はっきりさせておきましょう

政治・経済, 歴史・戦史

これは404回目。5つの点です。

1 植民地ってなんですか?

まずは植民地とはなんでしょう、というお話です。日本人とか、韓国人とか、朝鮮人とか、中国人とか、そういう民族的な自意識をいったん捨てて、客観的に考えてみましょう。(掲題の写真は、1879年の「琉球処分」当時のもの。首里城前に並ぶ日本軍兵士。)

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日本が朝鮮半島や台湾で行ったことは、やはり欧米の植民地とはまったく異質である。これは良いか悪いかの話ではない。

異国人(異民族)が支配することをすべて植民地だというのであれば、現在の中国のチベット支配は、植民地だということになる(現在チベット人は、中国籍を強いられている)。ウイグル自治区も、江西チュワン族自治区も、内モンゴル自治区も、植民地だということになる。

ハワイは米国の植民地(ハワイの土着民族も米国籍を強いられている)ということになる。

チベットは、支那化(漢民族化)、つまり同化を強いられている最中であり、ハワイはほぼ完全といっていいくらいアメリカに同化してしまった。しかし、どちらも植民地だと、今誰が言うだろうか。 たぶん、言わない。

スコットランドはイングランドの植民地(スコットランド人も、英国籍を強いられている)。コルシカ島はフランスの植民地(コルシカ住民はイタリア人だが、フランス国籍を強いられている。コルシカ生まれのイタリア人・ナポレオンからしてそうだった。)。ウラル山脈以東のすべてのロシア領土は、ロシアの植民地。

なんでもかんでも「植民地史観」で色分けすることが、いかに馬鹿馬鹿しいか、普通の頭の持ち主ならわかる。なぜなら、日本支配時代の朝鮮も台湾も、住民はすべて日本国籍であったからだ。

明確に植民地かそれとは違うものかの区分は、「本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土」を植民地とする点である。

朝鮮・台湾ともに、支配が始まったとき日本では大きな議論が巻き起こった、つまり、「植民地」か、それとも「内地延長」かで大論争になっていたのだ。

結局日本の選択は、「植民地」ではなく、「内地延長(嫌な言葉を使えば、皇民化)」であった。だから、西欧列強が世界中に保有した植民地と違い、本国とまったく同じ(あるいはそれ以上)の教育、インフラ、官僚制度などを施行した。

イギリスがスコットランドでしているように、中国がチベットで無理やりしているように、アメリカがハワイで一方的にしたように、フランスがコルシカを併合して、フランス化したように、日本は同じことを朝鮮・台湾で行ったということだ。

それがスコットランド人にとって幸せなことであったかどうかはわからない。少なくとも、今、独立運動が盛んである。

チベットは明らかに悲劇の中にある。それこそチベット的文化をことごとく地上から無くし、純粋のチベット人そのものの痕跡を消しさられようとしているからだ。いわゆる「中国化」である。

コルシカ人は幸せだろうか。寡聞にして知らないが、訊く所によれば、フランスであってフランスではないらしい。コルシカ色は濃厚に原色のまま残っているようだ。

朝鮮半島の人々にとって、なにが幸せだったかどうか、いろいろ議論はあるだろう。が、日本が行ったのはこれらの支配国が行ってきたのと近い道筋をたどったといえる。

植民地であれば、そのような施策を施す必要はさらさらない。ただ、収奪し、奴隷として酷使し、抑圧しておきさえすればよい。植民地住民に、人権などは与える必要も無い。

それまで李氏朝鮮、大韓帝国で一顧だにされずに放棄されていたハングルを発掘して、教科書までつくって全半島人に教育を施し、文盲率を一気に低下させる努力など、毛頭やる必要がない。

とくに朝鮮に関しては、明確に「合邦」であった。言い出しっぺは、大韓帝国である。彼らの要請から始まった両国の合邦だ。但し、もともと(当然ながら)韓国側は対等合併を望んでいた。

ところが、国力が違いすぎて、結果的には日本により皇民化されていくという経過を辿った。これは、ほとんど致し方ないことだったろう。それほど、日韓では国力は言うに及ばず、民度、文化、技術なにをとっても、あまりにも差が開きすぎていたのだ。

「合邦」(百歩譲って、併合といっても別に構わない)とは、イングランドが主導権を握った形で、スコットランドやウェールズ、北部アイルランドを合邦し、連合王国と称しているのと、なんら変わらない。

スコットランドは、旧英国植民地のエジプトやインドなどと、まったく違うステータスである。スコットランドは、主導権はイングランドにあるものの、あくまで大英帝国の一角だ。しかし、旧エジプトやインドは大英帝国の植民地であった。ここに明確な差異がある。

