「男」が要らなくなった社会

雑話

これは306回目。女性が強くなったといいます。自立する女性が増えたともいいます。そうなのでしょうか。ある意味、ただ男の役割というものが、減ってきたからではないでしょうか。実は昔から、(ことに日本は)女性が強かったのではないかと思います。

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以前触れたことがあるが、海外からきた訪日客がびっくりすることの一つがある。家族連れの日本人が、ファミレスなどで勘定を払っているシーンだ。
多くは、奥さんが支払いをしている。これを見て仰天するのだそうだ。

アメリカなどでは、夫が基本的には家計を握っており、奥さんにはあてがいぶちがなされる。もちろん近年はずいぶんこの習慣も変わってきているのだろうが、おそらく圧倒的多数の米国人家庭ではやはり夫が主導権を握っていることが多いのではないかと思う。

日本は違う。
もともと、群馬県ならずとも、「カカア天下」なのである。
昔テレビCMで、「旦那は元気で留守がいい」というのがあったが、事実であろう。

どこの国も封建時代というものがあった。日本も例外ではない。男尊女卑の世界である。武士の時代、表向きはやはりそうだった。が、内実はかなり違う。奥方が強いのである。

庶民の間はなおさらのこと。女房殿というのは表向きは亭主の顔を立てるものの、いったんその亭主が家に入ると、とたんに主客逆転。完全に女房殿に尻に敷かれる、亭主はまったく頭が上がらないというのが日本の家というものの通り相場だった。

わたしの父親などは、古い古い世代であるから、いかにも亭主関白然としていたが(決して威張っていたわけではない。)母親は、これをまたうまく「てなづけ」ては、いいように自分の手の上で転がしていた風は、子供心にも簡単に見透かしていたものだ。

そして、亭主が女房の手の上で踊らされてるということを、つゆともけどられないように「操る」女房というのが、「できる女房」の必須要件だったのだ。単純で馬鹿なのは、男だということにほかならない。女のほうが、ずっと上手。それが1000年以上続く、本来の日本の家の内実だとわたしは思っている。

形式と中身が、強烈にアンバランスだったのが日本の家事情だ。

男の主導権の正当性は、あくまで武力(腕力)を背景とした国家(幕府)、藩、店、あらゆる組織の持続性の根拠である法(儒教的価値観)に基づいていた。それ「だけ」だったと言っても過言ではない。非常に「あやうい」砂上の楼閣にすぎなかったもの、それが日本の男尊女卑であり、封建制度の名残である。

なぜかというと、日本はもともとが古代から母権社会だからである。天皇家にしろ、女性天皇が6世紀から18世紀までに8人も存在した。

世界の女性君主を比較してみると、最多はなんといっても古代エジプトだ。14人(このうちクレオパトラ名が7人を占めている)

次にさすが英国、といってもイングランドである。8人なので、日本とアイコだ。これにはスコットランド女王は含まない。イングランド・スコットランド両王を兼ねた場合で8人なのだ。

しかし、女性天皇のみならず、それ以前の古代の卑弥呼、そして壱与を含めれば(いずれも3世紀である)日本における歴代女性君主は10人となり、エジプトに次ぐ。

イングランドに及ばないものの、スペイン・ナバーラ王国では6人。そして、ロシア、カスティーリャ(統一前のスペイン)、ルクセンブルグ、東ローマがそれぞれ4人。

圧倒的に長い歴史で女が幅をきかしたのは、エジプトと日本、そしてイングランドなのである。

要は女王バチと働きバチの関係だ。

だいたい1000年も前、あの平安時代に、紫式部や清少納言を始めとして、数多の女性が「文」を書き、いまでいう長編小説を書き上げてしまう、膨大なエッセーを書き綴る、そんな女性の高い文化性が存在した国など、当時どこの世界にも存在しなかったくらいである。

そもそも、奈良時代、平安時代、庶民の結婚というものは「嫁入り」よりも、「婿取り」が一般的だった。(もちろん地域性による違いはあったが)

「嫁を取る」というのは、武士の世界が始まってからである。

もっと極端な言い方をすれば、男尊女卑の支配体制が成立していったのは、武力がモノを言う時代、幼少期から英才教育を施さなければならなかったこと、そして出生後の生存率が低い時代にあって、後継者を絶やさないようにするために、複数の女性を擁して行かなければ、支配権力そのものが瓦解する恐れがあったのだ。

