そんな大人にはなるな

雑話

 

これは369回目。「当たり前」ということを、止めてみることから、すべては始まるのかもしれません。この国の再興は、そういう観点で見たほうが良さそうな気がします。

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「当たり前をやめた」例として、以前(昨年2019年3月19日の日経新聞『ヒットのクスリ』)で紹介されていた、東京都千代田区立麹町中学校の話があった。

中学校が止めた「当たり前」というのは、宿題の強制、中間テスト、服装チェック、担任制度など、数え切れないそうだ。

校長先生の方針によると、宿題など非効率であるという。勉強できる生徒は理解している問題まで宿題でこなすし、苦手な生徒はできる問題だけやってくる。宿題を出し、それをやるということそのものが目的になっているからだ、という。

形式主義が染み付いた教育では「社会に出て課題解決なんてできない」と校長先生は述べていた。

従来型の定期テストや中間テストをやめたのも、それが目標になってしまうからだという。

おそらく会社・企業でも同じようなことが言えるかもしれない。会議が多すぎる、長すぎるという悪弊などはつとに指摘されるところだ。

正直、本音で労使がともに問題解決をしようというのであれば、一番ざっくばらんに言いたい放題で突破口を開けるのは、飲み会なのではないだろうか。

近年若い世代は、会社の飲み会というものをつとに敬遠しているそうだ。それはそうだろう。つまらない。なんの役にも立たない。ただの愚痴と、悪口と、下世話な異性関係の話。おまけに、上下の礼が言動を制約する。なんの意味があるのだ、という話になる。当然のことだろう。

いっそ、会議は飲み会で無礼講にしたら、はるかに現実的な問題解決の緒が見いだせるのではないだろうか。だから、会議全廃。

要するに、変わることを恐れてはいけないということなのだ。

仮に23歳ごろから社会に出たとして、そこから65歳の定年まで、人間はなにをして生きているのだろう。今や100歳時代だという。そうなのだ。なかなか現在の世の中というのは、死なせてくれないのだ。かつて想像していた以上に長生きして「しまう」ので、当初計画した老後予算などというものが、まったく役に立たなくなってきているのだ。

仕事というのは、いくつになっても活かせる職種もあれば、なかなかつぶしがきかない職種もある。

わたしのような投資分析というのは、正直いらぬ商売なのである。が、このくたびれた老人でも、まだいくばくかはお金を恵んでくれる人たちがいるのはなぜか? 投資や運用の理論というものを、この国がまったく一般国民に教育していないからである。

ちゃんとそういう環境があったなら、人々は自身で十分納得のいく判断をして資金運用できるはずの代物だ。が、まったくない。だから、わたしのようなものでも、まだ社会におけるレゾンデートル(存在意義)がかろうじて存在しているのだ。

情けない話ではないか。自分の大事な資金の運用を、他人に聞かなければならないことくらいバカバカしいことはない。

ましてや、大量の預金を預かっていながら、運用がド下手であるために、長年預金金利が限りなくゼロに近い状態を続け、預金者の失望をかっている銀行という業界がある。

にもかかわらず、国民は自分で運用のノウハウを勉強する機会がなく、その気もないので、この無能な銀行業界に唯々諾々としてそれでもまだ預金し続けているのである。ナンセンスとしか言いようがない。

製造業や技術畑になってくると、多少話が違うかもしれない。培われたそのノウハウは、そうは簡単には真似できないからだ。いくつになっても、貴重な競争力をその人は持っているということが多い。

一番辛いのは、俗に言う営業畑であろうか。これは、困る。40年間にわたって営業一筋でやってきたとしても職に困ってしまうのは、この営業畑できた人間である。

定年後、まだ元気だから働きたいと思っても、自分の中に一体どんな「売れるもの」を培ってきたといえるだろう。ふつう、漫然として生きてきたら、まったく「つかいものにならない老後」でしかない。

だから営業畑で生きてきて、それを確かに持っているという人は、脱帽すべき見事な生き様というべきだろう。大変なものである。日本で圧倒的に多い職種が営業だからだ。この多数派の中で老後も生き残れ、声が掛かるという人間になるということは、並大抵の努力ではなかったろう。