日本が戦争に負けるまで、朝鮮においても、台湾においても、民族こそ違え、「大日本帝国」の「日本国民」であるという認識が普通であった(それを良しと思ったか、不快・義憤に思ったかはどうでもよい。別の話だ。)。現地の人々にとっては「植民地であった。」という認識は、まったく戦後に各国での現代教育によって生まれた後づけの概念にすぎない。

植民地だったら、皇民化(同化)政策などする必要がなかった。奴隷のまま使い捨てればよかったはずである。教育も、民生用のインフラを整える必要も無かった。

日帝支配時代を通じて、日本にもこれらが植民地であったという認識は無い。もちろん、日本人の個人のレベルでは、朝鮮や台湾を植民地の「ようなもの」と意識して、蔑視したりした向きはあったろう。こういう類いの日本人は、情けない、見下げ果てた日本人といえる。

が、国家としては、あくまで日本と同質のものが朝鮮や台湾で組成されることを、明確に目指していたわけで、この点で植民地という認識は、間違っている。(繰り返すが、その日本の方針が正しかったかどうかを議論しているのではない。)

しかし、そうは言っても、朝鮮人・台湾人は違う民族であり、明らかに日本主導の合邦であるから、日本側としては徴兵制を朝鮮や台湾では免除していた。

両地域で徴兵が施行されたのは、1944年4月、9月からである。つまり、国家総動員法に基づき、従来(良く言えば、遠慮していた)両地域での徴兵制に踏み切ったわけだ。時期を見れば理由は簡単で、太平洋戦争に負けが込んできて、兵員が足らなくなってきたというだけのことだ。

近年三菱重工など、朝鮮における労役徴用が問題となっているが、これが強制徴用であったかどうか、もっと事実確認をしっかりしなければならないだろう。が、仮に百歩譲って、強制徴用であったとしても、違法ではなく、当たり前である。朝鮮は大日本帝国だったからにほかならない。

戦争末期、日本国内で、末期には女子供まで工場労働などに強制動員された。帝国の国民である以上、民族が違え、国民である以上は当然の話で。わたしが学んだ高校(旧制ニ中)からも、多摩の弾薬庫(現在の、「こどもの国」)へ労役に駆り出され、不幸にして亡くなった学徒たちがいたのだ。少年兵の参戦も、なにも沖縄だけではない。各地であったのだ。

しかし、それが、人道的に良いことだったかどうかを論点としているのではない。合法か、違法な搾取であったか、という点だけが問題だ。日本国民である以上、総力戦なのだ。徴用はあって当たり前。違法であるはずもない。従い、補償の必要も無い。日本国民で、工場や医療機関、戦地などに動員された女子供(少年兵)に補償など聞いたこともない。

(徴用工問題、慰安婦問題は、韓国でベストセラーになった落星台経済研究所・李栄薫他5名の知識人による『反日種族主義』に、明快に検証されている。韓国人自らの手によって、歴史の改竄が修正されようとしているのは、重大な変化だ。)

国家総動員法が悪法かどうかも、論点にならない。悪法であろうと、法は法。合法か、違法かといえば、合法にほかならない。繰り返すが、これが良いことか、悪いことかを議論しているのではない。

もし、朝鮮・台湾が植民地であったとするならば、短期間にせよ(わずか終戦までの1年余り)、徴兵制が施行された事実は世界の植民地史からいっても、唯一の例外であるということになる。

植民地の現地人など、支配国はそもそも信用していないから、植民地における徴兵制はまったくありえなかった。従い、朝鮮における徴兵制施行は、「植民地形態としては例外だった」のではなく、まだ発展途上であるため、戦争末期まで「兵役免除」をしていただけのことであり、むしろ「朝鮮・台湾がれっきとした大日本帝国であった」ことを積極的に意味している。

だからといって、日本の朝鮮・台湾支配が正しかったかどうかといった評価や、それで朝鮮・台湾の人々が幸せであったかどうかは、まったく別の議論である。そういうことは、大事な議論だと思うが、全然別のテーマだ。ごっちゃにして議論することは、歴史を検証するスタンスとはいえない。道義や、主義の問題だかだ。

