それ以上でもそれ以下でも。

雑話

これは330回目。怪談です。それ以上でもそれ以下でもありません。

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今井通子氏という、登山家がいる。女性初のアルプス三大北壁登攀に成功した人物として知られる。が、本職は医学博士だ。東京女子医科大学泌尿器科の非常勤講師、日本泌尿器科学会の専門医にして指導医である。

ご本人曰く、基本的に幽霊といったものを信じないそうだ。本職の仕事柄、どうしても科学的にものを見ようとするという。が、彼女いわく、「しかし、自分が見たものは、信じるよりほかない。」と述べており、その話から紹介しておこう。

彼女が、友人たちと4人のパーティを組んで、夏の穂高に登ったときのこと。季節は夏、それも真昼間である。

穂高には、屏風岩という国内最大の垂直岩壁がある。梓川(あずさがわ)沿いの横尾にベースキャンプを張り、そこから前穂高を迂回するように涸沢(からさわ)に向かう途中、この屏風岩を通る。

彼女は先頭に立ち、3人が後に続いていた。横尾の本谷から川に沿っていくと、前方左に屏風岩が見えてくる。川のこちら側の登山道を歩いていたときのことだ。

すると、前方から二人の登山者が歩いてくるのが見えた。はっきり覚えているのは、前の人は、背の低い、平べったい顔で、色白の男性。後ろの人は背の高い、彫りの深い顔をしていた男性だったという。

今井氏は、こちらから「こんにちは」と声をかけた。彼女は、(おそらくと言っている)「たぶん、向こうもこんにちはと言ったと思うが、覚えていない。」としている。ただ、にこやかに彼らがすれ違ったのは覚えているという。

すれ違った後、今井氏に続く3人の仲間のうち、一番最後に歩いていた仲間も、二人に「こんにちは」と言っていた。今井氏は、それを先頭を歩きながら聞いていたのだ。

その直後である。今井氏と最後尾の間にいた二人の仲間のうち一人が、「なに、おまえたち前と後ろでふざけあってんだよ。声掛け合っちゃったりしてさ。」と言い出した。

今井氏は、「だって、今二人とすれ違ったじゃない。」と言うと、間の二人の仲間は「えっ、すれ違わなかったよな。」と言い始めた。4人で後ろを確認すると、登山道には人っ子一人いない。しかも、登山道はストレートで、下りになっている。身を隠す場所は、無い。

そこで4人はパニックになり、どんな人だった?となる。今井氏と最後尾の仲間の見た人物像は、まったく一致していたが、間の二人の仲間はまったく見ていなかった。

どんな格好をしていたか、とか確認しているうちに、不思議なことに気付いたのだ。セルフ・ビレィといって、ロック・クライミング(岩登り)に使用するハーケン(岩に打ち込むクサビ)やカラビナ(ザイルを通したりする金属リング)を付けるのだが、すれ違った二人の男は、それをつけていたのだ。

こうした金属品を、鳴り物・ガチャと山では呼んでいるが、その二人はガチャをそれこそ、ガチャガチャ鳴らしながら、降りてきたというのだ。それがとても印象的だったから、今井氏も、最後尾の仲間もこの点で、人物像は決定的に一致した。

4人はそこで、はたと困惑した。その二人は、屏風岩のほうから、まさに穂高から降りてきたのだ。下山途中ということになる。ふつうロッククライミングの場合、上りではガチャをガチャガチャ鳴らしていくが、登攀後、山頂でこうした鳴り物をすべてリュックにしまって、通常の登山道で降りてくる。彼らはその下山途中だったはずである。

夜が迫っていて、時間が無く、焦っている場合には、もちろんガチャ物をつけたまま、急いで下山することもあるが、彼女たちが遭遇した時間帯は、まだ早い時間帯であるから、その可能性はない。頂上でゆっくりすべてガチャ物をつめこんで、ふつうの登山の恰好をして降りてくるはずだ。それにもかかわらず、ガチャ物を鳴らしながら降りてきたということになる。ふつうは、ありえない。つまり、登攀途中の恰好で降りてきたことになる。止めて引き返してきたのなら、なおさらガチャ物は不要だからリュックに仕舞うはずだ。

