ヴェノナ文書~無かったことにしたい真実、その1
これは、247回目。少々長い読み物(全2回)になってしまいますが、かなり衝撃的な史実なので、敢えて連載させていただきます。謀略というものは、都市伝説などではないということを、この驚くべき事実が訴えています。教科書も、歴史も、書き換えられなければならないでしょう。
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2005年5月7日のこと。米国ブッシュ大統領は、バルト三国のラトビアの首都リガ市内で演説した。そこで第2次世界大戦末期、1945年に米英ソの3首脳が戦後の世界統治のあり方を協議したヤルタ会談での合意について、「歴史上最大の誤りである」と批判した。(注:ヤルタ会談=米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン最高指導者の三者会談)
戦前の、英独のミュンヘン協定では、ナチスの矛先が英仏に向けられるのを避けるためにヒトラーの関心を東欧へと向けさせ、ポーランドをはじめとする東欧諸国や、バルト三国の独立性を犠牲にした。その後、第二次大戦中、1945年(昭和20年)2月、米英ソ連の首脳がヤルタに集まり、ドイツ降伏後の世界体制について密約がなされた。
その内容は、結局、バルト三国がソ連に再び併合されることを容認したものだった。なぜ米国(ルーズベルト大統領)がそこまでソ連に譲歩したのかというのは、米国においてさえ、これまで疑義が呈されている大きな謎だ。
ただ、一つの重要なその理由として言われてきたのは、最後まで戦っていた日本にとどめを刺すため、ソ連の対日参戦を促すというものだった。その交換条件として、南樺太と北方領土および千島列島全域のソ連への「引渡し」を合意した点である。
それにしても、なぜそこまでソ連の参戦が必要だったのだろうか。正直、その必要はなかったのだ。すでにドイツは降伏寸前だったから(ドイツは3ヶ月後に降伏)、米軍は太平洋に主力を集中させることが可能になりつつあった(日本は半年後に降伏)。
なるほどソ連が日本に参戦すれば、日本のショックは大きい。しかし、現実には、ソ連の参戦前に米国は原爆を投下したではないか。広島は8月6日、長崎は9日である。ソ連の対日参戦は、この9日だった。それも、日本の降伏拒否が長引けば、広島、長崎の二都市に留まらず、全土での使用を予定されていた。ソ連の参戦の必要性は、どう考えてもなかったのである。
あらかた、大勢の決まったあの段階で、最後の最後にソ連を極東の戦争にも関与させてやり、大きな利権と戦勝国としての発言権を得る地位を与えた。この点、ヤルタ協定は歴史上その必要性について、大変多くの議論を巻き起こしてきた。なぜルーズベルト大統領は、そこまでしてソ連に「媚(こび)」を売る必要があったのか。
ブッシュ大統領がリガで演説したその内容は、このヤルタ協定が、その後の長い冷戦時代、東欧におけるソ連の圧制を生む諸悪の根源と非難しているものだった。またヨーロッパの東西分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。直接、極東におけるソ連の対日参戦や、北方領土などの問題にはこの演説では触れていないが、ヤルタ協定に疑義を呈するということは、極東問題に疑義を差し挟んだのと同じである。
ただ、演説した人物が不人気なブッシュ大統領だったといううことで、あまりその後、大きな波紋を呼んだ形跡はなく、やり過ごされた観がある。とくに米国のリベラル派(民主党に多い)にとっては、民主党政権(ルーズベルト政権)が行なった第二次大戦だけに、汚点や暗部を暴き出すことには消極的だったようだ。冷ややかに聞き流した程度だった。
しかし、よく考えてみよう。ニューディール政策に失敗して後がなくなったルーズベルト大統領にとって(教科書では、1929年大恐慌からアメリカが復活したのは、ニューディール政策のおかげだと書いてあることが普通だが、完全に間違いである。一時的効果しかなく、その後はもっとひどい経済不況に陥った事実が見逃されている)、あの戦争はドイツ第三帝国を叩き潰し、欧州大陸の経済支配を進めたいというのが眼目であった。さらに、アジア・太平洋においては、日本を排除して、中国大陸の経済支配を進めたいというのが直接的な動機だった。大戦争に参加することで、空前の軍需景気を引き金として、欧州・中国の商圏を獲得し、1929年以来の大恐慌からの脱却を目論んだものだったことは言うまでもない。
では、あの戦争で最大の勝利者は誰であったろうか。言うまでもなくスターリンのソ連である。米国は欧州の東半分を失い、中国市場のすべてを失い、日本が明治以来、連綿と死守してきた朝鮮・満州という防波堤を失った。結局、ソ連・共産主義の膨張を許し、朝鮮戦争で慌てて、かつて日本が築いた防波堤の奪回を試みるが失敗し、38度線でぎりぎり食い止めたにすぎない。結果的に、日本が築いたものの半分すら取り戻せずに終わっている。
その意味で米国は、あの戦争では敗北したのと同じである。それは遡れば、ルーズベルトが大統領に就任して、最初に行なった不可解な判断に帰することができよう。それは、米国のソ連承認である。1933年、ルーズベルトは、就任早々、共和党などの反対を押し切ってソ連政府を正式な政権として承認した。このルーズベルトの変節は、米国史においても特筆すべき、外交戦略の大失策であったと言っても過言ではない。
