マナーなのか、それとも合理性なのか

雑話

これは374回目。日本人は「和」を大切にするといいます。聖徳太子以来の話です。が、それは一面、「物事を荒立てないで、なあなあで済ます」ことならあまり褒められたことではありません。一面ではそのほうが「現実的な対応だ」ということでもあるのです。

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日本人のマナーの良さというものは、世界的にもよく認識されているところだ。要するに、人様にあまり迷惑をかけない、ということになる。

あまり表立ってクレームを頻発しない。少々のことなら、我慢する。そういった側面が、「おとなしい」「あまり主張や意見をしない」「協調性を重視する」といった印象で受け取られがちなのだ。

これが悪くでると、「できるだけ面倒に関わらないようにする」「本当はなにを思っているのかよくわからない」という印象になってしまう。

どちらも事実なのだが、本質的にわれわれの「和の精神」というものは、何なのだろうか。

最近、こういう意見を聴いた。日本人の、「全体最適優先という合理性」ということだ。

全体最適というのは、個々の人間(部分最適)の関係性で悶着が起こる時、全体がうまく行く対処を優先させて、部分最適を抑制するという考え方だ。

たとえば、ラッシュアワーの混雑時、もう一人、無理すれば自分を押し込めることができるかもしれないという状況。しかし、その人がそれを思いとどまったとする。なぜか?

それは、無理に押し入ることで、ドアがうまく閉じなくなったり、なにかが挟まったりして、電車の出発時間が遅れてしまう危険性もあるわけだ。

それを考えると、むしろここは「今なら、このまま電車を見送れば、スムーズに発車でき、自分は次の電車をこれまたスムーズに乗り込むことができる。もしかしたら、今これだけ混んでいるので、次の電車は意外に空いている可能性もある。」と判断できるかもしれない。

彼(彼女)は、そこで今目の前の電車をやり過ごす。時刻通りに混んだ電車は出発し、そう待たずして、後続電車がやってきた。幸運にも、次は前よりもずっと空いていた。

この判断が、全体最適の考え方の一例だという。

つまり、自分が一本送らせて(部分最適を抑制して)、自分を含めた誰もが、スムーズな電車の運行を享受することができる、という発想である。これが、全体最適優先の考え方である。

決してこれは、自分一人が割食えばよい、みんなのためだ、というような、自己犠牲的な発想ということではないのだ。自分を含めた、全体の利益はなにかを優先させる考えかたである。

会議でなかなか日本人が意見を述べないという。

が、それは昔からそうだったのであろうか。どうもそうでもなさそうだ。高度経済成長以降ではないだろうか。

要するに、会議がただの連絡、命令伝達、あるいは数字を達成できない人(グループ)の吊し上げ、といった実に生産的でないものに堕落してからかもしれないのだ。

だから、とっととバカバカしい時間の無駄な会議は、終わらせてしまおう。結論は、何も言わないでさっさと終わらせるに限るというわけだ。有限な時間をもっと、中身のあることに費やそうぜ、ということだ。

自己主張するのを臆してしまうとか、意見を持っていないとか、そういうことではないような気がするのだ。

形骸化した社会では、得てして「ネガティブな側面としての『和の精神』が尊ばれる。日本全体が、社会構造も、企業の体質も国家の運営も、動脈硬化を起こしてし待っている日本では、なるべくしてそういう日本人が増えた、というだけのような気がする。

そうなると「和」の精神というのも、見方が俄然違ってくる。本来これは、「できるだけ、衝突を避けたいがために、自分を出さないで、協調を旨とする」ということではなく、「なにが全体最適な選択・判断なのか」を希求する、実に合理的な発想なのかもしれないのだ。

というのは、最近ここ10年ほどの若い世代の言動を見るにつけ、とても、意見や主張が無いとは思えないのだ。逆に、厳然としてこの日本で続いている、バカバカしく、無意味に長い会議、顔色を変えて無理にでもぎゅうぎゅう電車に乗り込む中年以上の年代の行動様式・・・どちらが、本当の意味での「和の精神」を尊んでいるのだろう。どちらがより合理的なのであろうか。

なんでも若い世代に肩を持とうというつもりはない。ただこの「和」という考え方に関していえば、若い世代のほうが、遥かに本来の「和」・・・それが実は、情緒的な発想ではなく、きわめて合理性を重視する発想だとすれば、・・・に、近いものなのではないだろうか、とそんな気がしたのだ。

そんな気がしただけである。



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