その前に、まず朝鮮も台湾も、植民地ではなかった、日本そのものであったという事実からまず、はっきりさせなければ、なにも歴史の意味が見えてこない。

つまり、「日本は植民地を持った」という議論と、「日本は同じアジア人を無理やり同化(皇民化)した」という議論は、両立しないのである。それは矛盾だからだ。

植民地であったなら、同化させる必要もないし、無駄なコストとエネルギーの消費でしかない。

同化したというのであれば、植民地であったという主張を、取り下げなければならない。二者択一だ。そこがはっきりしないから話が混乱する。

歴史に真摯に向き合うというのは、たぶんそういうことだろう。そこから、初めて、日本が一体半島や台湾でしたことの、なにが正しく、なにが不正であったかという、歴史的で客観的な話ができるというものだ。

1910年明治43年の日韓併合を、日本による侵略だという通説が一般的だが、これも間違いである。経緯はどうでもよい。謀略が裏で働いていようがどうであろうが、これもどうでもよいことだ。謀略のない政治のほうがありえないからだ。

事実において、責任ある政府の言動と国際法に照らして、どちらから提起され、どのような手順で成立したか、そしてそれは合法的であったかどうかだけが、論点である。

2 西郷のこと

西郷隆盛のことです。最近はどうなのでしょう。昔は、西郷隆盛は、「征韓論」に敗れて下野。挙げ句の果てには反乱を引き起こし(西南戦争)、逆賊として死んだ・・・というふうにしか読めない教科書でした。果たして・・・

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韓国併合(日韓併合、日韓合邦)は、遡れば、「征韓論」に至る。この言葉も誤解を大変招く。

一般には、維新直後の日本政府が韓国に「清国からの独立」と日本が行ったような「国内改革」を促すための外交文書を送ったところ、受け取りを拒絶。これを非礼、侮辱と認識した日本側は、板垣退助らが強硬な征韓論を主張。政府内で、論争が炸裂し、西郷隆盛らは破れ、下野し、明治10年の西南戦争という内乱に発展、とこういう話になっているとおもう。

李氏朝鮮が日本の要請を拒絶したには、それなりに理由は確かにあった。たとえば、日本側は「天皇」の名で文書を送っており、これは李氏朝鮮が歴史的にずっと「君主」と仰ぐ中国の「皇帝」と同格・同義であると解釈し、彼らのほうが「日本は非礼」、と認識した点が挙げられる。また中国からの独立や、日本が行ったような富国強兵の改革要請は、まさに下等な国家(日本)から、内政干渉されたという認識であった。

さて、この征韓論では、あたかも西郷隆盛が主戦派で、けしからん李氏朝鮮を征討すべし、と強硬論を吐いたかのような一般認識の人が多いと思うが、まったく間違っている。板垣ら征韓派に対して、西郷はこれを阻止しようとしたのである。西郷は、在朝鮮の日本人居留民保護のために、派兵すべしという議論に対し、こう反論している。

「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」

太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言うと、西郷はこれも反対した。丸腰で、威儀を正して、礼を厚くして行くべきだと主張している。

政府は、洋行中の岩倉、大久保が戻ってから決めようという流れになったのだが、西郷は怒っている。

「政府の首脳が一同に会したこの閣議で、国家の大事の是非を決定できもはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切をとるのを止めたほうがよろしゅうごわす。」

そして、全権大使に西郷自身が名乗りを挙げ、任命を求めた。ところが、政府としては、西郷は政府首班であり、重鎮である。その西郷が丸腰しでいって、万一殺されでもしたら大変だということで、結局岩倉、大久保の帰国を待つことになった。実際、幕末の日本を思い出せば(まだ明治6年のことである。)、自分たちも攘夷といっては、夷人を斬りまくっていたのだ。鎖国状態の李氏朝鮮であるじゃら、同じことを今度は自分たち日本人がされると思っても不思議はない。

一応、閣議では最後の全権大使が内定したのだが、帰国した岩倉・大久保は、反対した。やはり、「西郷が行って殺されれば、間違いなく戦争になる。まだその国力は無い。」ということだった。

どうだろうか、西郷は一言も朝鮮を征服すべしなどと述べていない。逆である。従い、板垣らの征韓論に対して、遣韓論(全権大使派遣をして交渉する)である。西郷自身にも話せばわかる、という自信があったのかもしれない。あるいは、殺されでもしたら、本望だくらいに思っていたかもしれない。

こういう事実は、日本人は知っておかなければならない。まるで教科書を読むと、西郷が朝鮮を征服しようとしていたかのような誤解を招くような書き方だったと思う。実際、わたしは長いことそう誤解していた。だから今の教科書がどういう記述にしているのか、非常に気になるのだが。

3 合邦のこと

こういう問題は、企業間の話に置き換えるとわかりやすいのです。

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ここでは、長くなるので、日清戦争のことは割愛するが(韓国併合は、日清戦争・日露戦争を経た後のことだ)日清戦争の目的は、明確である。宣戦布告書に明記してある。日本側の「清国に対する宣戦の詔勅」では、朝鮮の独立と改革である。これに対して、清国側の宣戦布告書は、「朝鮮は、200年余りにわたり清国直轄の属領である。」と反論している。

