あなたは保守ですか、リベラルですか

宗教・哲学

これは53回目。保守とリベラル。わかったような、わからない区別。一見、前者は時代錯誤、後者は進歩的ととらえられられがちですが。わたしはリベラルが掲げる理念を決して否定はしませんが、どちらかというと疑い深いです。保守に近いかも。あなたはどちら?

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保守とリベラル。
この二つの言葉は、いかにも反対語のように扱われているが、実はもともとは全然次元が違うのである。

政治学の世界では、結構定義は曖昧だ。基本的には保守というのは、伝統や手続きを重視する。この点ばかりが強調されてしまたったためか、戦後の自民党の政治色と同一視された。

一方、リベラルは、個人の自由を重んじ、国家の役割をできるだけ小さくしようという立場だ。基本的には資本主義を基礎づけるような概念がリベラルなのだが、日本では戦後、自民党=保守の対抗軸として使われてしまい、たとえば憲法は改正反対、再軍備反対といったような平和主義と同義かのような意味合いになってしまっている。

アメリカではどうかというと、政治学では、保守というと、きわめて宗教とのかかわりが深い使われ方をする。アメリカでは伝統的な宗教(プロテスタント)を背景とした社会規範を重視するのが保守であり、したがって人工中絶には否定的である。リベラルはこれに対して、少数派の権利を重んじる。カトリックや黒人、あるいはLGBTの人権などにも「少数派の権利」は拡大していった経緯がある。現在は移民(イスラム教徒)の人権だろう。人工中絶も容認する。

今まで述べてきたのは、あくまで政治学上の両者の違いである。が、そもそもリベラルというのは、権力者から価値観を強制されることを拒否するたちである。つまり、権威をかざした強権政治的な立場がリベラルの敵である。

保守というものは、もともと常識や経験知、慣習といった文化を重んじる考え方だ。それは文字通りなのだ。どこに原点があったかというと、フランス革命である。

フランス革命は、その理想主義的なイデオロギー(自由、平等、博愛)を標榜したものの、どんどん理念追及に急進的となり、最後はカトリックを弾圧し、「理性の神」という神殿までつくる始末。挙句の果てには恐るべきジャコバン党による独裁と、理念に逆らう者をことごとく監獄にぶち込み、連日の断頭台送りなどの恐怖政治を生んだ。

当時の人口は2700万人。革命期間に恐怖政治によって処刑された人間は推定60-80万人。2.2%に相当する。このうち、ギロチン(断頭台)による処刑者数は16600人ということだ。保守という概念は、このとき、革命というものに疑念を抱いたところから生まれた。

保守は、フランス革命のように合理主義を突き進めば、きっと良い社会になるという左翼に多い思想を総じて疑う。理想主義、理念重視のイデオロギーというものに対する、生理的な懐疑論、それが保守である。その根底には、「人間は、間違いをおかす可能性が常にある」という経験知があるからだ。

では経済学では、保守とリベラルはどういう区分になっているだろうか。また全然話が違ってくるのだ。保守というのは、政府や国家の関与をできるだけ抑えて、市場に委ねようというスタンスである。小さな政府を目指す思想である。

一方リベラルは、政府や国主導で、需要をつくれるような大きな政府を志向する。このように経済学では、完全に逆なのである。しかも、厄介なのはリベラルである。政治学的には、個人の自由や人権重視をするために政府や国家の力を削ごうとし、経済政策では社会舗装などでは政府や国家の力を強化しようとするのである。つまり、リベラルというのはその理想主義はともかくとして、在野にあるときには反政府的になりやすく、権力を握るといきなり強権的になる嫌いがある。それが、理想主義的なリベラルというものの、宿命なのであろう。

保守はその点、理想を疑うから、在野にあるときと、権力を握ったときとで、行動原理はそう大きく変わらない。

さて、どうだろうか。はたして自分は保守なのだろうか。リベラルなのだろうか。自分でもよくわからない。ただこのように定義をいろいろと確認してみると、どちらと決めないほうが良いような気がする。どうしても、具体的な政策を巡って、矛盾が生じてしまう可能性が高いのだ。

となると、一番良いのは、やはり具体的な政策で賛成か反対かということを、個人がはっきりさせることなのだろう。党派やセクトで立場を決めるというのは、常に自分の主張が裏切られるリスクが非常に高いからである。

ということで、果たして政党政治というものが良いのかどうかも、疑問に思えてくる。日本の政治界の惨状はさておき、アメリカでさえ、リベラルは本来のリベラル色がほとんど民心を引き付けることができなくなってきている。理想や普遍的価値ばかり重視することで、現実に起こっている問題に有効策を打ち出せない政党になってきたからだ。

自由貿易という理念を追求した末に、結局、(アメリカの産業自体の怠慢が大きいのだが)それによってアメリカの伝統的な産業は衰退してしまったということもそうだろう。積極的な移民政策で理念を追及した末に、文化摩擦や民族的な衝突、あるいは治安の悪化が恒常的になってきてしまったということもそうだろう。所得格差が極大化し、教育を満足にえられていない階層が増大。これによって、アメリカンドリームが昔ほどは容易ではなくなってきていることもそうだろう。

