前世の記憶~記録された最古のルポルタージュ。

宗教・哲学

これは120回目。実話です。きわめて客観的な事実に基づく、ルポルタージュです。信じるか、信じないかはあなた次第。日本における、恐らく記録されたものでは最初の「生まれ変わり」の記録です。

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ときは文政五年。幕末の国学者・平田篤胤(あつたね)が著した「勝五郎再生記聞」という文書がある。平田が、生まれ変わりと称する人物を、詳細にインタビューし、多くの役人、大名までが実地検証を行うなど、断続的に大規模な調査が行われた、当時としては「大事件」であった。しかも、その報告書は、幕府はもちろん、天皇にまで奏上されている。

明治に入ってから、かの小泉八雲も世界に紹介している。すべての登場人物が実在であり、複数の人間によって立証のための調査が行われた、世界的にも稀有な記録といっていい。

文政五年、1822年というのは、ちょうどドイツ人シーボルトがオランダ商館員として、長崎にやってきた頃である(正確には翌年)。黒船がやってきた嘉永6年、1853年は、そこから約30年後である。明治維新は、1868年だから、46年後ということになる。これで、どのあたりの時代かイメージできただろうか。

現在手軽に読めるものでは、岩波文庫の「勝五郎再生記聞」がある。その原文をかみ砕いて、ざっとルポを書き直してみよう。

文政五壬牛年十一月、当時八歳だった勝五郎は姉フサ、兄乙次郎と、中野村の田んぼで遊んでいた。ここでいう「中野村」というのは、現在の東京都八王子市東中野に相当する。正確には小谷田源蔵(父)・セイ(母)夫婦の家に生まれた。

このとき、勝五郎は唐突に兄に向かって「兄ちゃんは、元はどこの誰の子だった?」と尋ねた。これがすべての発端だった。

兄が「そんなこと知るものか」と答えると、また、姉に向かって同じように尋ねた。「どこの誰の子だったかなんてわかるわけないじゃないか。おかしな子だね」フサは馬鹿にしたが、勝五郎はなおも得心しがたい様子だった。

「それなら、姉ちゃんは生まれる前のことは知らないのか?」
「あんたは知ってるの?」
「俺はよく覚えてる。元は程久保村の久兵衛という人の子で藤蔵という子だった」
「……なに、あんた。おっ父(とう)たちに言うからね」
勝五郎は顔色を変え、泣きながら謝った。
「ごめん。頼むからいわないでくれよ」
「それなら言わない。ただし、悪いことして止めても聞かないときは絶対言いつけるからね」
こうしてその場は収まった。

その後、勝五郎が喧嘩をするたびに「あのことを言うよ」というとすぐにおとなしくなった。両親と祖母ツヤが怪訝に思い、フサに「それは何のことか」と尋ねたのだが、フサは黙して語らなかった。

さては親に隠れてどんな悪いことをしているのかと懸念した両親らは、フサを一人で呼び出し、白状させた。フサは隠しきれずにありのままを語ったのだが、両親らはますます疑念が増してしまった。そこで、勝五郎本人を呼び、なだめたりすかしたりするなどして、ようやく口を開かせた。

八歳の勝五郎が語った内容は、衝撃的なものだった。

「自分は元々、程久保(ほどくぼ、現在の東京都日野市程久保)村の須崎久兵衛の子だった。母親の名はシヅといった。自分が小さいときに久兵衛は死に、その後に半四郎という男が、シヅと再婚。半四郎は、自分の子のように可愛がってくれた。ところが、自分は六歳の時に病気で死んだ。その後、この家の母親の腹に入って、もう一度生まれた。」

当然、両親は一笑に付し、ことによると頭がどうかしてしまったのではないか、と思っていたようだ。しかし、小谷田家においても、夫婦二人しか知らない事実を、勝五郎は話し出したのである。

勝五郎が言うには、前世のことは四歳ころまではよく覚えていたが、しだいに忘れてしまったそうだ。死ぬほどの病ではなかったのに、(後でわかったことだが、天然痘であった。)薬を飲めなかったので死んでしまったと語った。

曰く、「息が絶えたときには何の苦しみもなかった。体が桶(昔の棺桶は、文字通り、桶おけである)の中へ強く押し入れられると、自分は飛び出してその傍らにいた。
山で葬られる時は、白く覆った厨子の上に乗って行った。その桶を穴へ落とし入れたとき、その音の響はとても心にこたえて、今でもよく覚えている。僧たちがお経を読んでも、自分には何の役にも立たなかった。そのうち、嫌になり、家に帰って机の上に座っていたが、家の人に声をかけて話しても聞こえていない様子だった。」