よく、この日本側の戦争目的は、朝鮮の独立と改革という美名に隠れた、侵略目的であった、という話だが、当たり前である。帝国主義の時代だからだ。

ただ、伊藤博文が韓国併合に最後まで反対していたように、韓国がまさしく日本のように早く目覚めて、洋風の富国強兵による独立を志向していたら、日本としては併合という判断に至らなかっただろう。あまりにも、どうにもならないので、併合した、というのが実態だ。

そもそも、日本に侵略の意図があったというのであれば、当時200年以上にわたって、いや歴史的にはほぼ全歴史を通じて、朝鮮を隷属国家にしてきた支那歴代王朝こそ、一民族を植民地にしてきた「罪科」が大きいというべきだということになる。

しかし、不思議なことに、韓国では日本に侵略の意図があったというだけで、絶対に中国のこの歴史的な植民地支配を批判しない、それが当時の情勢を語るにあたって、公正を欠いていると言うしかない。たかだか40年ほどの「植民地支配」と、全歴史を通じた「属国支配」とで批判のバランスがまったくとれていないわけだ。

また対等合併ではなく、あくまで日本主導による併合になったことだが、実際対等合邦をしようにも、経済力も、技術力も、文化や民度の程度、教育水準も、軍事力も、あらゆる観点で、それは不可能であり、それほどの国力の差が極端に開いていたという事実を、これまたはっきりさせておくべきだろう。

併合直後の朝鮮の年間総予算は3565万円。朝鮮半島において大日本帝国が得る税収はせいぜい748万円から1330万円。大変な規模の赤字だった。残りはすべて日本が補填しての国家運営であった。予算3565万円の国家運営は、完全に破綻していたわけである。

結果、1944年まで、累計最低でも21億円もの投資を朝鮮に対して、大日本帝国は行った。併合当時の貨幣価値1円が、現在3万円としても、累計63兆円である。34年間の併合時代、平均しても年間1兆8000億円を朝鮮に注ぎ込んでいたということだ。現在韓国の国家予算20兆円そこそこ。これが、不況・好況にかかわらず、34年間も毎年1兆8000億円を投入しているのに近いと思えば、どれだけのことかわかるはずだ。

ちなみに、インドでは大英帝国は、本国費として搾取するだけで、財政支出は一切しなかった。インドにおける英国人の給与、英国軍の経費など、一切の費用は、インドからの租税でまかなっていた。1ポンドたりとも、大英帝国はインドに出していない。これが、植民地である。朝鮮や台湾が、植民地ではなかったことは、明白である。

しかも、大日本帝国の国政にまで、朝鮮人は参加が可能であった。あくまで日本本国に居住していた場合だが(これを差別といえば、たしかに差別である。間違いない。)、たとえば朝鮮人としては、唯一、「朴春琴」が「衆議院議員」に選出されている。「貴族院議員」には「朴泳孝」など通算10人の朝鮮人議員が任命されている。

もちろん、日本本土の地方議会の議員をつとめたり、中央官庁、地方公共団体に勤務するものは遥かに多かった。ちなみに、「朴春琴」は、衆議院議員として日本政府の朝鮮人差別を追及するなど民族的利益のためにも活動したにも関わらず、戦後、大韓民国政府によって「親日派民族反逆者」に指名されてしまった。事実は、はっきりさせなければならない。

当時朝鮮の人口は2100万人。日本人の在朝鮮居住者は60万人。人口比では2.8%を日本人が占めていたにすぎない。前回、日本が植民地を持たなかったという事実を述べたが、では同化政策はどうであろうか。同化も行っていないのである。モンゴルは、少数で圧倒的な漢民族を長年支配した。満洲人も同じだ。しかし、いずれも、漢民族の文化に逆に同化されてしまった。数の違いというものは、致命的なものである。

もし、2.8%の日本人が、圧倒的多数の朝鮮民族を同化できたというのであれば、それこそ恐るべき日本文化の強さだということになる。あるいは、それだけ朝鮮民族の文化が劣ったものであるということかもしれない。それよりも、圧倒的多数の朝鮮人が、日本人を同化できなかったということのほうに、むしろ大きな問題と考えるべきだろう。朝鮮文化は、日本人を同化する「威力や魅力、あるいは合理性」をまったく持っていなかったということになるからだ。

