地震と経済
これは136回目。箱根の山が怒っていると聞きました。何万年だか、何十万年ぶりだかの活動という話も聞きます。粘性が低いので、前回は溶岩が新幹線並みのスピードで横浜近辺にまで押し寄せたといいます。恐ろしいです。
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ずっと長い間、不思議に思っていたことがある。よく時代劇などに江戸城が出てくるが、(姫路城あたりを撮影している)実際の皇居には江戸城がない。空襲で焼けた、という話もない。幕末から明治にかけての古い写真のどれを見ても、天守閣はおろか江戸城そのものがない。いったいどうしたことだろうか、と。
その謎は、ただの不勉強ゆえ知らなかっただけにすぎないことがあとで判明した。もともと江戸城はあり、天守閣もあったのだが、二度、大火にあって焼け落ち、明暦の大火以降は、財政難ということもあって二度と作られなかったのだ。要するに平屋の大屋敷だけが再建され、明治まで残ったようだ。これを江戸城と呼んでいたが、われわれの城のイメージとは程遠い。このことを、頭の隅に置いて、ここから先を読まれたい。
日本列島をたびたび襲う大地震だが、マグニチュード7以上の大地震を列挙したデータによると、平安期以降、連鎖したケースが非常に多いのに気づく。東北、関東、東海、東南海と、およそこの四地域で、数年の間に玉突き状態で発生しているというパターンだ。いったんプレートがゆがむと、そのゆがみは修復するために反動を起こす。それが新たな地震となって現れる。連鎖、である。
慶長年間の大地震(安土桃山時代)では、東南海を発信源として、南海、東海、そして関東でも甚大な被害が出た。江戸時代の元禄・宝永年間の大地震では、関東・房総でまず発生し、4年後に東南海・南海で大きな被害となった。そして幕末の安政年間には、まず関東で起こった。4900人から1万1000人の死者が出たという。
翌年、東南海・南海でも同様の大地震となり激しい被害となった。江戸近辺で4900人から1万1000人というのは、百万人都市といわれていただけに、死亡率は0.5%から1.1%だ。今の東京都民1200万人で計算すると、6万人から13万人が死亡したのと同じであるから、とんでもない災害であったことがわかる。
話を元に戻して、徳川幕府がいとも簡単に薩長連合によって倒された最大の理由は、本質的には幕府に金がなかったということに尽きるのではないだろうか。幕末を控えて、ただでさえ財政難にあえいでいた幕府である。安政の大地震で江戸城(大屋敷)も被害にあい、江戸市中では上記のような惨憺たる有様になっていた。その復興だけでも大変な予算がいるわけで、黒船がやってきて大騒ぎになっていたところだけに、安政の大地震はもしかしたら幕府にとっては致命傷になったのではないか。
とてもではないが、まともに内戦などやっていられる資金力も、気力もなかったに違いない。明治維新というものを、政治イデオロギーで解釈していこうとすると、それはそれで意味があることだろうが、経済的理由についてはほとんどの小説やドラマ、映画などでは語られることがない。存外、この安政の大地震、徳川幕府にとどめを刺した決定的なインパクトを持ったのではないか、とそんな気がしている。
東北地方太平洋大地震からずいぶん年月が経過した。いまだに、現地は復興したと言えない状況だ。そして、東京も不安視されている。気をつけようといったところで、気をつけようもないのだが、首都が直撃された場合、復興需要などという事情で、不幸中の幸いのように景気回復の転機となるなどということがありうるだろうか。徳川幕府のように、とどめを刺されるのではないか、と一人で不安がる今日このごろだ。