ちょうど二人が現れたのは、屏風岩から出てくる道のところであったから、もしかするとかつて屏風岩か、その周辺でロッククライミングをして滑落死亡した登山者の幽霊だったかもしれない。彼女は、「自分は医者だから、非科学的なことは信じない。しかし、自分が見たものは、信じるよりほかない。」と述べている。

山というのは、もともと異界であったから、それでなくても不可思議なことが多い。ましてや、近代以降、登山が普及してからというもの、犠牲者は夥しく、それにまつわる怪異譚も驚くほど多い。

山に登る人だと、「山と渓谷」や「岳人」といった雑誌をよく読むことが多いと思うが、前者の1991年8月号には、とんでもない話が載っていた。

まず一般人が来ることもない、鈴鹿山系の深い渓谷の岩の上に、赤い鼻緒のついた女物の下駄が、両方きちんと揃えて置かれているのを見た、という話だ。いわゆる、場違いなものということだ。もちろん、登山者が、どういう曰く因縁かわからないが、それをそこに置いていったとしか、「科学的」には考えようがないのだが、ありうるだろうか?

話は飛ぶが、山との霊的なかかわりの深い有名人に、宮澤賢治がいる。(先日も、彼のことを書いた)詩人にして童話作家。もっとも本人は、それを職業にしていたつもりはまったくなく、生前刊行された本はほとんど無い。

彼は、第一に農業技術者であり、研究者であり、指導員であり、なによりも農民であろうとした。イーハトーヴ(岩手をモチーフにした仮想の里)という、現実とも幻想ともいえる世界に棲み続けた彼の童話は、往々にして「完全な空想の世界」と思われがちだ。

しかし、それは間違いだと思う。彼は、現実にそれを見ていたのだ。もちろん童話にしたてているから、それなりに見たものは、デフォルメされ、話もなにかを仮託したように構築している。が、彼は、確かに作品中に描かれた世界の「ようなもの」をその目で見たのである。

『銀河鉄道の夜』で、主人公のジョバンニが旅する世界は、明かに「死後の世界」だ。そして『風の又三郎』に登場する謎の転校生・高田三郎には、「風神」のイメージが重なる。『注文の多い料理店』で、二人の傲慢な都会の紳士を食べようとするのは、『化け猫』である。食べる側のものが、いつのまにか食べられるほうになっていたというくだりだ。

この点を違えると、宮澤作品というものの解釈や、受け止め方が、まったく変わってくる。あれをただの空想の産物だと決めつけて読むと、ほとんど宮澤の心境にたどり着くことはできないだろう。つまり、オカルト否定論者が読むと、ただの意味不明な箇所の多い、変わった趣味の童話ということで終わってしまうのだ。それほど深い精神性が、彼の作品には映じられている。

宮澤賢治は幼少時代から、霊媒体質が顕著だった。彼の生前刊行された、たった2冊の本のうち、有名な童話集『注文の多い料理店』の「序」には、はっきりこう書いてある。

・・・これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。・・・ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたままです。・・・

これを、作家特有のレトリックだとみなしてしまう人は、およそ宮澤作品を読む資質がない。要するに、彼は「どうしても見えてしまってしかたがない」ということを、終生悩み、それを童話に託して書き続けたのである。

彼の詩も、実は文学的な意味での「詩」ではない。彼自身がそう名付けていたように「心象スケッチ」なのである。彼は「詩」とはけして呼ばなかった。「詩」はしょせん「詩」である。しかし、彼が描いたそれは、現実に見たものなのである。