しかも、帝国陸軍の幹部候補となる登竜門、陸軍士官学校入学は、朝鮮人にも完全に門戸が開かれていた。朴正煕パクチョンヒ元大統領(朴槿惠パククネ前大統領の父上)も、日本の陸士卒、しかも総代として答辞を述べる栄誉に浴している。当時、植民地を有していた欧米列強のうち、現地人の士官などの幹部候補養成校に入学を認めた例は皆無である。

朴正煕大統領が、「日本を責めることはできない。あれ(合邦のこと)は、われわれが望んだことだったからだ。・・・日本の統治は概ね公平で良かったと今でも思っている。」と述べていたのは、偽らざる大日本帝国の朝鮮支配の実態を、いみじくも表現した言葉だと考えて良いだろう。

このような状況を、植民地と呼ぶのはどうやっても無理がある。先述したように、完全な対等合邦でなかったことは事実であり、大変残念なことだが、会社に置き換えればよくわかる。事実上破綻している会社を、優良会社が株式の等価交換で無理をして合併したようなものである。一応、形式上は対等だが、現実には破綻会社のほうには、破綻にいたった理由があるわけで、この債務を優良会社のほうに丸投げしたのと同じである。その代わり、優良会社の人事によって、抜本的にリストラされて建て直しするというのが、普通だろう。当然、人情からいっても、実力からいっても、優良会社の社員が乗り込んでいって、大ナタを振るわれても致し方ない。同じことだ。それを、破綻側が「差別だ」といっても、通る理屈ではない。

4 韓国と琉球のこと

韓国の問題を考えるときには、日本がそれに先立って行った「琉球処分」の問題もきちんと押さえて置く必要があります。

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日本による合邦以前の朝鮮半島が一体、どのような状況だったのかは、英国人女性旅行家のイザベラ・バードの「朝鮮紀行(講談社学術文庫)」を読まれたい。とてもではないが、対等合邦できる状況ではなかった。ちなみに、同じころ、日本はどうだったかという点については、同じくイザベラ・バードの「日本奥地紀行(平凡社ライブラリー文庫)」を参照されたい。

正確には、1909年12月4日の「韓日合邦を要求する声明書」が韓国側より提起された時点から、合邦の動きが始まった。もちろんそれは、韓国全土の意思ではない。親日派・一進会によるもので、大韓帝国がこれを採択し、日本にボールが投げられたのである。もちろんこの合邦の要望は、一進会に通じた内田良平など日本人たちの画策が介在している。が、いかに裏で暗躍する日本人の活動があったとはいえ、韓国にその需要がなければ、大韓帝国政府も採択しようがない。一方日本では、内部に韓国併合への賛否両論で国論は真っ二つに割れていた。

今で言えば、先進技術国の隣に極貧国があるようなものである。朝鮮には一次産品以外売るものがなかったのだ。中国から針や染色衣料などの技術品を得ようとすれば(韓国では、針と染色衣料が製造できず、もっぱら中国製に依存していた。だから一般人の服は洗いざらしの白一色だった)、米・布が流れ出し、たちまち飢餓輸出になってしまうという、恐るべき破綻状態が長年続いたのが、李氏朝鮮の実態である。韓国人にしてみれば、李氏朝鮮の歴史は、目を覆いたくなるような惨状だったといっても過言ではない。

当時の朝鮮半島の一般民意はどうであったかということは、統計上不明である。国民の大部分を占める白丁(農奴・奴隷階級)に政治参加の権利は無かったし、事実上大韓帝国の皇族のみが主権者であった。従い、日本の側も、白丁の政治的意思を考慮する必要は、法的にも無かった。

白丁が市民権を得、朝鮮半島の各道の議会で朝鮮人議員が一挙に生まれてくるのは、大日本帝国統治後のことである。

さて、紆余曲折は割愛して、最終的に1910年明治43年8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて、大日本帝国が大韓帝国を併合した。合邦に当たっては、二分された日本国内世論に慎重であった政府は、その正当性について、列国に打診している。

アメリカとイギリスは、このまま韓国を前近代的な劣悪状況のまま放置することは、地域に混乱を与えると考えた。事実、日清・日露の両戦争の直接的な導火線は、いずれも朝鮮半島の政府の毀誉褒貶・付和雷同、各勢力がそれぞれ内部の権力闘争に外国勢力と結んで国内に引き入れ、事態を抜き差しならないまでにさせてしまったためであった。アメリカとイギリスは、このように判断していたため、韓国併合に賛成した。

清国、ロシア、イタリア、ドイツなど当時の主要国からの反対もまったく無かった。清国は、日清戦争で破れ、朝鮮に対する冊封体制(清朝が朝鮮を隷属させる体制)の放棄をしているし、日清戦争の目的はまさにこの点であったから、清国が日韓併合に反対する立場など無かった。

