ご利益の話~一応、ツボがあるようで

宗教・哲学

これは47回目。ご利益の話です。一応、それにはツボがあるようなのです。

:::

苦しいときの神頼み。高邁な哲学や崇高な信仰というのは分かるが、しょせん浮世でのたうち回るのが人間。神仏には、苦しいときにすがるという形でしか、お世話になろうとは思わない。とはいえ、一応、作法というものはある。こちらのお願いを聞いていただくわけだから、尊重したほうが無難だ。

ここに書くのはすべて「受け売り」だが、それなりの人たちが言うことだから聞いておいて損はない。ただ、初詣などは絶対しない、という人は馬鹿馬鹿しくて読んでいられないかもしれない。その点、あらかじめお断りしておこう。

基本的に神仏には、生きた人間と同じように向き合えばよい。たとえば、よく観光先で神社に参拝したりするが、神様の立場になってみればよく分かる。見知らぬ奴が突然やって来て、勝手なお願いをしていく。「なんだこいつ」、と神様は思うに決まっている。

もともと神社と寺は、千年にわたり2つで1セットになっていたが、明治の分離政策で違うもののようになってしまった。ただ、共通しているのは、「有難うございます」と、ひたすら感謝するに越したことはないという点である。誰だって、「有難うございます」と何度も真摯に頭を下げられれば、悪い気はしない。

何に対して「有難う」なのか、そんな理由はどうでもいい。ただただ、「有難う」なのだ。西行法師が歌ったように、「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」。それで、いいじゃないか、と思う。疑うことにはいくつもの理由があるものだが、信じることに理由などいらない。

この「有難うございます」は日拝(にっぱい)と言って、朝が一番良いとされている。太陽の光を浴び、大きく深呼吸をして、「有難うございます」から一日が始まる。そして、夜寝る前も同じ。その日、どんなに嫌なことがあっても、「有難うございます」なのだ。きっとそれには、何らかの意味や縁があるのだという。

ご先祖様の御霊璽(ごれいじ)でも神棚でも、仏像や仏画、曼荼羅(まんだら)でもなんでもよい。頼みとするときは、お供えをする。このお供えは、もちろんあちら(霊体)が果物やお菓子を食べるわけはない。しかし、喜ぶことはあるようだ。そこに波動が生まれる。大事なのはこの波動である。簡単なものをお供えするだけで、この波動を生み出すというのだ。

密教では、この「有難うございます」が最高の真言(マントラ)だとさえ言われる。何かにかこつけて、とにかく「有難うございます」で拝み倒す。この「拝み倒す」というのは、修験あたりでは常套手段となっているらしい。ほぼ、強談(ごうだん)に近い。禅宗あたりになると、神仏をあからさまに恫喝し、本尊を縛り上げ、鞭で叩いて、文字通り脅しで本願を成就させるという例もあったりするから驚く。それも、霊験名高い名僧がやったというのだから、二度驚く。

ふつう、お願いごとがあるとき、誰しもやりがちなのがご利益のありそうな神社仏閣へ行って、お守りやお札を買ってくるというのがある。得てして、モノを増やそうとするのは人間の性(さが)とも言えるが、逆に身の回りのものをどんどん捨てて、綺麗に掃除すれば、お守りやお札を増やす以上の効果があるという。増やすのではなく、減らすところがミソらしい。とくに床から30cmの間はことさら清潔にしておかなければならないという。あとは水周りだ。それだけで、下手なお札を飾るよりよほど運気が変わるというのだが。

お願い事をするのはご先祖様というのが、古来日本人の基底に流れる宗教観だろう。お墓参りは励行したほうがいいらしい。昔の日本人は、自分の中の厄を処理するのに、上手にお墓参りを使った。ちょっと問題があると、お墓参りをして厄を置いてきてしまうのだ。このとき重要なのは、お墓に直行するのではなく、まず本堂にあるご本尊にお参りすることだという。

