失敗の本質~その1

歴史・戦史

これは234回目。歴史にif(もしも……。)はないといいます。それは学者の方々に言わせておきましょう。後講釈すらしない無責任な人間に、先の策など立てられないからです。勉強のための研究はいりません。次に失敗しないための実践論でなければ、役に立ちません。それには、どうしてあの戦争に敗けたのか、後講釈する必要がどうしてもあるのです。

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そこで、「あの」戦争に、なぜ負けたのか、どうすれば「勝てた」のか。一度、先入観を捨て、頭の中を真っ白にして、現実的・合理的に考えたい。現代の人道的・国際的信義、平和主義、政治倫理といった「タテマエ」はこの際、棚上げしてみよう。あくまで、あの時の国家利権を軸足に当時の「常識」の上に立って、考えてみよう。

なぜ、戦争に至ったのか、という議論は世に多い。これも相当の誤解があるが、それは別の機会にしたい。一方、なぜ負けたのかという議論や研究は、それに比べてあまりにも少ない。なぜか? 米国との戦争が無謀であったという先入観があるためだ。その一言で、思考停止である。しかし、それは結果から見た話であって、開戦直前の状況に対する事実認識がまったくない先入観なのだ。

まず、大前提を確認しておこう。開戦直前、日米海軍の実戦可能戦力を比較する。左側が日本、右側がアメリカの兵器所有数である。もちろん、周航直前のものや、旧式鑑なども含まれるし、なによりアメリカの数値は太平洋配備とされる分なので、大西洋・欧州戦線配備と、どう線引きするかで数に違いは出て来ると思うが、おおむねこういう感じだ。

戦 艦・巡洋戦艦  日本11対米国9
空 母 8対 3
甲 巡 18対13
乙 巡 23対11
駆逐艦 129対80
潜水艦 67対56

どうだろうか。誰がどう考えても、戦力(艦船の数)からすれば、日本がアメリカに負けるはずがない。空母の数の違いたるや、致命的な差である。

戦艦には『大和』と『武蔵』が含まれている(両艦ともほぼ完工していたので含めている)。艦隊決戦で、この2隻の46サンチ砲の威力に耐えられる装甲艦は、世界にただの1隻もなかったのだ。しかも、艦隊の射撃命中度は、米海軍が7%。これに対して、日本海軍は21%。練度は3倍もの開きがある。

大和が、米艦隊とまともに交戦するほぼ唯一の機会であったレイテ沖海戦では、距離32kmで米護衛空母群に向かって砲撃し、初弾において目標を適格に捕捉。アメリカ側資料において、「砲術士官が望み得る最高の弾着」と評価されているくらいだ。

航空戦力を見てみよう。日本は4800機。アメリカ5500機。しかも、太平洋戦争前半は航続力も長く、圧倒的に格闘性能の高いゼロ戦が無敵であった。これを見ても分かるとおり、実戦配備可能な航空機数が拮抗するなかでは、その戦闘能力においてアメリカに到底勝算はなかった。

航空戦力然り、海軍の練度然り。さらに言えば、陸軍の実戦能力は中国大陸での長年の戦争によって、きわめて高かった。陸軍の強弱は、前線将校の質で決まる。兵士の強さは言わずもがなである。

これに比べて米国陸軍は、二十数年前の第一次大戦以来、戦争らしい戦争をしていなかったから、すべてにおいて実戦能力は劣っていた。保安官に毛の生えたような軍人しかいなかった、といっても言い過ぎではない。どう掛け値したところで、当時の日本陸海軍は、世界最強だったといって間違いない。ほとんど、大人と子供の喧嘩にしかならなかった「はず」なのだ。

それが証拠に、いかにアメリカやソ連が、日本の軍事力を恐れていたかを書こう。けっして過言ではなく、怯え切っていたといってもよい。まず、ソ連だ。対ソ戦というと、第二次大戦の前哨戦とも言われた「ノモンハン事変」がいい例だろう。

ノモンハン事変は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争である。両国の後ろ盾となった帝国陸軍とソ連軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

この事変を拡大させた張本人である、辻政信(つじ まさのぶ)関東軍作戦参謀の杜撰かつ独断専行の愚策は、ここでは関係がないので割愛するが、開戦当初の日ソ両軍の戦力は、歩兵5万人同士の互角である。しかし、機甲師団(戦車)はソ連1000両に対して、日本はわずか100両と圧倒的に劣勢であった。