そこで日本が韓国併合に乗り出し、ソウルに於いて、日韓政府による調印が行われ、大韓帝国がここに消滅するに至った。

簡単に歴史的事実のみ列記したが、このように韓国併合は発端は、韓国側からの要望であり、当時の列強こそが国際法そのものであったことを考えれば、きわめて合法的に成立している。これを侵略と言うのは、歴史的事実を無視することになる。

琉球王国(現在の沖縄県)も、1879年に併合している。朝鮮合邦が植民地支配であったというのであれば、1879年の琉球王国併合も、植民地支配だったということになる。しかも、琉球王国は当時、日本に合邦を要請などしていない。(繰り返すが、裏で策謀があったかどうか、どうでもよい。正式にして、公式な政府の言動として、何が事実だったかということだけが論点である。)

ましてや、琉球王国の場合は、日本による明らかな武力併合であり、大韓帝国との交渉による、正式な条約に基づくようなものでは毛頭なかった。しかし、琉球王国は日中の二重支配のもとにあり、どちらも拒否すれば、西欧列強による植民地化以外に選択肢はなかった。

清国は、1842年の阿片戦争以来、壊滅的ダメージを受けており、自国の統治能力さえしだいに失っていった時期だ。日本が、「琉球の日本支配」を清国に対して、正式に打診しており、清国は「わが国の範疇外の事」と明言している。この段階で、琉球には自動的に日本との合邦以外に、道は残されていなかったことになる。

これを日本が武力でスムーズに併合できたのは、琉球王朝に対する民衆の不信感があったことが大きい。王朝政治は腐敗をきわめており、民衆はほぼ家畜同然の扱いを受けていた。このため、民衆のほとんどが日本の武力侵攻に対して抵抗しなかったことが、この現実を如実に物語っている。

琉球人(遺伝子的には日本人と同じ)はもともと先祖信仰が強く、誇りも強い。しかし、だからといってかつての王朝追慕の念と反日主義をごった煮にしてしまう人は少ないだろう。

おそらく、「日本人の意識」が最も強い県民性を持っているのは、現在の沖縄県民であろうし、それだけに戦後、基地問題など極端に負担を強いられてきたことへの反発も強いと推察される。

さはさりながら、琉球併合自体が武力併合であった事実は疑いようもない。ここに国際法上の違法性があるわけで、琉球独立派はこの一点を持って、日本に対して謝罪と独立認可を求めているわけだ。しかし、武力併合は違法であり、侵略にほかならないのだが、ここに落とし穴がある。

まず、清国が施政権を放棄したこと。そして、当時琉球に関心を持っていた列強が、あの段階ではまったく皆無であったこと。琉球人が日本の併合に抵抗しなかったことなどから、犯罪要件そのものが、存在しなかった。被害者がいなかった、ということである。

国内法であれば、たとえば道路交通法違反のように、被害者がなかったとしても、飲酒運転は違法である。しかし、国際法は紛争解決のための法であり、当時の琉球併合に関して、紛争はなかった。琉球王朝だけが抵抗し、日本が武力併合したわけだが、王国を存立させていた民衆が王朝を支持しなかった。自分たちの権益が失われることで、狼狽と醜態を露にした王朝官吏は、明らかに民心を失っていたのであり、日本の武力併合に沖縄民衆の本質的反対の意思があったとはみなされない。つまり、実質的な紛争が無かった。

以上、朝鮮と琉球の併合の経緯で比較してみると、日韓合邦が琉球以上に合法的な手続きを経て成立したものであったことかが、よくわかる。

5 韓国で何をしたのか

これが最終です。

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またも繰り返すが、ここで長々と行っている議論は、日本による韓国併合が、韓国人にとって幸せなことであったか、不幸であったかという話ではない。これは、また別の議論である。

実際、9年後の1919年に三・一運動という独立運動と、騒乱が発生している。多数の死傷者もでている。もともとは平和的な街頭デモ運動であったが、次第に暴徒化した。ここでも、その被害者数に関して、韓国では極端に膨張した捏造数値を挙げているが、もっとこの点は科学的に精査するべきだろう。しかも、このような暴動はこれが一回だけで、日本の敗戦まで26年間、後は一度も発生していない。

※せっかくなので、先回紹介したイザベラ・バードの「朝鮮紀行」から、抜粋した文を以下に記しておく。日清戦争後、中国からの独立を果たしたものの、大韓帝国が相変わらず外国勢力と結んだ権力闘争に明け暮れ、にっちもさっちもいかない状態になっていたころだ。ちょうど日露戦争前という、微妙な時期の脱稿である。日韓併合はその後である。