では、なぜ、ルーズベルトはそうした徒労の情熱に邁進してしまったのだろうか。この大きな疑問に答える決定的な証拠が出てきたのである。その名は、「ヴェノナ文書」。米国政界や歴史学界を、驚愕させた機密文書である。
すでに過去のことでもあり、これが現在、何か差し迫った問題を生じさせているということはない。ただ、歴史を正しく見直すのであれば、この文書の意味は、これまでの歴史認識を根底から覆す威力を持っている。
ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ国内のソ連のスパイ・工作員たち(各国共産党代表による「国際コミンテルン」という実行部隊)が、モスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し、解読した記録である。1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。
冒頭のブッシュ大統領のリガ演説も、この文書によって明らかになった事実に基づきなされたと考えられる。これによって、太平洋戦争に道筋をつけた日米指導者、つまり近衛文麿首相とルーズベルト大統領の周囲は、驚くべきことに、コミンテルンによってがっちり固められていたことが判明したのだ。
「ヴェノナ文書」の公開以降、米国内では、「ルーズベルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの『疑念』が、確信へと変わりつつある。当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。しかも、そのピッチは近年、急加速していると言ってよい。
この場合、工作員(スパイ)とは、共産主義へのシンパ、共鳴者だ。そして、他国の国家・政府の内部にこのシンパを増殖させることで、戦前のソ連は大成功した。工作員たちは、自国において共産主義革命を起こすために、さまざまな情報をソ連に流し、陰謀を図った。それは、自国への裏切りなのではなく、純粋に世界共産主義革命という信仰ゆえの“大義”だったのである。
事の始めはなんといってもソ連だ。ロシア革命の大立者・レーニンは1919年(大正8年)、世界共産化を目指してコミンテルンを創設した。別名「第三インターナショナル」と呼ばれるもので、共産主義政党による国際組織である。もともとは、各国の共産主義者の代表の集まりだったが、レーニン以降はソ連共産党による世界革命、あるいはソ連防衛のための国際謀略組織と化した。
日米各界に大量のスパイを潜り込ませたレーニンは、1928年(昭和3年)、コミンテルン第6回大会でこのように述べている。
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々母国政府の政策失敗と、この戦争を内乱化させることを主要目的としなければならない。戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
①自国政府の敗北を助成すること。
②戦争を自己崩壊の内乱戦にすること。
③民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるから、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
この革命的前進を阻止するような『戦争防止』運動は、徹底して妨害しなければならない。」
さらに昭和10年( 1935)の第7回コミンテルン大会で、スターリンは次のように述べている。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかし、その矛先を母なるロシア(ソ連)に向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして、戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って進んだ跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」(有名な「砕氷船理論」)
しかしソ連は反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。そして日本を中国とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める戦略を立て、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で条約を破棄し、それぞれに宣戦布告している。
これは「砕氷船理論」のシナリオ通りで、最初から強国同志(日・独vs米)を争わせて疲弊させ、日・独が荒らしまわった地域と日独両国を共産主義陣営に取り込もうと考えていた。ソ連はわが国のみならず、欧米諸国に多数の工作員を潜り込ませ、さまざまな工作活動を行なっていたことが次第に判明しつつある。
ソ連主導によるコミンテルンは、各国に潜伏するその共産主義スパイ(コミンテルンの実行部隊)によって、自分たち自身の祖国を敗戦に追い込むことが、第一義的な目標となった。この謀略の重点対象国が、日本とアメリカだったのである。この戦略を遂行するため1919年9月、コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ共産党も設立されたのである。ちなみに、その結成にかかわったのは日本人の片山潜(かたやま せん)である。