お互い、敵の実力を測る威力偵察の域を出なかったが、諸般の事情で全面戦争に突入した。歴史として私たちが知っているノモンハン事変とは、機械力で劣る日本陸軍のボロ負けというものだ。第23師団などは全滅に追い込まれた。軍法違反を繰り返し、この悲惨な結果をもたらした辻参謀ら指導部が、撤退してきた将兵に自殺を強要して、「負け戦」の口封じをするなど醜悪な陸軍の側面を深く歴史に刻んだ。が、その張本人たちは責任追及されることなく、後の第二次大戦ではガダルカナルやインパールの前線で、またもや愚劣な戦闘指導を繰り返した。

実際、五味川純平の大河小説『戦争と人間』なども、そうした実体験に基づいて作品化されたものだ。ちなみに、これは映画化(上演時間9時間23分)もされており、日本による無謀な戦争の予兆的な事件として知られる。この私もずっとそう思っていた。

ところが、ソ連崩壊後、ロシア公文書館が公開したソ連側の記録により、まったく逆の事実が判明した。

ノモンハン事変における日ソ両軍の損害は次のとおりだ(左側の数字が日本、右側がソ連のもの)。

戦死者 日本8440名対ソ連9734名
負傷者 8864名対15251名
破壊された装甲車両(戦車以外も含む)300両対400両
撃墜された航空機 180機対360機

当時の日本人が、「完膚なきまで打ち負かされた」とショックを受けた日本軍の損害は確かに大きかったが、実は負けたのはソ連軍のほうだったのだ。特に、航空戦では日本の圧勝に近い。大戦車部隊を繰り出したソ連に対し、多くがピアノ線と火炎瓶で応戦した歩兵戦でも、圧倒的にソ連軍の損耗のほうが激しかったことが分かる。

日本はこのソ連の損害状況を完全に誤認していたが、ソ連は双方のダメージを正確に把握していた(これは、日本に特務員=スパイを大量に送り込んでいたからにほかならない。コミンテルンである。)。

戦慄したのはスターリンである。日本軍首脳部の無能さは別として、現地軍の精強さ、卓越した戦闘能力には、正直怯え切ってしまったのだ。動員兵数互角、機甲師団では圧倒していたにもかかわらず、このソ連軍の損害はおよそ信じがたいものだった。ソ連軍が弱かったのではない。首脳部の無能にもかかわらず、日本現地軍は余りにも強すぎたのである。しかも、最盛期の関東軍は70万を超える動員兵力を有した。スターリンは総力戦になった場合、ソ連が完敗すると怯えたのだ。

この「大敗」に恐れをなしたスターリンは、突如としてナチス・ヒトラーと不可侵条約を結び、東西両面戦争に追い込まれるのを回避した。すでに日独同盟を交渉していた日本としては、このドイツの裏切り行為に愕然とする。

以後、陸軍ではソ連を仮想敵国としながらも、実際には対ソ戦には及び腰になった。陸軍でさえナチス・ドイツに深い猜疑心を抱いたのである。従来の威勢のよかった「北進論」は声をひそめ、方向転換して「南進論」に傾斜していくことになる。結果的にそれは、情報能力の欠如も手伝い、大変な勘違いをしていたことになる。

さて、開戦前の日米の戦力比をしてみたわけだが、どう考えても日本が負けるわけがない、という結論になる。そこに落とし穴がある。当時の日本の戦争指導者たちも、その落とし穴に最初から気づいていた。

つまり、この「負けるはずがない戦争」に負けた、ことが問題なのだ。しかも「負ける場合には、どうなったら負けるか」という想定も正確に認識していた、にもかかわらず、戦争を開始し、しかも負けたということが問題なのだ。

どういう戦争になったら負けるのか? 言わずと知れた、「持久戦」である。そうなったら、日本には勝ち目はない。

持久戦は絶対避けなければならないというのは、簡単に例えて言えば、貯金300万円はあるのだが、無職の人(日本)と、貯金はからっきしアテにならないが月給50万円の人(米国)の戦いだということだ。

実際、開戦を決定した昭和16年11月の戦争連絡会議では、参加者全員が「持久戦になれば必ず負ける」という認識を正確に持っていた。では、なぜあのような拙劣な戦争の経過となっていったのだろうか。それが失敗の本質なのだ。

(失敗の本質~その2へ続く)



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