自由か、しからずんば死か

政治・経済, 歴史・戦史

これは430回目。ファシズムとはなんでしょう。ことばが曖昧です。議論するときには、やはり定義づけが最初に必要なのではないでしょうか。

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何かとうるさいのだ。隣の半島や、中国、ロシアなど、だいたい決まった国が、日本のことを執拗にファシズムとか、ファシズムの復活とか、歴史を反省していないとかいうのである。

ファシズムという言葉の定義は非常に曖昧につかわれている。もともと戦前、ムッソリーニのファシスタ党に始まるこの言葉は、独裁的な敵を侮蔑するときに使われることが多いが、独裁的でなくても侮蔑的に使われるのである。ほとんど言葉に意味はない。

したがって、ここで改めてこのファシズムというものを定義づけて、どこの国がファシズムであり、それに対するNoという意志表示をはっきりさせておこう。

まずファシズムという言葉だが、これはイタリアのムソリーニが、共産主義でも資本主義でもない「第三の道」として打ち出したものである。

国家主義的な独裁を永遠の統治原理としつつ、資本主義のエネルギーを抑圧体制を活性化するために利用するというのが、その「第三の道」だった。

ドイツのヒトラーも、社会全般の統制を強化する一方、経済については一定の競争原理の維持を図った。国民全体を国家主義化すれば経済の国有化は必要なくなる、という言葉をヒトラーは残している。

ヒトラーとムッソリーニのファシズムの大きな違いは、人種主義の有無だ。ヒトラーは明らかに人種主義であったが(ゲルマン主義)、ムッソリーニンにはその要素はなかった。

しかし、人種主義が無くとも、ムッソリーニのイタリアはファシズム国家であった。人種主義があるかないかは、独裁権力を過激化させるかどうかの「触媒」である。その触媒とは、ナショナリズムである。

ただ、ナショナリズムは無い国のほうがめずらしい。そんな国はほぼ存在しないといっていい。ナショナリズムが過激化し、他民族の居住者を国家的に迫害するようなことが、ファシズムの要件ということになりそうだ。

ムッソリーニのファシズムにあまり人種主義の色が強くないのは、なんといっても『世界のローマ』であるという、あまりにも偉大な世界帝国の過去があったからかもしれない。「ローマ」という概念は、民族でもなければ、国家でもない。それ自体が「世界」であり、そこに居住するものは「コスモポリタン(世界市民)」であるという認識がかつてあったためなのかもしれない。

話を戻すと、ファシズムを激化させるナショナリズムの一番端的な例が、「強制収容所」の存在である。ヒトラーのドイツにはあった。スターリンのソ連にもあった。そして、現在の中国にも漢民族優越主義があり、同時にイスラム教徒を100万人とも、200万人ともいわれるほど大量に収容しているキャンプがあるから、この要件に該当する。

アメリカでさえ、一時的にはそうだったのだ。第二次大戦中、アメリカには12万人の日系人を強制収容所に入れていたという、恥ずべき汚点がある。それも法律によってではない。ルーズヴェルト大統領による、大統領令に基づく措置だ。ファシズムとはこのことである。

ドイツ人用の収容所はなかったにもかかわらず、日系人収容所はあったのだ。それは、いかに当時、アメリカが日本軍の米国本土来週をヒステリックに恐れていたかということの裏返しでもある。もちろん、黄色人種へのいわれなき蔑視はあったろうが、それだけなら収容所などつくりはしない。

現実に迫る恐怖として、日本軍の米国本土襲来という妄想があったのである。ドイツ軍がいかに破竹の勢いで欧州大陸を席捲していても、米国本土に来週するなどという妄想は、ほとんど無かった。

