ジョハリの窓~あきらめないということ。
これは133回目。かなり手抜きの話です。窮地にある人に、あるいは失望、絶望の淵にある人に、「がんばれ」という言葉は禁句だと言います。受け手にもよるのでしょう。ただ、その人はもうすでに頑張っているので、その上に鞭打つかのように「がんばれ」というのも、確かに酷な気がします。
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となると、あきらめるな、というほうが、励ます側の気持ちが受け手にも多少はすんなりと通じるかもしれない。
この「あきらめない」という言葉は、つらつら考えるに「力を抜く」ことと同義のようにも思える。
ずいぶん昔のことだ。おそらく、40年くらい前のことだと記憶しているのだが、ある僧侶がわたしにこんな話をしてくれた。
「溺れる者は、水に浮力があることを信じられない。だから、あがき、もがき、やがて疲れて、沈んでいく。しかし、水に浮力があることを信じられる者は、体中の力を抜き、水に自身を委ねる。すると勝手に水が体を浮かせてくれる。いつまでも息が出来、そのうち潮の流れが陸地に導いてくれる。」
たぶん、禅僧であったと思う。禅僧の言いそうな話だ。
この種の言葉はほかにもある。
「ときには立ち止まってみるがいい。そうすると、世界のほうが勝手に堂々巡りしているのがわかる。」
ちょうどそれは、難行苦行をしても悟りを得られなかったブッダが悟りを開いた場面を思い起こさせる。
ブッダは精も根も尽き果てていた。そこに、村娘スジャータに乳粥(ちちがゆ)を差し出され、体力を回復し、菩提樹の木の下で悟りを開いたという。満月の夜だったそうだ。
人間が、「もう、これ以上は無理だ」という土壇場に追い詰められたとき、すでにブレイクスルーの寸前にまで到達しているということなのだ。実はその目的のほとんどは達成しているということでもあるのだ。
だから「あきらめるな」という言葉が生きてくる。
いやいや、土台、能力が無ければ話にならないじゃないか、というかもしれない。しかし、先日もこのNOTEで書いたが、物事は能力や才覚で決まっているのではない。選択そのものによって決まるのだ。能力のあるなしは、実はほとんど関係ない。もっと言えば、努力の有無ですら、関係ないと言い切れるかもしれない。
むしろ人生で最大の課題とは、選択の結果を、あなたはどう受け止める覚悟がありますか、という一つに尽きている。
選択をしなかったらどうなるのか。選択をしなかったのではない。「選択をしないという」選択をしたのだ。人間は、能力の有無、努力の有無とは無関係に、否応も無くなんらかの選択をして生きているのだ。
だから、その結果を真正面から受け止める覚悟を問われ続けているのが人間だということだ。
この選択と結果という無間地獄の中で、それでも全く希望を失わず、正気を保つことはできるだろうか。
ここにジョハリの窓というのがある。サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリ・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」のことだ。後にこの二人の名前を組み合わせて「ジョハリの窓」と呼ばれるようになった。
心理学と考えればよいのか、哲学と考えればよいのか、人それぞれだろう。この「ジョハリの窓」を最初に知ったのは、大学時代の、イタリア系のカトリック神父(教授)に教えられたときだった。 哲学の講義だったのか、それとも宗教学、神学だったのか、記憶が定かではない。
図解をして説明しよう。
(ジョハリの窓)
A 他人が知っているあなた自身
B あなたが知っているあなた自身
C 他人もあなたも知っているあなた自身(開放の窓)
D 他人だけが知っているあなた自身(盲点の窓)
E あなただけが知っているあなた自身(秘密の窓)
F 誰も知らないあなた自身(未知の窓)
彼に言わせれば、この「ジョハリの窓」は非常にわかりやすく、それぞれの区分が当分となっている。しかし、実際には「未知の窓(誰にもまだ知られていない自己)」の部分は、全体の四角形を「自己」の総体だとしたら、そのほとんどを占めている、というのである。
(実際のジョハリの窓)
実際には、上図のように、ほとんどの部分をFの「誰も知らないあなた自身(未知の窓)」が占めているという。
だから、ここでも「あきらめるな」というのだ。
「あなたに克服できないことなど、けっしてあなたに起こりえない(ゲーテ)」
そのコツは、どうやら「力を抜く」ということにありそうだ。もっとも、わたしなどは、自分の「未知の窓」を開けたら最後、とんでもない化け物がでてくるのではないかと、戦々恐々なのだが。