旧領は、信長家臣(滝川、川尻、森など)が治めることになってしまい、おまけに富士近辺の穴山はそのまま存続する。これでは家康は、今まで何のために対武田の最前線として苦労してきたのかまったく分からない。

信長が憎んであまりある武田家であり、滅亡後には血族者や遺臣たちを根絶やしにしたにもかかわらず、武田の本家筋といってもよい穴山を取り立てたというのは、不可解極まりないと言われている。一説には、武田・織田蜜月時代に嫡男信忠と婚姻を約していた、信玄の娘・松姫がその理由の一つではないか、との見方がある。

松姫は武田滅亡寸前、武田勝頼とともに甲府を脱出したが、勝頼によって逃がされた。勝頼夫婦らは天目山で自害したが、松姫はわずかな供と山野を突破して八王子まで脱出し、生き残った。穴山はその消息を掴んでおり、松姫は改めて信忠との婚儀に供するべく呼び出したとも言われる。穴山とすれば、金塊とともに信長に引き渡す手土産のようなものだ。

松姫は美貌で知られており、信忠も未練があったといわれるが、その程度のことで政治は動かない。信長本人としては、朝廷の下賜する役職など何の興味もなかった。が、長男信忠には、武士の棟梁として征夷大将軍などの位階を手に入れ、全国を治めるのに伝統的な源氏の棟梁である資格が必要と考えたとも言われる。

武田は、源氏の嫡流(新羅三郎義光の血統)であり、松姫の生存を信長はことのほか喜んだというから、そうした伏線であったかもしれない。穴山は金塊だけではなく、この信長がひっくり返っても手にいれることのできない「血統」というものを提供しようとしたため、処断を免れたのではないか、とも考えられる。

信長は、敵方から寝返った者でも、場合によっては「不忠、卑怯」と罵り、処断してきた過去がある。ちなみに松姫は、家康や穴山が安土城にいたとき、すでに駿河近辺まで到着していたという説がある。

このように家康には、信長への不信感があったことは指摘できる。しかも、以前、家康の実子は信長への叛意(はんい)を疑われ、家康の正室とともに死に追いやられている。積年の恨みは、ここへきて爆発しても何ら不思議ではない状況だったと言える。家康にとっては、穴山の存在も武田内部の切り崩し、武田攻めの手引きのための水先案内人としては役立ったが、もはやそれまでで、邪魔になってきていたのだ。

さて安土城の家康饗応については(ここが一番重要な点である)、一説には信長による家康暗殺が計画されていたのではないか、とも言われる。光秀がこれに反駁したことも当然考えられる。信長にとっては、家康こそ邪魔になってきたのである。武田が滅亡すれば、もはや防波堤は不要となる。

実際、これを裏付ける話がある。後日の本能寺の変で、明智軍の兵士たちは、中国地方で苦戦していた羽柴秀吉軍の加勢に行くと思っていた。が、突然光秀はきびすを返し、「敵は本能寺にあり」と言って、全軍を京都に向けた。江戸時代まで生き残った人物の覚書『本城惣右衛門覚書』によると、兵士たちは皆一様に、安土城から京都、そして堺へと見聞に来ていた家康と重臣たち一行を襲うものだと、信じて疑わなかったそうだ。本能寺で、自分たちが攻撃している相手が実は信長だと知り、かなりの衝撃が走ったことが書き残されている。

つまり、織田家中では、次は家康を始末することだという暗黙のコンセンサスができていたとしてもおかしくない。私などでもこのように、次の一手というものを容易に想像できるのだ。当時、生き馬の目を抜く戦国時代、誰が考えてもあり得るシナリオだったろう。

それ以外にも、さまざまな点で、光秀は信長と意見が衝突している。かつて敵方に捕虜となっていた実母を見殺しにされたことなどは、戦国のならいだけに、この私怨が直接的な原因だったとは考えにくい。

むしろ、天皇家の扱い方でかなりぶつかっていたのだ。天皇の専権事項である暦の制定(年号の発布)を信長は奪って、「天正」を号した。天皇を安土城に迎え、自分がその上階に住することも計画されていた。天皇から、関白や征夷大将軍の位を選べと言われても、まったく信長が興味を示していない。それどころか、これらの延長上には天皇家を牛耳るか、廃止に追い込むことも考えられた。

また、これまで信長に協力的だった四国の長曽我部元親(ちょうしかべ もとちか)に対し、手の平を返したように征伐軍を向けていた。長曽我部が苦労して統一した四国にもかかわらず、信長がそれを阿波など二カ国のみの領有に制限したことから、長曽我部がこれを拒否。すでに織田軍の先鋒隊は四国に突入しており、丹羽氏の本隊が大軍でさらに加勢すべく、大阪に終結しているところだった。

光秀が散々苦労した長曽我部の取り込みでは、光秀が家臣・斉藤利光の娘を長曽我部に嫁がせて、姻戚関係を結ぶところまでこぎつけていたにもかかわらず、である。この信長の前言撤回による武力討伐については、光秀と信長の間でかなり悶着があったようだ。

本能寺の直前は、光秀のみならず、嫡男・信忠とも、周囲が驚くような罵りあいの大喧嘩をしていることが確認されている。信長は本能寺の変がなければ、その後何か重大な政策変更を発令しようとしていた可能性は捨てきれない。安土城における、光秀の家康饗応役の解任にも、こうした政策がらみのかなり深刻な対立があったと考えるのが妥当だろう。

一見、降って湧いたように家康謀殺を命じられた光秀だが、家康にこれを暴露して、両者の提携による信長謀殺計画が生まれたのではないか、というのである。あるいは、両者は、いずれも複数の肉親を信長によって見殺し、処刑、自決強要などをされた遺恨を持っているという点では共通している。謀反の直接的な要因ではないだろうが、潜伏する怨念という意味では、かねてから通じていた可能性ももちろん否定できない。

安土城を出た光秀は、5月17日、近くの居城・坂本城に帰った。実は、家康への饗応役を務めていた15日には、秀吉から「援軍要請」が届いていたと言われている。通り一遍の解釈では、この要請に基づき、信長は光秀を、家康饗応役からはずして、援軍に差し向ける判断をしたということになっている。

が、そもそも、秀吉は援軍など必要なかったことが、後世の研究で分かってきている。苦戦などしてはいなかった。そもそも、事実上の休戦状態にあったのだ。なぜ、信長本隊にまで出馬を願う必要があったのか。秀吉にしてみれば、毛利討伐の手柄を独り占めするのではなく、主君・信長に花を持たせようとしたのではないか、とも言われているが、不可解な事実はその後明らかとなってくる。

(続く)



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