裏読み「元禄赤穂事件」~その1

歴史・戦史


これは226回目。仇討ちの話です。今で言えば、報復です。古来、日本人はどういうわけか「仇討ち」が大好きなようです。どういうわけなんでしょうか。我慢に我慢をかさねる性格が強い民族は、爆発したら結構大胆なことをしてしまう癖があるんでしょうか。しかし、日本人なら誰でも知っている「赤穂浪士」による「討ち入り」は、どうも一般的に知られているような、ただの「私怨」が原因ではなさそうです。

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元禄15年12月14日、後の日本人の心を深く揺さぶる事件が起きた。元禄赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」である。ちなみに元禄12月14日は旧暦であり、新暦(西暦)では1703年1月30日になる。どうりで映画などでは、雪の中のシーンがやたらと出てくるわけだ。

吉良義央(きら よしひさ=こうずけのすけ)にいじめられて逆ギレし、脇差で傷を負わせた挙句、自らは切腹に追い込まれた浅野長矩(あさの ながのり=たくみのかみ)。主君の恨みを晴らそうと、47人の徒党(四十七士)が明け方に怨敵の寝込みを襲って17人を殺害。当主の首を斬り落とし、鬨(とき)の声を挙げたのだ。

この“集団テロ”を決行した47人の言い分は、主君・浅野長矩と吉良義央の間の刃傷沙汰を処理した幕府裁定が、「片手落ち」であったことを憤り、お咎めなしの吉良に対する処断を要求するというものだったと言われている。

しかし、発端となった「松の廊下」の刃傷では、吉良義央は抜刀していないわけであるから、喧嘩両成敗には当たらない。殿中で抜刀するという法律違反を犯したのは浅野長矩のほうだ。これは仇討ちですら成立しない。吉良が、浅野を殺したわけではないのだ。どうも、筋が違うようである。

その後、赤穂浅野家再興の運動を起こしたが、すべての嘆願は夢と消えた。だからこそ、実力行使で幕府裁定を覆そうとしたわけで、明らかにこれは非合法暴力による、集団テロにほかならない。自首して出ているわけだから、反乱や革命ではない。“暗殺者”として主君の仇(かたき)を殺した以上は、自分たちも生きてはならない、という仁義がそこに見える。

ただ、不思議なことがある。現存しているどの浪士の手紙などを読んでも、「主君の恨みを晴らす」という一点に集約されている。何か、おかしい。そもそも、朝廷の勅使をお迎えする大事な業務中に、たかが一老人による子供じみた「いじめ」に激昂して刃傷に及ぶだろうか。また、それによって一方的に切腹させられた主君の存念を晴らそうと、47人もの大人が2年もの間、艱難辛苦に耐えて凶行に及ぶだろうか。

ましてや、浅野長矩の血統には精神的な病があるといった遺伝性の問題を掘り起こし、あれは文字通りささいな事に端を発する単なる「乱心」だったという説も、鵜呑みにすることなど到底できない。学界というものは、この程度の話をそのまま信じるほどレベルが低いのかと思ってしまう。

あまりにも話が単純すぎる。実は現在、民間の研究者によって、さまざまな仮説がなされている。このところ知られるようになってきたものの紹介を、整理して試みたい。この事件によって「誰が損をし、誰が得をしたか」という推理小説式の発想で考えてみると、真犯人というより“黒幕”の正体が浮かび上がって来るのだ。

民間の研究者の間で最大の黒幕とされているのが、当時の将軍徳川綱吉の正室・鷹司信子(たかつかさ のぶこ)である。綱吉には実子がなかったので、養子として甲府徳川から家宣(いえのぶ)を迎えており、その正室・近衛熙子(このえ ひろこ)と信子は、再従姉妹(またいとこ=祖父母の兄弟姉妹の孫)の関係で血縁である。しかも、鷹司・近衛という天皇を補佐する五摂家の二人である。この二人が、セットで黒幕なのだ。そして、近衛熙子と忠臣蔵の指揮官である赤穂藩筆頭家老・大石良雄(おおいし よしお=くらのすけ)とは、実はこれまた縁戚関係である。

この三人を結ぶ強固な線は、「尊王」という思想にほかならない。大石の家系(元は小山氏と称した)は代々、近衛家諸太夫(しょだいぶ)を務めている。驚くべきことに、大石が討ち入り前に隠れ棲んでいた京都山科は、この近衛熙子の父・近衛基熙(このえ もとひろ)の領地であり、両者は明らかに接触しているとみたほうがよい。