1931年(昭和6年)、アジアで満洲事変が勃発し、ソ連は日本と国境線を挟んで直接対峙することになった。日本の台頭に恐怖を覚えたコミンテルンは1932年(昭和7年)2月、日本と戦う中国を支援するとともに、対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した。驚くべきことに、この動きに呼応するように、米ルーズベルト大統領も1933年(昭和8年)、議会の反対を押し切ってソ連との国交を樹立したのだ。
実は、アメリカ共産党をはじめ、まったく政治的な主義主張とは本来無縁の、しかし権威ある研究所や財団などに、コミンテルンの指示を受けたさまざまなスパイが入り込み、ルーズベルト政権をがっちり固めていく過程が、この1930年代には進行していた。ヴェノナ文書によって明らかになった事実は、想像を超えるほど戦慄的なものであり、詳細はここでは割愛する。興味のある方は、一度PHP研究所発行の『ヴェノナ』をお読みいただきたい。
ルーズベルト自身は、1929年(昭和4年)の大恐慌後に、ニューディール政策で米国経済の建て直しを試みたが、わずか3年有効だっただけで失敗。強烈に戦争介入による軍需景気を熱望していた。一方、先祖が、中国人奴隷の米国移入商売で財をなしたということが、個人的には大きな精神的な負い目となっていたようだ。このため、ことのほか親中国(反日)的な心情にあった。ここに、コミンテルンがつけこんだ、ということであろうが、そのコミンテルン人脈(つまり、ソ連のスパイ人脈)たるや、ヴェノナ文書は背筋が寒くなるような事実を明らかにしている。
在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年( 1940年)7月付機密文書『米国内ノ反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、ジェームス・ルーズベルト夫人だった。ルーズべルト大統領の実母である。表向きはこのルーズべルト大統領の実母が役員を務めた「中国支援評議会」だが、その実態はやはりアメリカ共産党の外郭団体だった。他の常任理事には、フィリップ・ジャッフェや冀朝鼎ら、ヴェノナ文書によって明らかになった「ソ連のスパイ」が就任している。
ただ、当時の一般のアメリカ人たちの目には、ジャッフェもプライス女史も中国救援に熱心な人道主義者、民主主義者と映っていたに違いない。中国支援評議会の活動に協力したアメリカ人は約300万人とも言われているが、アメリカの大多数の国民は見事に騙されていたわけだ。
キリスト教関係者を前面に出しながら、その実態は中国国民党の工作員とアメリカ共産党関係者によって構成されていた「アメリカ委員会」は、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレットを6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを2万2000部作製し、連邦議会上下両院のあらゆる議員やキリスト教団体、婦人団体、労働組合などに配布し、大々的なロビー活動を開始した。
このロビー活動を受けてルーズベルト政権は、中国支援へと舵を切っていく。ルーズべルト大統領は1938年12月、「対日牽制の意を込めて」、中国国民党政府に2500万ドルの借款供与を決定したのである。
一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。若杉要(わかすぎ かなめ)ニューヨーク総領事は1938年(昭和13年)7月20日、宇垣一成(うがき かずしげ)外務大臣に対して、「当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件」と題する機密報告書を提出、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析している。
《シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。・・・共産党は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。アメリカ共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。》
若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズべルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを喝破・強調し、共産党による日米分断作戦に乗らないよう訴えたのだ。
ルーズべルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて1939年(昭和14年)、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給をアメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。