「予断は危険であるが、つぎのことは言える。もしもロシアが現在見通されるような遅々とした展開に満足せず、朝鮮に関してなんらかの積極的な意図を明示するつもりであるとすれば、日本にはその車輪にブレーキをかけるくらいの力は充分備わっている。 とはいえ、朝鮮がひとり立ちをするのはむりで、共同保護というようなきわめてむずかしい解決策でもとられないかぎり、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない。・・・ざっとではあるが、以上が一八九七年末時点(日清戦争の2年後、日露戦争の7年前)での朝鮮における政治情勢である。朝鮮は長くつづいた中国との緊密な政治的関係を断ち、日本から独立というプレゼントをもらったものの、その使い方を知らずにいる。イギリスは見当がつかなくもない理由(ロシアの南下進出が、朝鮮半島において日本といずれ衝突するだろうという推測)から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない(つまり、投資の魅力を感じていない)。そして朝鮮の領土の保全と独立は、極東における利害関係が敵対しているといって語弊があれば、対立している帝国主義列強のなかでも、最も辛抱づよい国(日本)と最も野心的な国(ロシア)のなすがままとなっている。朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのはじつに残念な思いである。」

これが、当時の朝鮮半島の自治能力の無さを正確に述べた、きわめて平均的な国際認識だったといっていい。西欧列強は、当時それ自体が国際法であった。力の正義が優先される帝国主義の時代である。戦争自体も、合法なものであった。ここは重要である。「戦争は合法」であったのだ。戦後、「戦争は非合法」という概念が生まれてからの常識で、当時を良かった悪かったと評価するのは、間違っている。少なくとも、それは歴史学ではない。各国がそれぞれの事情から、日本の韓国併合を認めたのは、当時としては実に自然で合理的な結論だったのだ。当時の常識からすれば、である。

日露戦争の結果、日本政府筆頭元老の伊藤博文は、当初から韓国併合には反対であった。自治能力の無い韓国を保護国として日本が支援し、後年、それが熟した暁には、韓国は独立を果たし、日本が提携できる強力な友邦国家になっていくことを理想としていたようだ。しかし、いったん韓国との合邦運動が動き始めると、その流れに抗し切ることはできなかったと推察される。実際、当時の大韓帝国の有様では、とてもそこまでおぼつかない、という現実判断もあったかもしれない。最終的には、合邦に異を唱えていない。

その代わり、首相を歴任したほどの伊藤が、自ら格下げといってもいい、朝鮮統監として韓国に乗り込むことで、韓国のとめどもない日本化に一定の歯止めをかけておこうとした。伊藤が存命であったなら、まだわずかにせよ、韓国の独立というシナリオは残されたかもしれない。当時、最終的には合邦賛成に大きく傾斜していった世論の中で、伊藤の考えというものは希少であった。

皮肉なことに、合邦反対の志士・安重根は、伊藤を合邦推進派と誤解して暗殺したわけだ。伊藤が、死の間際、暗殺者が朝鮮人であると告げられて、「馬鹿なやつだ」と言い残して逝ったのは、このためだ。この安重根の壮挙と伊藤の死で、確率は少なかったとはいえ、韓国が保護国の立場から、最終的には独立を果たす機会は、皮肉なことに失われてしまった。

従って、安重根の行為は、誤解に基づくものであり、結果的に韓国の大日本帝国化を加速させる効果を持ってしまったのだという事実も、はっきりさせておくべきである。言い方を換えれば、安重根は本人の情熱や意図とは反対に、韓国の大日本帝国化を「手伝った」ようなものである。

最後に、併合前の李氏朝鮮と、日本統治後の終戦時における朝鮮の比較ということで、いったい日本が朝鮮でなにをしたのか、一覧に供してみよう。

1 封建的諸制度、因習の廃止・禁止
●身分制度とそれに伴う特権や差別の廃止。
●奴婢の解放 (人口の30%)
●両班(ヤンバン、貴族)の特権廃止
●女性の解放(名前を奨め、再婚を許可)
●衣服の自由化(着色した衣料はヤンバンの特権。一般民衆は従って、白い服しか着ることを許されなかった。白が清潔だからではない。色を用いることは禁止だったのだ。なぜなら染料をつくる技術が無かったからである。もっぱら染料と針は中国からの輸入に依存していた。韓国では白は民族の色だと言われたが、それは染色技術の欠落の産物だということを知らないからであろう。)
●瓦屋根や二階建て以上の家屋の制限を撤廃
●人身売買の禁止
●宦官(睾丸の腐割)の禁止
●纏足の禁止
●少女を妓生とすることを禁止
●呪術的医療の禁止(朝鮮巫術の禁止)

