オノマトペ

雑話

これは319回目。擬音語・擬声語のことです。ここで取り上げるのは、そのうちで虫の声です。

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日本人は、虫の声を言語作用をつかさどる左脳で認識し、外国人はほぼ右脳で雑音として認識する。日本人は、そのため、虫の「声」として受け止め、(その意味はわからないものの)意味があるのだと思う。しかし他言語圏では、ただの「ノイズ」にすぎない。

虫の声を愛でるという習慣は、日本人独特のものだ。そういう記事だった。ところが、最近ネットで呼んだ記事では、ある学者の研究によって、同じ左脳の活動をする言語圏に、ポリネシア人がいるということを知った。まったく同じだそうである。つまり、左脳で虫の声を「言葉」として認識しているそうである。

この研究によると、言語の組成が大きく影響しているという。つまり、日本人とポリネシア人は、母音も子音もくべつせず、言語脳である左脳で処理している。それ以外の言語圏の人たちは、まず母音を右脳で雑音として受け止めてから、子音を左脳で言語として処理しているというのだ。

日本語は、世界にあまたある言語の中でも、こうしたオノマトペが異常に多いことで有名な言語である。

たとえば、雨の音は大変有名な話だが、ザーザー、ピチャピチャ、ポツポツ、ショボショボ、シトシト、パラパラなど。これと同時に、雨のパターンも夥しいほどの表現がある。

雨、煙雨、大雨、空梅雨、気違い雨、強雨、霧雨、降雨、豪雨、穀雨、小雨、小糠雨、五風十雨、細雨、五月雨、小夜時雨、山雨、地雨、慈雨、時雨、櫛風沐雨、驟雨、集中豪雨、宿雨、春風秋雨、硝煙弾雨、晴雨、蝉時雨、多雨、弾雨、血の雨、梅雨、照り雨、照り降り雨、天気雨、通り雨、長雨、菜種梅雨、涙雨、俄か雨、糠雨、白雨、走り梅雨、春雨、微雨、氷雨、日照り雨、一雨、風雨、暴風雨、村雨、村時雨、猛雨、遣らずの雨、雷雨、涼雨、緑雨、霖雨、冷雨…

雨一つでこれだけの表現語があるというのも、日本語以外では皆無らしいが、上述のザーザー、ピチャピチャなど、同じ音を繰り返す重複表現も、実は日本語とポリネシア・インドネシア系言語の特徴である。ふつう、人=manは、複数になると、manmanとはしない。Menになる。中国語でも、そうだ。どこでもこの重複というのを嫌うのだが、逆の重複表現をことのほか好むのが、日本語とポリネシア、そしてマレー・インドネシア系の言語なのだ。

日本人とポリネシア人は、祭りの形態自体でも、アジアや欧米などのような「着飾る祭り」と違い、「裸になる祭り」という点で、はっきり同系統に区分されている。これは、朝鮮・中国といった大陸文化と数ある文化的差異のうちでも、かなり決定的なものだ。

オノマトペに戻ると、冒頭の虫の声だが、これまた大変な表現がある。

きりぎりす キリキリ
鈴虫 りーんりーん
くつわむし ガチャガチャ
まつむし ちんちろりん
うまおい スイッチョン
みんみんぜみ ミーンミーン
あぶらぜみ ジージー
つくつくぼうし ツクツクボーシ
ひぐらし カナカナカナカナ

実際、動物の鳴き声のオノマトペに関しては、他言語にもそれなりにあるが、虫となるとかくまでこまかく言い慣わされているオノマトペは、非常に少ない。日本語はその意味では非常に特異言語といっていい。

日本人は、古来より自然を愛で、動植物はもとより一粒の米にまで魂が存在すると考えるなど、森羅万象に霊性を認める文化がずっと根付いているのだ。以下、「古今和歌集」藤原敏行の歌。

秋の夜の あくるも知らず 鳴く虫は 我がごとものや かなしかるらむ
(長い秋の夜を鳴き通している虫は、私と同じように悲しいのだろうか)

しかし、取り上げていけばキリがないほどの、この日本語のオノマトペだが、圧巻とも言うべき、究極のオノマトペ(擬音語・擬声語)がある。それは、静寂な状況を表現した「シーンとした」である。無音の状況のことを、「シーン」という擬音表現を使うわけであるから、大変なものだ。この「シーン」というのは、およそ海外ではオノマトペが生まれる感性や思考では想像もできない表現である。

いつぞや紹介したが、「枯山水(かれさんすい)」という庭園技術と同じ発想である。枯山水は、そこに実際には水が流れていないのに、あたかも流れている情景であるかのように石や岩、樹木などで表現した庭園文化である。およそ、世界で、水を使わずに、水のある風景を庭園につくりあげるという発想は、どこにも無い。

こういったことは、虫の声を、「言語」として認識するというレベルどころではなく、「音無き音・声無き声」をすら聞くという日本文化の神髄といってもいいオノマトペである。日本語というものが、神の領域に一端は踏み込んだ言語だということかもしれない。



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