そのとき、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人に「こっちへ来い」といわれ、後についていくと、どこともわからない綺麗な高原につれていかれた。そこで遊んでばかりいたそうだ。

やがて、例の老人に連れられて、また人家のあるところにやってきた。そして、やにわに老人が、「この家に入って生まれるが良い」と、ある家を指差した。それが、現在の父・小谷田源蔵の家であった。

勝五郎は、庭の柿の木の下に三日ほど立って、様子をうかがった。その後、窓から家の中に入り、竈(かまど)の側に座り込んで、さらに三日位泣いていたそうだ。家にある食べ物を食べることはできなかったが、味噌汁などいい匂いだということはわかったそうだ。

その夜セイが、源蔵と寝間語りで話をしているのが聞こえた。内容は、源蔵が、セイに、江戸へ奉公に行ってくれないかと頼んでいるというものだった。蓄えが無いので、少しでも稼がなければならない、子供も二人(勝五の兄と姉)いるから、セイが奉公に出る以外にない、というのだ。二人の間の悶着は、奉公の期間のことだった。源蔵が1年ほど、というのを、セイがそんなに長くか、ということで多少言い争いにはなったようだ。

源蔵によれば、これは勝五郎が生まれた年の正月のこと。ある夜、寝間で「このような貧乏暮らしに子が二人いては老母を養うにも事欠く。お前は三月から江戸へ奉公に出てくれまいか」と夫婦で話したという。

三月になって妻セイは奉公に出たのだが、先方にいったところ、懐妊していることがわかった。そこで致し方なく、暇を乞い帰郷した。勝五郎を孕んだのは正月で、月満ちて同年十月十日に勝五郎は生まれている。このときの正月の寝間語りは、夫婦以外には知るはずがないと源蔵・セイは証言している。なお、懐胎したとき、生まれたとき、その後も特に不思議なことはなかったと述べている。

時系列的には、こういうことになる。程久保村の杉崎藤蔵が、疱瘡(天然痘)で亡くなったのが、6歳のとき。文化7年2月4日(西暦では、1810年3月8日)。そして、彼が、中野村の小谷田源蔵・セイの家に生まれたのは、文化12年、つまり5年後の10月10日のことである。

勝五郎誕生の際のこととして、セイの腹に入ったように思うが、よく覚えていないとしている。腹の中では、セイが苦しいだろうと思ったときに、体を脇に避けたりしたことがあったという。

生まれる瞬間は、まったく苦しくなかったそうである。この他どんなことも4歳、5歳まではよく覚えていたが、だんだん忘れてしまったと述べている。

源蔵とセイは、外ではけしてそのような話をしてはいけない、と厳重に勝五郎に言い含めた。しかし、一方で勝五郎の話が、あまりにもよどみなく、きわめて具体的で、曖昧さが微塵も無いことから、もしかして、という気になったらしい。彼らは、中野村の人間で、程久保村のことを知っているものを探した。そして、程久保村に、親戚がいるという者を探し出し、現地に杉崎半四郎・シヅ夫妻がいるか、確認を取ってもらうことにした。

ほどなくして、ある男が、源蔵・セイ夫妻の家を訪れた。程久保村には、杉崎半四郎・セイ夫婦が実際に存在しており、人づてに勝五郎の話を聞き及び、ぜひ確かめたいということで、自分をここに来させた、というのである。代理人である。

源蔵・セイ夫妻は、勝五郎の話を克明に話し、男は不思議なこともあるものだ、と程久保村に帰っていった。程久保村と中野村は山一つ隔てている。距離は約一里半。6kmほどだ。

この後、勝五郎は、程久保村に行きたい、と日々泣くようになった。そこで、実際に本人に確かめさせ、それが本当のことかどうか見てみよう、ということになった。祖母が連れて行けば、先方も怪しまないだろうということで、祖母ツヤが勝五郎を連れ立って、程久保村に向かった。

勝五郎は先に立って、どんどん祖母を引っ張っていき、「この家だ」といって駆け入り、祖母もそれに続いた。祖母によると、勝五郎は「程久保村の半四郎の家は、三軒並んだ真ん中の家で、裏口から山に続いている」と述べており、そのとおりだったという。

応対に出た農家の女性に、祖母は尋ねてみた。家の主人の名を問うと、半四郎だという。妻の名も尋ねたところ、シズと答えた。その本人である。半四郎夫婦は、祖母の話を聞いてあるいは怪しみ、あるいは悲しみ、ともに涙に沈んだという。