したがって、第二次大戦中、一時的にはアメリカはファシズム的になっていたということは間違いないのである。もちろん、一時的なものである。

翻って日本には、明治時代以降、一度もこの非日本人に対する強制収容所は存在しなかった。その意味では、ファシズムを過激化させる触媒の要件は、皆無だったということになる。個々の日本人が、半島人や中国人を蔑視したり、迫害したりすることは日常的にあっただろう。恥ずかしいことだ。しかし、国家的・組織的に第三国人を強制収容するなどという発想は皆無だったのである。むしろ逆で、(良いか悪いかは別として)民族の違いはあれ、同じ「日本国民にしてしまった」のである。

まとめてみよう。

ファシズムの基本要件とは、独裁である。市場経済を都合よく「利用」しながら利益を収奪し、全体主義的な政治を、強権的に、暴力的に遂行する政治体制のことだと定義づけよう。それを活性化させる触媒が、ナショナリズムであり人種主義である。具体的に形に現れるのは常に強制収容所である。

中国はどうだろうか。

毛沢東の時代は原始共産主義であった(スパルタやアテネの時代を夢見た毛沢東の妄想が、大躍進政策や人民公社運動などを巻き起こし、とんでもない国家破綻の危機を招来したのだ)。

その後は鄧小平以降、現在に至るまで、中国は市場経済を実にうまく「利用」しながら、全体主義的な政治を、強権的に、暴力的に遂行する独裁国家となっている。

それはインターネットと科学技術によって、かつてないほど周到に作り上げられた監視国家でもある。

しかも、その独裁を過激化させる触媒要件である「強制収容所」が存在している。ほぼヒトラーのナチズムに酷似した状態だといっていいだろう。

これに対して戦前の日本は、ファシズムとよく言われるが、継続的な独裁権力は一度も存在しなかった。軍の内部ですら、中国侵攻に関しても、対米戦争に関しても、意見が大きく割れていたくらいである。中国には習近平政権に対する反対意見は存在しえないが、戦前の日本は反対意見の氾濫であった。喧々諤々だったといってもいい。

戦前の日本には、反対派を強制収容所に入れてしまう国家的システムも一度も存在しなかった。当時、アメリカのような自由と民主主義陣営と共闘して、日本を叩き潰したソ連や中国より、日本のほうがはるかに社会の自由度は高かったということになる。つまり、ファシズムではなかったのだ。

皮肉な言い方をすれば、一時的にファシズム化したアメリカが、純然たるファシズム国家であったスターリン・ソ連や蒋介石・中国と結び、非ファシズム国家の日本を叩き潰したという構図になる。

ただ日本も最大の失敗をしている。外交政策的に、ファシズムのナチスドイツと組んだということは、致命的な失敗であろうし、汚点であろう。これを推進した松岡外相や外務省の当時の「革新派」の責任はぬぐい切れないほど大きい。

アメリカは戦時中、その恐怖感から一時的に日系人の強制収容所を設置したものの、戦後この過ちを認めている。こういうところはアメリカの素直なところだ。ソ連(今のロシア)や中国は、絶対にファシズムの要件を満たしていることを認めようとしない。政権が倒れ、その虚実が暴かれるまで、歴史の捏造と歪曲が続くことになる。(もっとも韓国のように、政権が倒れても、自国に都合の悪いことは隠蔽し、歪曲し続ける可能性もあるが)

日本は、誰と手を組むかというときに、二度とファシズム国家とは手を組んではならないという国家的な誓いを立てるべきだろう。反ファシズム宣言とでも銘打って、アドバルーンでも上げたほうがいい。

日本をファシズムだという真正ファシズム国家群に対しては、むしろ「反ファシズム宣言」を突きつけたらいいのではないか。そういう芝居というのも、政治には必要なのだ。それも執拗に行い続けることが重要だ。それが外交という怜悧な世界の常識だからだ。

さてこうなると、継続的な独裁政権であること、反政府的な言論統制と暴力的な弾圧をしているということ、さらには人種的な強制収容所を持っているということ、三拍子そろった完全なファシズム国家は、現在の中華人民共和国ということになる。

