言葉に気をつけなさい

宗教・哲学

これは389回目。

哲学ってなんでしょうか? 難しく考えがちです。が、話をとても簡単にしようとすれば、できるものかもしれません。
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初期のギリシャ哲学は、世界を構成する素材に始まり、どう変化するのかという動因まで問いかけた。

なぜ人間が考えるのかという問いに「より深く生きたい、よく生きたい」という欲望があると考え、最高の善の追及を求めた。

すでにこの段階で、後のマルクスや、ニーチェや、フロイトが唱えた「欲望」原理説が存在していたわけだ。

しょせん欧州哲学というものは、プラトンの註釈だと揶揄されたりする所以である。

すでにギリシャの時点で、アリストテレスが、「人知を超えた存在としての神を前提に理論を構築してはならない」としていたが、アレキサンダー→ローマと、巨大な領域帝国が成立していった後、キリスト教が全盛期を迎え、いわゆる中世のスコラ哲学につながっていく。

「神の存在」が当たり前のように信じられていた時代だが、それはギリシャも同じだった。しかし、ギリシャではそれを切り離して哲学自体が存在しようと試みていたのに対して、中世ヨーロッパでは、神と離反しようとする哲学を、強引に神学の中に組み込み、支配していく。

神学の正当化のために、哲学と数学を利用したといってもいいくらいだ。

純粋に哲学ということで言えば、この時代、明らかに後退したわけで、この観点においては、中世はたしかに「暗黒」の時代だったとも言える。その最たるものが、魔女裁判だ。

この中世の、キリスト教神学(と、哲学)が動揺をきたしたのは、十字軍遠征と、イスラム教の世界観の流入によってだった。

イスラム圈で保存されていた古代ギリシャの文献がヨーロッパで改めて広く読まれるようになり、神ではなく、人間そのものへと問題の確信が移っていく。人間への回帰。つまり、ルネッサンスである。ヒューマニズムといっても良い。

これによって、プロテスタントが勃興し、キリスト教徒の間で、カトリックとプロテスタントが、骨肉相食む長い争いへと発展していった。宗教戦争の時代だ。

この混乱期、両者の主導権争いの隙(すき)を衝くように、コペルニクスやガリレイ、ニュートンといった自然科学の世界観が生まれてくる。

この自然科学の発展とともに、大いに刺激される形で哲学が黄金期に突入していく。中世の神という呪縛から解き放たれていく。

「我惟(おも)う。故に我あり。Cogit ergo sum」と述べたデカルトに始まり、パスカル、スピノザ、ライプニッツとおびただしい哲学者が誕生し、・・・やがては近代のカント、ヘーゲル、サルトルへと続いていく。

基本的に哲学というのは、「なぜ」という問いをし続けることそのものだといってもいい。逆に言えば、それぞれの時代に、その常識が通用しなくなるとき、都度、哲学が新しく衣替えをして生まれてきたのだ。

ちなみに、哲学とは知識ではない。本質を問うこと、批判することである。
だから、信じるものではない。ある流派を信じるということは、すでに哲学にとっては矛盾になる。

つまり、哲学とはなにも高尚なことでもなんでもなく、わたしたちが日日考えること、そのものなのだ。

だから、呑気にぼんやりと、社会に敷かれたレールの上で漫然とした生活をしているのでは、哲学というものが無いのに等しい。

なぜだ、という問いが繰り返され、はじめて人間は「進歩」らしい一歩を、すすめることができる。それは進歩ではないのかもしれないが、現状打破を目指していることだけは間違いない。

プラトンたちが思った、「より深く、より良く生活」への希求だ。

そしてここに哲学のキモがある。つまり、賭け、である。
パスカルは、神の存在を巡る賭けを人々に投げかけたが、それが神でなくともなんでもいいのだ。結局、わたしたちが「なぜだ。これでいいのか。」という問い賭けをする先には、新たな選択、つまり賭けをするかどうかに結局行きつく。

日本には哲学が無い、とよく言われる。とくに戦後である。
西田幾多郎、鈴木大拙、和辻哲郎といった巨人の後、哲学はもう育たなくなった。

ひたすら、当世術と化した技術論の域を出なくなってしまったのだ。はては、ノウハウ本の大流行が最たるものだろう。

これは、結局、思想の賭けを日本人がしなくなったからにほかならないと想う。
失敗を恐れる社会風土が、蔓延し、定着してしまったのだろう。

もしそれが、敗戦による効果だとするなら、なんというとんでもない敗戦をしてしまったのだろう、とつくづく残念である。哲学は今や日本では、時代遅れの役に立たない言葉の遊びとしてしか認識されていないようだ。

極端な話、改革や改善はあっても、革命が無いということは、哲学が無いということと、同じなんだろう。

世界を構成する素材に始まり、どう変化するのかという動因・・・それを現実の生活の中で、常に自分に問いかけつづける。ものごとの本質はなにか、ということだ。

それはやがて言葉になる。

マザー・テレサの言葉が遺っている。

・・・
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
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