曖昧であることの合理性
これは125回目。日本人の宗教観を材料にして、日本人独特の曖昧な合理性というものを考えてみました。
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文部科学省が宗教法人に対して行った宗教統計調査によると、神道系が約1億700万人。仏教系が8900万人。キリスト教系が約300万人。その他、約1000万人。つまり、合計すると2億900万人ということで、日本の総人口の約2倍弱となる。とくに神道と仏教でオーバーラップしている部分が大きいのだろうということは、容易に想像できる。
一方、個々の日本人へのアンケート調査をすると、「なんらかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」と答える人は、2-3割という結果になることが非常に多いようだ。
では、もっと基本的な問い、つまり、特定の宗教団体や組織、宗派とは関係なく、ごく素朴に魂の存在などを信じているかどうか、というアンケート調査をすれば、おそらく、半々位にはなるかもしれない。いわゆる原始的な宗教心である。
極端な話、位牌を蹴飛ばしたり、神社の器(かわらけ)や神鏡を割ったり、無縁仏の墓石を踏みつけたりすることが平気で出来るか、ということだ。もっと言えば、死体に唾を吐いたりすることが無造作にできるか、ということだ。これは、おそらく日本人の大多数が、とてもではないが、足がすくむところだろう。「魂を信じていない」と公言する人でも、臆するところ大であろう。
外人の場合も躊躇する人が多いだろうが、その理由は「死者に対する敬意」からである。「敬意に値しなければ」やってしまうだろう。これもある種、合理的な発想だ。しかし、「敬意に値しない死者」であったとしても、日本人は臆してしまうのだ。外人は不合理だと言うかもしれない。死刑囚犯や、ヒトラー(いまだに遺体は発見されずにいるが)などは、足蹴にしていいのだ、ということかもしれない。
しかし日本人にとっては、それは敬意を持てるかどうかが問題なのではなく、死者そのものに対する畏れであり、魂というものへの曰く言いがたい不可知・不可触的なタブーなのである。ここには日本人なりの、合理性がある。「わからないものは、触れない」という単純な合理性だ。敬意の有無など人間の理性が関与できる余地すらない絶対的な不可知の部分である。
こういう原始的な宗教心というものは、日本人に限った話ではないのだろうと思うが、政治の話以上に、公的な場で語ることが憚られる。それだけ、微妙な部分が多く、言葉を替えればそれだけ曰く言いがたい畏れがあるからだろう。
宗教を否定する立場の人たちも多い。これが、無神論と答えるか、無宗教と答えるかで、ずいぶんとニュアンスが違う。「無神論」と答えると、それは文字通り神の否定の立場だと考えられる。「無宗教」というのは、特定の組織や集団には属さないという意味も含まれるので曖昧だ。信仰心はあるのだが、別に一つの宗派に属しているわけではない、という立場だ。
この無神論と、徹頭徹尾言い切れる日本人が一体どのくらいいるか、これはわからないが、きわめて少数であろうと推察される。おそらく欧米のほうは、遥かにその割合は多いはずだ。
日本人に意外に多いのが、この「無神論」ではなく、「無宗教」と答える人の数だろう。曖昧なのだ。いや、曖昧にしておこうという姿勢なのだろう。このスタンスは、欧米や中東のように、是か非かという二元論をあざ笑う。良く言えば、わからんことをそんなに力んでどうする、ということなのだろう。わからないことは、わからないままにして受け入れればよいではないか、ということでもある。
おそらく、本当の合理性とはそういうことだろう。科学の目的は、真実の究明ではない。そんなことはできはしないのだ。われわれ人間にできること(科学の効用)というものは、おびただしい間違いや誤解の数々を、一つ一つ、少しずつ正していくことがせいぜいなのだ。何でも割り切れると考えたい西洋・中東文化に比べ、東洋はずっとこういう点、謙虚だといえる。
たとえば、キリスト教にしろ、イスラム教(根っこは、旧約聖書だから一緒である)にしろ、「神を語る」宗教と違い、東洋は「神を語らない」のである。アジアにも多い精霊信仰やシャーマニズム、アニミズムはもちろん、日本の神道のようなものでも、「祝詞」はあるが、ご挨拶であって、ロジックは一つも書かれていない。語れないのである。
これは、こうした原始的信仰心の発露以降、東洋で生まれた「新興宗教」である仏教や儒教でも、一様に「神を語る」ことをしていない。
たとえば、禅の公案で有名な釈迦の説法がある。「神はあるか」と問われて、釈迦は一つの説話を話し出した。
「ここに、一つの岩がある。全知全能の神がつくった、誰も持ち上げることができない重い岩である。それでは、その神は、自分でこの岩を持ち上げることができるか。」
答えはない。矛盾だからである。釈迦がこの説話を引き合いに出したのは、神の否定ではない。「わたしにはわからない」と述べている。語らないのだ。仏教は、まったく新たな宗教として生まれたのではない。あくまでインドの神々の世界観(バラモン教)の中で生まれた「プロテスタント」だという解釈が正しい。
儒教はもっと明白にのべている。「論語」では孔子の言葉として、「天はこれを敬して遠ざく」と伝えている。「敬遠」という言葉の語源だ。やはり、「わからない」のだ。わかっていたとしても、語れないのだ。儒教をただの倫理書と思ったら大間違いである。最も重んじられるのは四書五経のうち「礼記」であり、それはれっきとした先祖信仰なのだ。
現実の世界に向かうとき、「曖昧」なほうが、はるかに合理的な判断や対処をすることが往々にしてできるものだ。そもそもこの世界が、「白」か「黒」かで割り切れるなら、人間などそもそも登場してこなかったはずだ。誕生していたとしたら、それは人間ではない。ただの機械的ななにものかだろう。ここでは宗教を材料に使ったが、それにとどまらず、あらゆる文化面に言えることだ。