※伝統的な女性のチマチョゴリの禁止と女性の社会的地位。
現在、韓国文化の代表的なものである女性の韓服・チマチョゴリだが、これは、日本統治以降に一般化したものである。
李氏朝鮮時代には、「女性は胸を覆い隠してはならない」という禁令があった。(理由は、ご想像にお任せする)老人は白の布で胸を隠すことが許された。
この禁令と男尊女卑思想の影響で、両班の求めに応じて胸を露出し、応じなければ殺される例もあった。
また韓国人女性特有のキーセン文化伝統が何世紀も長く続いたため、自らも露命を繋ぐために両班を誘惑して妾になるか、あるいは中国に献上されることを誇りとしてきたために、自ら胸を露出して両班を誘惑して妾になった。
最終的には日韓併合期に女性が乳房を露出する事を禁止されたため、ようやく韓国女性は胸を覆いかくすようになった。
つまり、伝統的チマチョゴリとは、現代のものと違い、胸を露出している形式のものだった。実際、韓国併合前の写真では、女性はみな胸を露出している事実が確認できる。
男尊女卑の李氏朝鮮では、女は、子を産む道具でしかなく、結婚する時には、“試し腹”で「不良品でない事」を確認され、結婚しても、後継ぎである長男を出産しなければ、女(嫁)としての価値がないという、女性蔑視の考え方が根強かった。
もちろん日本も封建制が残っていた間は、この風潮や傾向はあった。が、かくまで女性を隷属的な地位に貶めることは無かった。江戸時代、庶民においては、それどころか完全に「カカア天下」であったのは事実である。
李氏朝鮮時代に女性が胸を出すというのは、単にセックスアピールのためという、現代社会でもありがちな風俗のような話とは、土台次元が違う。根本的な女性蔑視という文化性である。
だからといって、現代のわれわれの良識をもって、李氏朝鮮時代を非難するというのは、これまた筋違いである。日本にも、振り返れば、いくらでも今のわれわれからみて、不可解な習俗というものは、いくらでもあったのだ。
ちなみに、日本の女性というものの位置づけは、たった一つの例を挙げれば事足りる。
世界最古の女性の手による長編小説は、平安時代、紫式部の「源氏物語」である。封建時代であろうとなんだろうと、日本において、女性が、ただの「モノ」であったら、こんな事実はありえない。
しかも女性の文学は、清少納言(せいしょうなごん)、藤原道綱母(みちつなのはは)、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)、和泉式部(いずみしきぶ)など排出しており、完璧なジャンルである。このような例は、世界史的にも最古であり、ほかに存在しない。
中国においては、朝鮮半島同様、女性蔑視であったから社会的地位はなく、こうした女流文学は洋の東西を問わず、17世紀以前、世界中で日本以外は皆無である。

2 近代的経済法制の導入
●私有財産の保障(所有権制度の整備)
●土地測量と地籍の確定 (墳墓など0.05%位が未申告地として残った)
●近代的企業制度と商法の確立
●通貨制度の整備
●度量衡の統一

3 近代的社会制度の導入
●罪刑法定主義を徹底(私刑の禁止)
●残虐刑を廃止
●行政の単位をそれまでの一族から、家族(氏)に規定(これが創氏の目的)日本名にさせることではないし、日本名を強制したこともない。
●家長の権限を制限
●地方の行政長や議員の選挙による選出

4 教育・医療の近代化と普及
●小学校5,000校以上、大学など高等教育機関1000校以上を建設
●ハングルの整備と普及

(注釈:日本統治によって、韓国では言語を奪われたととんでもないことを言う人がいるが、大間違いである。ハングルは、李氏朝鮮では卑賤な文字として忌避され、まったく使われていなかった。これを福沢諭吉らが発掘して、教科書まで作って、韓国人に教育し、識字率を一気に引き上げたのである。日本統治時代のハングルの国語の教科書を見るがよい。)

●西洋医学や衛生思想の普及、
●疫病の防除と罹患者の隔離、
●医療施設の整備

ということで、5回も連続で、朝鮮半島支配の歴史とは一体なんだったのか、いろいろ調べてまとめてみたが、もしかしたら間違っている部分はあるかもしれない。が、ほぼこのようなことだったと言えそうだ。

少なくとも、日帝支配時代のことを議論するときには、客観的な事実を踏まえるという意味では役に立ちそうな気がするが。