日本は本当に日本なのか~稲荷・密教とキリスト教の同源説。

宗教・哲学


これは90回目。いわゆる「トンデモ説」ですが、このくらい突拍子もない発想や、仮説の展開というものが、学派と定説に固執するアカデミズムには必要なのではないでしょうか。

:::

まだクリスマスは遠いのだが、クリスマスとはご存じの通り、イエス・キリストの誕生を祝う祭である。このキリスト教、日本の歴史や文化からしてみれば、あきらかに「よそもの」という位置づけだが、本当にそうだろうか。日本の古い精神史や価値観に、多大な影響を与えていた可能性があると、民間の研究者の間で議論されていることを、いささか非力ながらまとめてみた。

その鍵を握っているのが、日本古代史に忽然と姿を現す秦氏(はたし/はたうじ)という一族である。応神14年( 283年)に渡来したと言われる集団だが、はっきりしたことは分からない。秦の始皇帝の末裔とも言われたが、付会(こじつけの類)であることは疑いない。いずれにしろ、その出自は、まったくの謎である。神奈川にも上陸しており、秦野という地名もこれにちなんだものだ。

付近には高麗神社が多く、その傍証ともなっている。が、朝鮮民族ではない。漢民族だとも言われているが、これもはっきりしない。ウィグルや西域、トルコ系といった説まで諸説紛々である。養蚕、機織、治水とさまざまな技術を持ち込んだことから、朝廷から重用され、一大勢力を成した。

ここで取り上げる秦氏の謎の一つは、その氏神のことだ。京都の上賀茂神社、嵐山の松尾大社、南の伏見稲荷、大分県の宇佐八幡などはすべて秦氏の勧請(かんじょう=分霊を他の神社に移すこと)によるものだ。

キリスト教との関係で言えば、この秦氏はヨーロッパで異端として放逐されたネストリウス派の集団ではないか、という仮説がある。当時(唐の時代)に大陸で大流行していたことは、歴史的に立証されている。明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑で、世界的に有名な「大秦景教流行中国碑(782年)」だ。ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などが刻まれているわけだが、この大秦とは、大ローマ帝国の意味である。当時のローマは、東ローマ帝国だ。

この碑文をつくったのは、景浄(ケイジョウ)というペルシャ人である。これからしても、秦氏がいわゆる漢民族ではない可能性のほうが遥かに高い。氏神のなかでもっとも日本全土に広まったのは八幡と稲荷だが(宮司のいない祠・社も含めると全国8割以上が八幡と稲荷である)、八幡はもともと九州では「ヤハタ」と呼んでいたらしい。ヘブライ語の、「ヤハウェ・ハタ(秦の神)ではないか、という。ヤハウェとは、キリスト教の唯一神である「エホバ」のことだ。秦氏がネストリウス派であったとしたら、十分に考えられる。

また、稲荷というのも、後年、空海(弘法大師)が教王護国寺(真言密教の最初の総本山、京都の東寺)を開いたときから伏見稲荷と深く関わっており、この「稲荷」の字を当てたのも空海である。伏見稲荷を、東寺の守護神にもしているのだ。年に一度、伏見と東寺の間では、神輿(みこし)が出る。東寺の中の八幡の社まで行き、再び伏見へ帰るのだ。密教(空海)と稲荷と八幡。この異様な組み合わせは、いったい何なのか。

穀物の神とされたが、それは稲荷という字を解説しただけであり、稲荷神の説明になっていない。事実、それまでは「伊奈利」と書かれていた。こうした古来の当て字というのは、外来語である。「イナリ」とはそもそもどういう意味なのか。穀物神も、狐もみな後世に後付けされた副産物でしかない。

キリスト教の宗教画を見ると、磔刑上のイエスの頭上に、罪状を書いた木札が打ちつけてあることが多い。「INRI」と書かれているが、ネストリウス派では、「インリ」と読んだ。IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の略で、NはナザレのNAであることから、インリ、もしくはイナリと読まれたようだ。

実は、古代キリスト教がすでに唐の時代、日本では空海の生きていた時代に、すでにもたらされていたのではないか、という仮説がある。群馬県吉井町に、「多胡碑(たごひ)」という西暦711年建立の古碑が存在する。

この古碑について、江戸時代の平戸の藩主であり学者だった松浦静山(まつら せいざん)が、その著書『甲子(かっし)夜話』でそのように書いている。民間の研究者たちの調査では、次のようなことが明らかになっているようだ。

多胡郡の碑にある「羊」という人物の墓から、十字架が発見された。ご禁制の耶蘇教(キリスト教、カトリック)の十字架だ。代官は、長崎のオランダ商人イサク・ティツィングに見せて鑑定させている。だが、キリスト教の伝来は1549年で、「多胡碑」の建立は711年、その差750年。そして、この古碑に刻まれた「羊」なる人物は、いったい何者なのか。「羊」という言葉から連想するイエスとは、確かにイメージがかぶる。

この碑には、次のように文字が刻まれている。「朝廷は、上野の国の三郡から三百戸を割いて一郡を新設し、『羊』という人物に給して多胡郡と命名した。和銅4年3月9日のことで、この命令を扱ったのは弁官(べんかん)の多治比真人」(たじひ まひと)と、「羊太夫」(ひつじだゆう)の伝説が地元に伝わっている。

この「羊太夫」が、秦氏系の人物であった可能性はきわめて高い。この「羊太夫」を祀る神社が名古屋にある。「羊神社」という。創建の由来は、多胡郡の多胡一族が上里見村真野に落ちのび、その後、延宝年間に下秋間字日向へと移住するとともに多胡新田を開発。祖神とする多胡「羊太夫」藤原宗勝公に続いて、享和2年、1802年正式に多胡「羊」霊をまつった。