ところで、ご本尊とは何か。生者の思いは、パワーが足らなければご先祖様に届かない。そこで、ご本尊に頼んで、自分の思いをご先祖様に巡らし、届けていただこうというわけだ。この「巡らす、回す」という意味合いで使われている言葉が、「回向(えこう)」である。だから、ご本尊なしに、回向は有り得ない。ご本尊を素通りしてお墓に直行するのを、「片参り」と呼ぶ。

一方、神社のほうはどうだろうか。一般に、有名な神社に行きたいというのはこれまた人間の性なのだが、いかに有名な神社であろうと、自分が縁もゆかりもなければ、先方にしてみれば「一見の客(いちげんのきゃく)」でしかない。一番力になってくれるのは、自分が生まれたり育ったりした地域の地主神(じぬしのかみ)だ。田舎なら、鎮守とも呼ぶ。自分の住所で、神社本庁に問い合わせると、すぐどこの神社が地主神か教えてくれる。

この地主神というのは、今住んでいる場所でも同じこと。そして、この地主神こそ、(それが稲荷だろうが、八幡だろうが、天神や熊野だろうが)自分の感謝を一番うれしく思ってくれる神様であり、お願いをよく聞き届けてくれる神様なのだそうだ。小さい、大きいは関係ない。

ただ、宮司のいない神社は要注意らしい。別のものが潜んでいたりすることがあるので、あまり普段から近寄らないほうがいいという。また、神社へ詣でるなら、午前中がいいそうだ。午後3時以降は、宮司のいる神社でさえ、魔物が降りてくるとさえ言われる。いずれにしろ、お寺と違って、神社は怖い。仏様(如来、菩薩、明王など)は、徳を積んだ霊体だからまずもってバチを当てることはない。しかし、神様の中には、怖い神様もたくさんいる。正直、それは神なのか、魔物なのか、線引きが難しいものも多々ある。ご機嫌をそこねるととんでもないことになる。だから、一説にそうした魔物が降りてくるとも言われる夜間に、犬の散歩やジョギングなどで神社に立ち寄るなどもってのほか、ということになる。

神社でお札をいただいてくるのは結構だが、あれもこれもはまずい。三社形式というのがあり、基本的には神様1柱を頼みとするのが一番良い。祀っても三社まで、だ。頼まれるほうにしてみても、自分1柱だけを頼りにしてもらえると思えば、うれしい限りだろう。お札では満足できないという向きには、自分の家に神社を作ってしまえばいい、という方法もある。お札というのは、基本的に神様とつながるための「窓口」のようなものにすぎない。

しかし、神社そのものを一般家庭にお祀りしたくとも、それが現在可能なのは、残念ながら稲荷だけである。「稲荷勧請(いなりかんじょう)」といって、稲荷信仰の頂点に立つ京都の伏見稲荷にいけば、何万円かで「御霊(みたま)分け」といって、神様そのものに自宅に来ていただける。家にそれを祀ると、それはただのお札ではない。神社そのものである。これで日本中、ビルの屋上だろうが、庭先だろうが、やたらと稲荷の祠が多いのだ。自分の家に勧請した稲荷は、一つの立派な稲荷神社であるから、○○稲荷と、固有の名前をつけてもかまわない。ところでよく狐を稲荷と間違えている人が多いが、狐は稲荷神の眷属(お使い)である。日枝神社の眷属が猿、八幡神社は鳩、熊野神社が烏、鹿島神社が鹿というのと同じだ。

信仰というのは、つまるところ「思い込みの産物」とも言われる。不動明王を毎日拝んでも、じつはそこには不動明王に相当する霊体はいないかもしれない。ただ、毎日毎日一生懸命にお祈りをしていると、横で見ていた別の霊体が、人肌脱いでくれることもあるらしい。

ちなみに、お寺や神社にお参りをした場合、自分の名前、住所を最初に述べることを忘れずに。ご本尊にしても、神様にしても(要は、どっちも霊体なのだが)どこの誰兵衛か名乗ってもらわないと、区別がつかないらしい。ご本尊や神様たちの仕事というのも、そう考えると大変だ。



宗教・哲学