かなり重い話

宗教・哲学

これは300回目。このコラムにしては、やや重い話です。死刑の廃止、あるいは存置の議論です。世界的に死刑というのは、廃止の方向になっています。世界中の国のうち、58カ国で死刑は存置されています。米国では33州がまだ死刑存置です。いったい、死刑は必要なのでしょうか、それとも不要なのでしょうか。

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死刑の目的というのは、応報説と予防説(抑止力)と大きく二つがあるわけだが、近代先進国では、応報説はほとんど排除されている(イスラム圏では依然として応報説が主流のようだ。要するに被害者あるいは遺族たちによる、報復の概念である)。今、一般的には予防説が主力となっているが、果たしてそうだろうか。「冤罪(えんざい)」というリスクがこれまた話を複雑化させる。

実は死刑には抑止力がない、という見方も根強いのである。殺人というものを例にとってみると、殺人の圧倒的多数は衝動的殺人である。かっとなって、というやつが多い。かっとなっていても、その瞬間には殺意があったかもしれない。なかったとしても、要するに衝動ないしは、その衝動の延長である。残りが計画的な殺人だ。

衝動的な殺人の場合、およそ死刑になるなどということが抑止力になるわけがない。衝動なのだから。また、計画的殺人の場合、自分だけは絶対につかまらないと思ってやるわけであるから、そもそも抑止力など効くはずがない。つまり、抑止力はほとんど無力だといっていい。

実際、イタリアだったと思うが(間違っていたら御容赦)、その頃、非人道的だということで死刑が廃止されることになった。それでは犯罪が増えてしまうではないか、と存置(死刑賛成)論者が猛反対したが、廃止が決定された。さて、その後だ。死刑がなくなったら、とたんに犯罪が急増した。そのため、やっぱり死刑がなければ駄目だ、といって死刑復活とあいなった。ところが、である。死刑復活後、犯罪はさらに増加したのである。

いったい、これはどうしたことか。つまり、重犯罪の増減と死刑の存置・廃止とはほとんど関係性がなく、犯罪の多くはその社会の経済状態の改善・悪化と深く関係しているという説が出された。私も、どちらかというとこの見方に賛意を表する側である。アメリカの州ごとの犯罪率と経済状態の良し悪しの比較でも、かなりはっきりとこの傾向が見てとれるそうだ。

やはり、死刑の問題は、けっきょく報復の概念という、もっとも原初的な理由に回帰するのではないだろうか。いくら綺麗ごとを並べてみても、最終的には復讐という人間の情念と、報復されるという恐怖と、どこで折り合いをつけるか、ということになってしまうのではないか、と思ったりもする。実際に身内を殺害された側の立場に立ってみると、この報復の概念は、大いに心を動かされる。しかし、「非近代的」ということで、一蹴されてしまうわけで、まったく議論にもされない。釈然としないものがどうしても残る。

極論だが、たとえばこうなら死刑存置論者はどう答えるだろうか? 遺族が自身で刑務官監督の下、死刑を執行するのである。法に基づいた判決に従って、合法的な報復行為ということになるわけだ。さすがに、そこまで議論をしているのを、わたしは見たことが無いのだが、この議論をつきつめれば、そこまでいかなければ議論したことにならないのではないだろうか。

そうは言いながら、私などは、基本的には死刑にどうしても納得できない部分がある。理由はともあれ、まったく無抵抗となっている人間を、国家の名において一方的に殺害するわけであるから、仮に私が刑務官で執行をしなければならない立場のときに、それができるであろうか。しかも、私はその死刑囚の犯罪事件とは無関係なのである。

堂々巡りをするばかりで、いかに考えても答えはでない。戦争であれば回避すべきだが、どうしてもやらなければならない戦争というものはある、とかたく信じている。しかし、死刑となると話は別だ。立場をいろいろ考えてみるが、おそらく死ぬまで答えが出そうにない。



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