そういう必要性から生まれた言わば必要悪だったといってもいい。日本の本来の文化性から言ったら、「苦肉の策」で無理をしたにすぎない。

日本には本来、そこまでの必要はなかったのは、やはり絶海の島国だったと言う環境が大きいかもしれない。しかも四季折々の豊かな自然環境であったことは、おそらく母権性(と言ったらいいのか、母性社会と言ったらいいのか)がはぐくまれる重要な要素だったと思う。

わたしなどは、文化人類学者でも、民俗学者でもなく、ただの物好き素人にすぎないから、なんの実証もしているわけでないが、勝手なことを言わせてもらえば、そんな感じだ。

だから、居住する地域の自然環境、生態学的な比較をしてみれば、あまりにも苛烈な環境のところほど、宗教にしても非常に極端な男尊女卑である。アラブ圏、イスラムがその典型だろう。それは、その必要があったのだ。イスラム世界では、未だに女性は「モノ」であり、「資産」である。

日本の武士社会が崩壊しても、まだ帝国主義の荒波の中で、「形」だけの男尊女卑はずっと残った。それが崩れたのは、戦後である。もう男が肩肘をはるような「無理」は必要なくなったのだ。

日本だけ「戦争が無くなった」からにほかならない。力がモノを言う世界が、この極東の一角だけは消えてなくなってしまったのだ。(と、勝手に思い込んでいるだけだが)

世界でも珍しいくらい、非武装という無謀なエアポケットが戦後70年以上も続いている。

しかし、その「力がモノ」を言う世界というのも、実はほとんど意味を失って来た。

ハイテクノロジーのおかげだ。女性でも、ボタン一つ、インターネットでいくらでも「力」を行使することが可能な世界になってきたのだ。

こうなると、男の出る幕はない。しょせん、トップは女に任せておけばいいのだ、とわたしなどは、よく井戸端会議で言う。女を頭に据えていれば、みんな和やかで幸せなんだ、と。

暴論だろうか。女性はどう思うだろうか。そんな責任を全部押し付けられたらたまらないと、逆に拒否反応を示すだろうか。一見女性の社会進出が進んでいるアメリカでは、実際「女性が疲れている」とも言われる。

あれだけ女性の主体性、独立性が顕著のような国だが、逆に妻は夫への依存心が反比例のように強いところもない。常に「I love you」を言い交わし続け、なにかあればキスを繰り返し、抱擁を欠かさないのは、一説には女性の異常な男性への依存心の表れだという見方もある。

常に夫とネットや電話などでつながっていることを望み、数日出張などで夫が不在などということになると、途端に家庭内争議、下手をすると離婚騒動である。

日本では、アメリカナイズされて来たとはいいながら、そこまでの状況というものはない。本質的に夫に見えない紐をくくりつけ、夫がどこに行こうが適当にそれを伸ばしたり引っ張ったりしてうまく距離感を保っていたのは、日本の女性というものに、言い知れぬ絶対的な自信と主導権があったからなのだ。今は、どうなんだろうか。わたしの認識がもう古いのだろうか。

かつての日本の家という伝統的な文化性が失われてきているのだとすると、実は男が弱くなったという以前に、女が弱くなってきているということなのかもしれない。だとしたら由々しい事態だ。本来、女の強さで「持っていた」ような国だからだ。

見かけ上、形式上の、男尊女卑→男性優位→女性進出→女性の独立性・主体性、などといったことはどうでもよいのだ。文化的に本質的に女性が中心軸となって社会の安定性が、音を立てて崩れているのだとしたら、これは大問題だ。一番世の中で頼りになるのは女であり、頼りにならないのは男と日本では相場が決まっていたからだ。

男女の違いというものが、音を立てて崩れて行っている現代社会にあって、男だ女だと言っていること自体がもしかしたらナンセンスなのかもしれない。

そもそも、ゲームばかりやって、大人と子供の差ですら無くなってきているではないか。男女の違いどころの話ではない。子供のような大人がわんさといる。その弊害は、幼児虐待という形で噴出している。

なにを書くネタも無くなったので、まったくの与太話で今回はごまかしてしまい、陳謝。



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