その結果、前回の大統領選で善戦したサンダース民主党上院議員のように、「社会主義者(反資本主義者)」を自認するような「左翼」が台頭し、いまや米民主党はほとんどこの「左翼」に主導権を奪われているような体たらくである。

リベラルというものの淵源はどこにあったのだろう? つらつら考えるに相当古い。ギリシャ哲学である。

いわゆるフィロソフィスト(哲学者)なるものの走りというのは、古代ギリシャにさかのぼる。どうも数学の「三平方の定理」を発見したピタゴラスではないかと言われているようだ。彼が、哲学者を最初に名乗った人物らしい。

ピタゴラスが死んで30年後に、あのソクラテスが生まれている。どちらも、「数学」や「概念」の優位を打ち立てた人物である。何に対してか? 人間の肉体や自然を一段低く見て、現実よりも概念が上だという考えかただ。

この流れは、プラトンで結晶化される。西洋哲学は、すべてプラトンの注釈だとさえ言われる。

彼らの根本的な思想というのは、イデア論に尽きる。一体こりゃなんだ?

三角形を描いてみよう。分度器で、あるいは定規で、どんなに完ぺきな三角形など描けはしない。微小な狂いが生じるはずだ。この目に見えないくらいの狂いは、どうにもならない。完全主義者がヒステリックに顕微鏡で描こうと、微細の奥の性格さは再現できない。

だから、人間とは完璧ではなくて、完璧な世界というものは、人間には触れられないところに存在する。それをイデアと呼んだ。数学などはその最たるもので、「数式は美しい」という表現は、イデア礼賛の言葉である。

つまり、「幻想」である。そして、これが人間を他の動物と違い、その能力を乗数的に激増させてきた最大の特色ともいえる。

恋愛もそうである。自由も、民主主義も、平等という概念もそうである。しかし、こうしたイデア(理念といってもよい)が、急進的になると、いや、急進的にならなくとも、ただ「あたりまえ」の不文律になってしまうと、すべてただの「タテマエ」と化してしまう。結果的に、自由と平等の名において、統治や世論支配のためのイデオロギーに使われてしまうからだ。

現実を軽蔑し、幻想を賛美する。この哲学の在り方というものは、中世キリスト教によって極限に達する。実際、キリスト教神学の中に、哲学と数学が入っていたのだ。つまり、哲学と数学というものは、キリスト教神学の中の一科目にすぎなかったのだ。

しかし、幻想の中に生きていると、人間はしだいに病んでくる。中世には、教義によって風呂が嫌われていた。だから、不潔極まりないヨーロッパだった。当時イスラム教徒が、「汚きこと、キリスト教徒のごとし」と言っていたくらいである。

生殖も忌むものであり、そうはいっても性欲は抑えられないし、裸になって抱き合うなどもってのほかということで、局部だけ出して性行為をした。まじめな話そうなのである。

いや、生殖そのものすら、忌避されたこともある。実際、わたしの周囲には、熱狂的な聖書原典主義、無協会派のプロテスタント夫婦がいたが、彼らは長いこと子供をつくらなかった。直接聞いたわけではないからわからないが、おそらくなんらかの「方弁(いわゆる屁理屈といってもいい)」に使える概念をつくりだし、それで性行為を行ったのだろう。ようやくにして、かなりの高齢出産で、一人息子を得た。実は子供が欲しかったのである。

もうこうなると、人間は理念の奴隷である。哲学は、人間の支配構造のための幻想ということになってしまう。

だから、フランス革命を境に、このキリスト教的なそれまでの概念が音を立てて崩れてからというもの、今度は自由・平等・博愛という、神の座にとって代わった新たな理念へと、反動的に振り子が揺れた。右から左に大旋回したのである。理念が、神の呪縛から解き放たれて、暴走を始めたといってもいい。

しょせん、理念の奴隷。幻想の勝利である。フランス革命による恐怖政治も、ソ連共産党による大粛清も、中国共産党による文化大革命による大量虐殺もそうである。

「理念の犠牲になった」と言えば聞こえが良いが、ようするに「タテマエの犠牲にされた」だけのことなのだ。

だから、わたしはリベラル特有の、あの理念に酔っぱらったような言動や政治行動というものは、どうも不快でしかたがないのである。保守は、「理念と言うものに対する、言いようのない疑念と不信感」という立場だからだ。こうなると、わたしはやはり保守に近いということになる。

確かにわたしは経験値を重視しているものの、決して理念を否定しているわけではない。世の中は変遷していくのだ。常に新しいものが生まれては、社会を変えてきたし、変えていくだろう。ただ、その理念に対する絶対的な信仰のような情熱は、保守にとっては、「病気」にしか見えない。

さて、みなさんは、自分を保守だと思うか。それともリベラルだと言い切れるか。しょせん答えなどない。



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