というのも、赤穂藩浅野家はもとより尊王思想が強かった。徳川幕府は家康以来、林羅山(はやし ざん)の朱子学派儒学を特に重用した。これは「君臣の理論」である。綱吉もそうであった。一方、赤穂藩浅野家は、朱子学を批判して赤穂藩に流罪となっていた山鹿素行(やまが そこう)を登用し、徹底した尊王思想で固まっていた。つまり、幕府と浅野家は、幕府を補佐する「佐幕」対天皇を尊ぶ「尊王」というイデオロギーで、完全に衝突していたのである。

浅野内匠頭長矩が刃傷に及んだ背景に、このことが深く関わっていたのではないか、というのだ。怨敵・吉良家は高家(こうけ)筆頭。その「高家」の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しをすることだ。しかし、その実態は、幕府の使者として皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することである。

当時、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、「禁中并公家諸法度」(きんちゅうならびに くげしょはっと)によって、朝廷を事実上の軟禁状態に置いていた。さらに、皇室への弾圧が続く。承応3年( 1654年)には、後西天皇が即位したが、それと前後して豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、津波など異常気象による自然災害が発生。それを四代将軍・家綱は、凶変の原因は「後西天皇」の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫った。

その手順と隠謀を仕組んだのも、これまた高家筆頭の吉良若狭守義冬(きらわかさのかみ よしふゆ)、吉良上野介義央の父子である。そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家・吉良側)の放火によるとの説が有力である。

尊王派は何も幕末だけの専売特許ではない。徳川幕府成立以来、幕府にとって最も排除すべき敵対勢力にほかならなかった。この時代で言えば、御三家の水戸藩が、尊王に凝り固まっていたから話が複雑だ。

水戸藩といえば、幕末、最も激烈な尊王攘夷派として「天狗党の乱」を起こした挙句に鎮圧され、352名の一斉処刑、係累の家族も殺戮されるという、未曾有の粛清事件に発展した経緯がある。あの水戸尊王論は、水戸光圀(黄門)によって始められている。その光圀も近衛家と縁戚関係にあった。光圀の妻は近衛基熙(熙子の父)の叔母である。こうなると、何をかいわんやである。本人も、またすさまじい尊王論者であった。

光圀の逸話としては、たとえば、将軍綱吉が発布した「生類憐みの令」を、天下の悪法と公言して憚らず、自邸に紛れ込む野良犬は斬って捨てよと命じ、犬の毛皮をかぶっては、幕府を挑発していたくらいである。ちなみに、この光圀のいた水戸には、大石家の屋敷跡がある。もともと大石良雄の祖父の時代には、水戸で家老を勤めていたこともあり、この点でも尊王論でつながってくる。

もちろん、水戸藩は御三家とはいえ、石高から言っても将軍を出すことはなく(光圀自身、副将軍止まりであった)、軽んじられている側面が強かった。それだけに、光圀の尊王論は激烈を極めた。大石良雄との直接の接点はないだろうが(「松の廊下」事件の前年に死亡している)、幕府にとっての頭痛の種であった「尊王論者」の排除ということでは、水戸光圀も大石良雄や赤穂浅野藩も同類とみなされていたろう。これに、五摂家出身の信子(五代将軍綱吉正室)と、再従姉妹の熙子(綱吉の養子・家宣の正室)が加わったとき、いったい何が起こるか、素人でも分かる。

しかも、光圀が重用していた、当代きっての豪商・淀屋辰五郎こそは、勤王・尊王の商人であり、赤穂藩断絶から討ち入りまでの二年間、大石らに莫大な資金を提供している協力者であった。実際、淀屋は討ち入り直後に、全財産を幕府に没収されている。罪状は、大名を超えるほどの奢侈(しゃし=ぜいたく)に溺れた、というもので話にならない。とんだ言いがかりである。幕府としては使いようもあるそれだけの豪商を、一気に叩き潰したのだ。その理由というのは、反目する勢力への肩入れ以外に何が考えられよう。

幕府は、討幕の火種となり得る尊王派勢力を排除することが、何より政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。たとえば、幕府による放火とみられる京都御所建て替えに際し、尊王派の赤穂浅野匠頭長直(ながよし=長矩の祖父)に禁裏(きんり=宮中)造営の助役(資金と人夫の供出)を命じ大きな負担を強いた。が、逆に浅野家は名誉として引き受け、見事なまでに禁裏造営の大任を果たした経緯がある。赤穂藩の財政破綻をもくろんでいた幕府としては、苦虫を噛み潰すような思いだったろう。

( 「その2」に続く)



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