おまけに、建国以来、一度も選挙が行われていないという、自由と民主主義に対する徹底的な反対勢力である。このような国は、現在世界広しと言えども、中国と朝鮮民主主義人民共和国の二か国しかないのである。

おまけにきわめつけは、ナチズム同様、市場原理を最大限に活かして独裁権力の強化に役立たせている点だ。

習近平政権は、新たな記者証の発行について、習近平思想の理解と順守を誓約しなければ、行わないと決めた。

インターネットでの反政府的な発言はすべて封印されている。香港の市民運動を支持したアメリカNBAの人気チーム「ヒューストン・ロケッツ」のジェネラル・マネージャーが、中国政府から糾弾された。

それをきかっけに中国の国営テレビがNBAのロケッツ戦の放送を中止すると決めたのだ。

さらに、中国の大手スポーツ用品メーカーも、ロケッツとの提携を中止、ロケッツ関連グッズの販売をアリババ集団などネット通販大手が中止。どんどん反ロケッツ運動が拡大した。

バスケットボールは、中国で最も人気のあるスポーツだ。ナイキはNBAと切っても切れない関係にあるのだが、中国のナイキ・ストアからはロケッツ・グッズは撤去されている。

そもそもナイキは、これまで米国内で表現の自由や民主主義を守る行動をするアスリートを擁護するスタンスが鮮明な企業だった。政治的問題に積極的にかかわる企業というイメージが定着していたのだ。

しかし、NBA観戦人口が8億人という中国(米国の倍の観戦人口である)での利益を考慮して、ナイキの中国におけるストアでは、ロケッツ・グッズを撤去しているのである。これは、欺瞞であり、自由と民主主義に対する裏切っていることになりはしまいか。

香港の抗議デモをめぐって、アップルがデモ隊に利用されていた地図アプリの配信を、中国政府の非難を受けて停止した。これもどこをみて商売しているのだ、ということになりはしまいか。

ティファニーは、SNS(交流サイト)に投稿した香港警察への抗議を示す女性モデルの写真を、中国からの抗議で消去した。これも人間にとってなにが優先されるべきかという自らの主張を、利益のために放棄したことにならないのだろうか。

これらは、完全に米国企業が中国政府から言論統制を受けていると言っても間違いではない。

しょせん、西側が言う、自由と民主主義というのは、このていどのものなのか。

しかも、昨今流行となっているESG投資の潮流は、こうした自由と民主主義に対する背信行為をする企業から、資金を引き上げる可能性があることを、これらの企業の経営陣は考えたこともないのだろうか。

ESG投資は、ものすごい勢いでファンド業界に拡大している。環境、社会、企業統治を重視する企業への投資が、このESG投資の潮流の精神である。

なにもマイクロプラスチックや公害を垂れ流す企業を懲らしめるために、資金を引き上げるだけではない。

もっと根本的な人権を侵害している企業からも資金を引き上げることになるのだ。つまり、表現の自由や民主主義の価値観を重視しないどころか、それを圧殺する国家権力に唯々諾々と追従する企業から、ESGファンドが資金を引き上げるということは十分ありうるのだ。

つまるところ、利益か、それとも自由と民主主義か、という二者択一の問題だ。中国は、自らを民主主義国家であり、日本をファシズム国家として非難することしきりだが、彼らの言う民主主義とは、中国政府に反対しない限りにおいて民主主義的だという、言わば詭弁でしかない。

そんなものは子供だましの詭弁だということが十分わかり切っていて、なおかつ中国に物を言えない西側企業は、ことごとくファシズムに篭絡され、肩入れをした買弁企業と言われても致し方ないだろう。

利益か、それとも自由と民主主義か。優先順位ははっきりしている。自由と民主主義が保証されないどのような物質的安楽と豊穣も、「人類と歴史に対する敵」でしかない。人間という存在を捨てる選択こそが、ファシズムという世界観だからだ。

とても話は簡単だと思うのだが、どうだろうか。