また、縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、「羊太夫」は秩父で銅を発見している。その功によって多胡郡を賜り、記念に「多胡碑」を建てたとされ、境内にその碑文の「多胡宮羊太夫宗勝神像位」碑がある。

以上が地道な調査を積み上げてきた民間の研究者たちによる成果である。
これらの様々の事象は、「羊太夫」が実在の人物だったことを証明している。戦国時代、武田信玄の最精鋭部隊「赤備え」(あかぞなえ)の一隊を担っていた小幡一族は多胡郡を支配していたが、自らの祖先は「羊太夫」であると公言していた。小幡の名にも「ハタ」が読み取れる。「羊太夫」は優れた養蚕技術を持っていたといい、その他、冶金術・製鉄技術も駆使して農機具をつくったともいう。

古代、朝廷は秩父に、銅銭「和銅開珎(わどうかいちん)」鋳造のための工場を作らせたが、この仕事に従事したのが「羊一族」であり、技術長官が「羊太夫」だった。秩父鋳造の銅は平城京の建設にも使われ、これらの功績が認められて多胡郡の領主になったのである。実はこの「羊太夫」もまた秦氏だったのだ。

こうなると、松浦静山が書き記した十字架についても推測ができる。「羊太夫」が秦氏一族なら、彼の祖先は大陸から来たキリスト教徒なのである。平安時代の書物には、十字架をさして「はたもの」と表現している。 昔の日本には十字架という言葉がなく、これに「機物(はたもの)」、あるいは「磔(はたもの)」の文字を充てたという。元来は「秦の物」という意味だったのではないかという仮説が生まれてくる。実際、秦氏は自らのシンボルとして十字架を使っていた。

松浦静山も、十字架が古代日本の景教徒(ネストリウス派)、もしくは、秦氏のものだろうと推測している。 さらに話は続く。松浦静山の「甲子(かっし)夜話続編」には、驚くべき「続き」があるのだ。この「多胡碑」の近くから、驚くべき遺物の出土が記録されていた。

上野国の羊太夫の碑の傍らから石槨(せっかく=棺を入れる石製の外箱)を掘り出したのである。その中から古銅券が出た。その表題には、なんと「JNRI」というアルファベットを記していたのだ。IとJは同じである。英語で書くと、J(Jesus)だが、ラテン語で書くとIなのだ。残念ながら、この古銅券は、残存していない。明治の神社令発布の頃に、憲兵によって持ち去られたらしい。こうなってくると、八幡はおろか、稲荷までもが、秦氏のユダヤ系原始キリスト教の異端派(ネストリウス派)の崇める神、つまり聖書の神であったという仮説が成り立つ。

考えてみれば、神道系の稲荷には『稲荷大神秘文(いなりおおかみひもん)』)というのがある。冒頭、驚くべき言葉から始まる・・・

・・・夫神は唯一にして御形なし虚にして霊有。・・・

(それ かみはゆいいつにして みかたなし きょにしてれいあり)

つまり、神と呼ばれる存在は、たった一つしかない、と言い切っているのだ。それが稲荷だというわけだ。

不思議に思わないだろうか。日本は、神羅万象あらゆるものに神があり、霊性がそなわっているという多神教の国家ではなかったのか。稲荷だけが、「神は唯一である」と言い切っているのだ。明らかに、わたしたちが認識する日本の宗教の風景とは異なる。しかしそれが、古代キリスト教の流れを汲んでいるとするのであれば、容易に納得はできる。

唐の時代。玄宗皇帝らによって庇護されて、中国には大秦寺(この字は、京都の「太秦」に通ずる)と呼ばれた景教(ネストリウス派)の大教会があった。空海が遣唐使として大陸に渡ったのは、実にその最盛期だ。そこで、先の景浄らの知己を得ており、間違いなくネストリウス派の教理を学んでいる。

実際、高野山真言密教では、儀式の際に、法具を手にして十字を切る不思議な作法がある。誰も、この意味を知らないという。ある知り合いの密教僧は、「まあ、われわれはキリスト教徒の“為れの果て”みたいなものですわ」と、冗談まじりに言ってのけたのを聞いたことがある。

事実、明治末期、仏教を研究するために日本を訪れていた学者のエリザベス・アンナ・ゴルドン(英国人女性)は、先の「大秦景教流行中国碑」のレプリカを高野山に建立している。彼女の結論は、「仏基一元」であった。仏教とキリスト教は、源流は同じであるという説だ。ここでいう仏教とは、釈迦が広めた上座仏教(小乗仏教)ではない。後世勃興して、中国・朝鮮・日本で花開いた大乗仏教である。とくに密教は、このネストリウス派の影響が色濃く出ているという。高野山側も、それ以来、このレプリカを処分していないところを見ると、あながち「火のないところに煙は立たず」なのかもしれない。

(中国の「大秦景教流行中国碑」現物)

(下は、高野山にあるレプリカ、京都で亡くなったゴルドン夫人の墓も横にある)

このテーマについては民間研究者レベルの仮説が多く、学界からは「トンデモ説」として一顧だにされない。が、状況証拠は実はここで紹介した以外にもおびただしいほど存在する。

日本人はアイヌのような先住民族のほか、原マレー人、朝鮮族、漢族、モンゴル族と、数々の他民族の流入によって動乱の古代を経ている。その中に、当時大陸で隆盛を極めたキリスト教を奉じる一族が渡来してきていたとしても、なんら不思議ではない。
日頃、稲荷や八幡を参拝しても、実は古代キリスト教と同源であったかもしれない。

一体、日本とは何なのか? 日本人とは何者なのか? およそ定説として信じられていることの一つ一つが、近年どんどん音を立てて崩れている。実はわたしたちは、まだ日本と日本人の正体を、ほとんど知らないのかもしれない。



宗教・哲学