つまり、ルーズべルト政権の反日政策に反発して、もしも近衛内閣が反米政策をとるならば、結果的に「スターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだ」と、若杉総領事は訴えたのだ。しかし、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。なぜなら、近衛首相もまた、周囲をがっちりとコミンテルンの工作員たちによって、固められていたのである。
そもそも、近衛文麿(このえ ふみまろ)という人物は、皇室に最も近い公家出身であり、世間知らずの名門富裕階層にありがちな、プロレタリア革命への心理的な同情という致命的な性格的欠陥に冒されていた。東大卒業後、京大に飛んだ理由も、社会主義学者・河上肇(かわかみ はじめ)に師事するためだったくらいだ。
左翼的であることがインテリであるかのような妄想が、この時代にはあった。戦後ですら、ずっとその風潮は続いていた(アメリカでも「物分りの良い」リベラルであることが、インテリの証かのような風潮が現在も一般的である)。この結果、近衛は数多くの左翼運動家と関係を持つことになる。その延長線上に、尾崎秀実(おざき ほつみ)やゾルゲが登場してくるのだ。
若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、すでに政策顧問として重用していたゾルゲ・グループの尾崎秀実ら「昭和研究会」メンバーの影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要項」を閣議決定する。
そして、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど、あろうことかソ連と連携しながら反米政策を推進していった。このゾルゲ、尾崎らがソ連コミンテルンに加担していたスパイであったことは、米国資料を待たずとも、はっきりしている。その後スパイ容疑で逮捕されたときの尾崎の「イデオロギーに殉じる」という自信に満ちた、2時間以上にわたる誇らしげな調書によって、それは明白な事実である。
ちなみに、ナチスとソ連のダブルスパイだったゾルゲは、最終的にはソ連の工作員となっている。ノモンハン事変で、日本軍部はソ連軍に敗退したと「錯覚」したため対ソ強硬論が消えうせ、南進論に転換していった。このことをソ連に連絡し、「日本に北進の意図なし」という確信を、スターリンに与えたことは有名である。スターリンはこのゾルゲの連絡で、後顧の憂いなく、将来の対ドイツ総力戦を模索していくことができるようになったのである。
尾崎秀実の裏の顔は、中国共産党シンパの米女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレー(代表著作『中国の歌ごえ』)と親交を持った、筋金入りの共産主義革命家である。戦後、スメドレーが尾崎の刑死を知り、「私の夫は死んだのね」と泣いたそうであるから、男女の仲でもあったようだ。
このスメドレーがコミンテルンであったことは言うまでもない。尾崎は、コミンテルンの方針通り、日本を戦争に煽り立て、米国との総力戦に誘導し、日本や中国で共産主義革命が勃発するように仕向けようとした。そのために使った擬態が、「極右的」なイデオロギーの主張だったのである。
尾崎の表向きの言説を振り返ると、あたかも愛国、右翼、軍国主義そのものである。以下の通りだ。
「蒋介石政権は、軍閥政治であり、相手にする必要はない。」《「中央公論」1937年(昭和12年)7月号》
「(中国との戦争は)局地的解決も、不拡大方針も、まったく意味をなさない。中国との講和・不拡大方針には絶対反対。日中戦争の拡大方針を主張する。」《「改造」同年9月臨時増刊号》
「日本国民に与えられている唯一の道は、戦いに勝つということだけだ。他の方法は考えられない。日本が中国とはじめたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかない。・・・中国との講和条約の締結に反対する。長期戦もやむをえず、徹底抗戦あるのみ。」《「改造」1938年(昭和13年)5月号》
日本を戦争へ、戦争へと煽り立てていった当時の「右翼」たちの中には、相当数、こうした共産主義者たちの「擬態」があった可能性が指摘されている。
たとえば、戦前、もっともこうした過激な大陸侵攻論を主張していたのは、メディアの中では朝日新聞である。社内にこうしたコミンテルン、あるいはコミンテルンのシンパがいたとしても、なんら不思議ではない。終戦直後、朝日新聞が手のひらを返したような、左翼的な論調に早がわりしたことこそ、その傍証であろう。現在も、まだその精神文化は厳然として受け継がれている。
共産党機関新聞の「赤旗」ならまだ良い。旗幟(きし)鮮明だからだ。しかし、美辞麗句で擬態をつくり、実はその本質が母国を貶(おとし)め、危機に陥れ、共産化させようなど、当時の言葉で言えば「売国」のそしりを免れないだろう。
この正真正銘の共産主義者・尾崎秀実の、「右翼・愛国的」人士としての「擬態」は完璧なものだった。裏の活動については、同僚はもちろん、妻さえ、まったく気づくことはなかったのだ。尾崎の例を長々と紹介したが、こうした類いの工作員やそのシンパは、恐るべきことに陸軍参謀部内にもいたのである。
(その2に続く)