幽霊たちが自在に出没する心象スケッチ『春と修羅』の「序」には、こう記されている。

・・・ただたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとおりのこのけしきで・・・

つまり、彼が書いたものはフィクションではない、ということだ。生来の霊媒体質によって、実際に山野を散策したおりに見えた、さまざまなものをそのまま作品中に描いてみせたのだ。闇に棲息する魑魅魍魎(ちみもうりょう)のたぐいから、神仏のような気高い存在まで、ふつうの人間の肉眼では見えないものが、彼の目には見えていたのである。

それは異常心理であるとか、想像力とか、幻想・幻覚・錯覚といったような言葉では片づけられないほど切実でリアルなものだったに違いない。

父親が熱心な浄土信者であったことから、彼もきわめて宗教的な人格の錬磨を目指していた。彼自身は法華経信者であったが、行き着く先は同じである。その天啓のようなものを感じていた宮沢賢治は、実生活では、当時貧窮のどん底にあえいでいた岩手の農民を救済しようと、無理に無理をかさねて死んでいった。

宮沢賢治は、故郷の自然の山野をしばしば踏み歩き、あたかも修験者(山伏)が行っていた回峰行(かいほうぎょう)のような様相を呈していた。それによって、もともと霊媒体質だった彼のアンテナはいやがおうにも研ぎ澄まされ、見えなくてもよいものまで見えるようになっていった。

その神秘体験の一端を、彼は『河原坊』という心象スケッチに書き遺している。地元の人たちが畏敬の念を以て見る早池峰山を歩いた時のこと。野宿しようと考えていた河原のあたりには、伝承によるとかつて密教系の寺があった。現在はわずかにその形跡をとどめるだけだが、往時はかなりの大寺院として栄えていたようだ。

彼は河原で、寝床として適当な、大きな平板な岩を探したが、見つけた岩は、月が見えなかった。彼は美しい月の光を見たいあまりに、斜面のある岩の上に横たわった。

夏とはいえ、山の夜は肌寒く、体が冷えて、麻痺するほどだった。それでも疲労から心地よい眠りがじわじわと湧き上がってくる。

うとうとしかけていた時、山の暗い大きな影の塊の中で、なにかがうごめいているのに気付いた。荒々しい地響きとともに、山を駆け下ってきたのだ。

賢治は、地震かなにかかと思い、起き上がろうとしたのだが、いわゆる金縛りに遭う。びくとも動けなかったのだ。

・・・誰かまわりをあるいているな
誰かまわりをごくひっそりとあるいているな
みそさざい
みそさざい
・・・
誰かきたな
・・・
そこの黒い転石の上に
うす赤いころもをつけて
裸脚四つをそろえて立つひと
なぜ上半身がわたくしの眼には見えないのか
まるで半分雲をかぶった鶏頭山のような
・・・
あしおとがいま峯の方からおりてくる
ゆうべ途中の林のなかで
たびたび聞いたあの透明な足音だ
・・・
わたくしはもう仕方ない
誰が来ようにも
ここでこう肘(ひじ)を折りまげて
睡(ねむ)っているより仕方ない
だいいちどうにも起きられない
・・・
叫んでいるな
(南無阿弥陀仏)
(南無阿弥陀仏)
(南無阿弥陀仏)
何というふしぎな念仏のしようだ
まるで突貫するようだ
・・・
もうわたくしを過ぎている
ああ見える
二人のはだしの逞(たく)ましい若い坊さんだ
黒の衣の裾(すそ)をからげ
黄金で唐草模様をつけた
神輿(みこし)を一本の棒にぶらさげて
川下の方へかるがるかついで行く
誰かを送った帰りだな
声が山谷にこだまして
いまやわたしはやっと自由になって
眼をひらく