そういう差というものは、若いころから、老年に至るまで、日々、常に「昨日の自分を壊す」ことに躊躇のなかった人たちに違いないのだ。

愚痴ばかりに終始し、上司や同僚の悪口を言い、かといって立つべきときに敢然として立って、経営に強く主張を繰り返すようなこともせず、なんとなく日々の生活に甘んじ、その癖、それまで自分が従事してきたことにことのほか、無意味で過剰な自尊心ばかりが先に立つ。いっかな変わりようのない毎日を、ため息をつきながら生きている。五十にも、六十にもなって、そん「会社」というものから出たとき、一人で立つことができないようで、どうする。

最後の意地すら見せる気迫もないのだ。終身雇用制度の悪しき頽廃者と化しているのが、わたしよりちょっと若い世代からわたしの世代、そして団塊のほとんどである。

そんな多くの先輩たちをみて、若い世代が「模範」にしようと思うわけがない。

そんな大人になってはいけない。おそらく、そうした惨めな大人たちというのは、「当たり前」に甘んじてきた人たちなのである。が、君たちは違う。すでに今、きみたちの目の前で、「当たり前」はどんどん音を立てて崩れていっているからだ。

その瓦礫の中から、君たちは這い上がっていくのだ。

ここに、先人たちが遺して言ったいくつかの「兵法」を列挙してみよう。これからきみたちが長い人生を生き遂げていくときに、なにかの役に立つかもしれない。

・きみの前に、選択肢が2つしかないとき。一方は簡単で、一方は困難な選択肢だ。かならず困難なほうを選べ。敵が少ないからだ。

・人生は能力によって決まるのではない。選択によって決まるのだ。それには勇気という、高度に知的な判断がなければできない。

・ルールはできるだけ、単純化せよ。複雑にすると失敗する。

・危機感は、絶好調の中で初めて意味がある。撤退は、その絶好調で決めろ。絶不調のときに逃げると、その後なにをしても成功しない。負け癖がつくからだ。チャンスまで耐えろ。勇気は難しいが、根性は馬鹿でもできる。

・「ゾーン」に入る仕掛けは、簡単である。それが、自分のためではなく、人のためだと思いなすことだ。人間、自分のためには一線を超えられない。しかし、人のためなら、超えることができる。そこにこそ「ゾーン」に入る仕掛けがある。

・もう一つ、「ゾーン」に入る仕掛けがある。それは、過去に積み上げてきたきみの価値のすべてを一気に捨て去るときである。それがなんなくできる瞬間というのは、想像もしない飛躍が待っている。

・キレてはいけない。それでゲームオーバーになる。キレるときには、計算してキレろ。

・スランプに陥ったら、原点に戻れ。霧が晴れて、全景が見えてくる。安心しろ。そのときの原点は、決してゼロ(振り出し)では無い。

・直感は、たいてい正しい。日々積み上げてきた経験に基づく直感なら、99%正しい。

・優れた人がいたら、真似ろ。それは後を追うものの「責任」である。人類の進歩のための「義務」である。

・反復が成功確率を劇的に高めるのだ。百回叩いても壊れない壁を、きみはもう一回叩くことができるか。その一回が、状況を一変させるかもしれない。

・験担ぎ(げんかつぎ)は重要だ。見えないが最大のモチベーションになる。おみくじを引くなら、吉が出るまで引き続けろ。神仏を根負けさせろ。そういうきみは、なにをやっても絶対負けない。滅んでもいい。人生だからだ。しかし、負けてはいけない。

・筋肉は壊せば、死ぬまで成長する。常に、昨日の自分を壊せ。破壊と超回復の理論を信じよ。

・為せば成るという発想を捨てよ。無理があるからだ。成るべくして成るのだ。自分をそう導け。そこには力みもストレスもない。自然体だから、本来の実力が発揮される。

・多数と一致したいという悪趣味を捨てよ。同じことはするな。

・今日の損は、明日の得への貯金だと思え。努力してなお遭遇する悪い運は、つとめて拾え。人生のボーナスはでかいぞと思え。

・生きていく規範など、2つしかない。論語に曰く、「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」「義を見て為ざるは勇無き」。あれこれ理屈を並べるな。

・優等生に近い者ほど先に救われるというのなら、第三世界に救いはない。それと同じだ。何かに追いつくという発想を捨てたところからしか、新時代は始まらない。

・きみを終わり得ないことが、きみを偉大にする。

・人は、試練のさ中に、その使命の意味を知る。

では、今日が最後の一日で、明日はもう来ないのだというつもりで、日々生きていきましょう。



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