夫婦は勝五郎を抱き上げ、つくづくと顔を眺め「亡くなった藤蔵が六歳の時によく似ている」と言ったそうだが、これは感情移入がなされているであろうから、そう思いたいということからくるものであろう。が、勝五郎は抱き上げられながら、向かいの煙草屋の屋根を指さした。「以前にはあの屋根はなかった。あの木もなかった」そして、みなそのとおりだったので、夫婦はますます驚いた。

このことから、程久保村の半四郎・シズ夫妻と、中野村の源蔵・セイ夫妻は、ともにそれぞれの家を行き交うようになり、以後、ずっと親交を深めていくことになった。
その年の正月二十七には、勝五郎は実父・久兵衛の墓参りも果たしている。

この中野村・程久保村の騒動は、江戸にまで話が届いた。参勤交代で江戸に来ていた、鳥取藩の支藩・若桜藩主、池田冠山(定常)がこの話に大変興味を持った。冠山は、大変な学者・文学者でもあり、当代の著名文化人と深い交流があり、小藩の藩主ながら、政治家としても有能であった。

この冠山が、国許へ戻るとき、なんと道筋を変更して、中野村によって、勝五郎を召して話を聴取してる。この時代、参勤交代というのは、往路も復路も、まったく同じルートでなければならないと定められていた。数百mであろうと、違えてはならないご法度を破っての寄り道である。

大名までがやってくるというほど騒ぎが大きくなったため、中野村の領主であった多聞伝八郎(おかどでんぱちろう)は、勝五郎と父親の源蔵を江戸へ呼び出して事情聴取をした。

二人が江戸に出てきていることを聞き及んだ、くだんの国学者・平田篤胤が、知人の役人を通じて手を回し、勝五郎を自身の学舎に伴い、詳しくインタビューをしたのが、例の「勝五郎再生記聞」である。これが、最終的に天皇・上皇にまで奏上されることになった。

「勝五郎再生記聞」は、明治30年に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって、随想集「仏の畑の落穂」に「勝五郎の転生」として著され、ロンドンとボストンで発売された。現在は、岩波文庫で発刊されている。

勝五郎自身は、動乱の幕末を通じ、平穏な人生を送り、明治2年1869年に55歳で亡くなっている。

輪廻転生の例というものは、わたしの大学時代に、(ミッション系だったが)一般科目ながら必修となっていた「宗教学」の講義で、米国の大学で使用されている「Life After Life」という世界中の500の生まれ変わりの例を集めた本や、スウェデンボルグの書物を教材にしていた。しかし、灯台下暗しで、本邦にこれだけ具体的な例があったというのは驚きだった。

ちなみに現在、高幡不動尊には藤蔵の墓所がある。もともと、程久保の山にあったのだが、昭和40年の開発で、高幡不動に移転したそうだ。墓石はとても小さなもので、かなり劣化しているが、案内板も設置されているので墓地の中で迷うこともなく、すぐ見つかる。輪廻転生の真偽については、今では確認のしようもないが、藤蔵の実家・須崎家は今も存続しており(現在小宮姓)、位牌・過去帳・墓石などから、藤蔵そのものが実在したことは間違いない。

また、勝五郎は、明治2年まで存命であったことから、地元には、「自分の祖父が勝五郎と一緒に農作業をしたことがある」といったエピソードを語ってくれるような人がいるようだ。この勝五郎の祖父の実家にあたる小谷田家も、今も当時と同じ場所にあり、生家のすぐ近くだそうだ。

2015年は、勝五郎の生誕200年にだった。高幡不動あたりにお参りをするような機会があれば、散策などで立ち寄られてみたらいかがだろう。ふとしたことで、不思議な体験をするやもしれない。それにしても、二度の人生を生きた男の思いとは、一体どういうものだったのだろうか。

(蛇足)
この記聞が仮に事実だとしたら、非常に興味深い点がいくつかある。
一つは、藤蔵が死に、勝五郎として生まれ変わるとき、すでに新しい肉体がセイの胎内に存在しており、そこに入り込んだことになる。
つまり、大きなタイミングの差はないものの、明らかに老人に「この家に生まれよ」といわれた段階では、まだ正月を迎えていなかたわけで、セイは妊娠していない。
となると、生物学的な生命と、霊的な命とは、まったく別物であるということになる。そして、生物学的な生命が滅んだとしても、霊的な命は存続し続けることを、この話は証明していることになる。
さて、これを信じるか、信じないか。
やはり、あなた次第だ。



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