この心象スケッチ『河原坊』と同じことを、宮澤賢治は自己の体験として、森荘已池(もりそういち)に語っている。

・・・早池峰山へ登った時でしたがねえ、あすこのふもとに大きな大理石がごろごろ転がっているところがありましてねえ、その谷間は一寸(ちょっと)した平地になっているのですがそこの近所に眠ってしまったんですよ。お月さまもあって静かでよい晩でしたね、うつらうつらしていましたらねえ、山の上の方から、谷あいをまるで疾風のように、黒いころもの坊さんが駆け降りてくるんですよ、念仏をとなえながら、またたく内に私の前を通り過ぎ、二人とも若い坊さん達は、はだしでどしどし駈けて行ったんです。不思議なこともあるもんだとぼんやり私は見送っていましたがね。念仏はだんだんに細く微(かす)かに、やがて聞こえなくなったんですよ。後で調べたら、あすこは昔大きなお寺があったところらしいんですね、河原の坊といわれるところでしたよ。土台の石なんかもあるという話でしたよ。何百年か前の話でしょうがねえ、天台か真言か古い時代の仏跡でしたでしょうねえ。・・・

早池峰山は、海抜1917m。神仏習合の時代に山岳信仰が盛んな場所だった。心象スケッチとまったく同じことを、宮澤賢治が語っていたことがわかる。実は何回も賢治は河原坊に赴いていたようだ。別にこんなことも語っている。

・・・先年、登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが、ふと山の方から手に錫杖(しゃくじょう)を突き鳴らし、眉毛の長く白いみるからに清々しい高僧が下りて来ました。・・・確か三年ばかり前なのですが、その御坊さんにあったのはなんでも七百年ばかり前のことのようでしたよ。・・・

宮澤の家では、父がそうだったしいが、この種のオカルト的な話は他言無用ということで、かなり厳しくタブーとされていたようだ。従って、賢治もめったにこうした話を語ってはいない。たいへん珍しい事実である。

作品にも、「おはなし」「民譚」などとぼかしていたりして、「生(なま)」のままでは書き残さないように苦労したのだろう。それでも、友人たちとの会話には、ぽろぽろとそうした本音を漏らしている。

森荘已池の回想にはこういう話がある。

・・・宮澤さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、わたしが盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年の秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に・・・提灯(ちょうちん)をつけて宮澤さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向こうの森を窓から指して、『あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ。』といったのであった。・・・

実際そういうことなのだろう。神と一言で言うが、良い神も、悪い神もいるらしい。「悟らなければ、ただの神」という言葉さえ、ある。彼は、その違いすら知っていたのだ。

彼の『無声慟哭(どうこく)』や『永訣の朝』で知られる、最愛の妹・トシ(賢治の二歳下)だが、大正十一年十一月に、当時世界的に大流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)で死んだ。24歳だった・農学校では、賢治がときにこのトシの幽霊の話をしていたようだ。農学校の教え子・松田浩一によると、こんな様子だったらしい。

・・・先生が幽霊の話をするというので教室の中は急にシンとなり皆んな聞き耳立てて先生の話を待った。
『実はね、死んだ妹のトシ子が夕べ遅く僕を訪ねて来たんだよ。・・・先生はいつものように表二階の八畳間に丸くなって寝ていた。時計は夜中の十二時を少し過ぎていた。その時、先生の耳に外の下(おろ)し戸をトントンとたたく音が聞こえてきた。叩く音だけ。先生は寝間着に着替え急いで帯をしめ階段を下りて、土間を走るようにして下し戸を静かにあけると、死んだはずの妹が、女学校教諭時代の紫のハカマと長袖の着物姿で立っていた。トシ子じゃないか、寒いから中に入りなさいと手をとらんばかりにして自分の二階の部屋に連れてきた。・・・

その後、賢治はトシ子を仏壇の前に連れてゆき、お経を読んでやり、やがて手を取るようにして見送ったという。

宮澤「文学」と呼ばれるものは、文学にして、そもそもそんな次元を、ハナから超越した世界にあることがおわかりだろう。これを、ただの宮澤の妄想にすぎないと切って捨てるか。それとも、彼が見たものをそのままと思うか。彼に聞けば、おそらく冒頭の今井通子氏のように、「わたしは、自分が見たものを信じるよりほかないのです。」と言ったに違いない。

さて、これを信じるか、信じないかは、あなた次第。



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