労働の価値が変わる

政治・経済, 雑話

これは420回目。思いもかけない世界的な疾病拡散で、どうにもこれまで変わろうとしなかった日本の労働環境が激変するかもしれません。

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働き方改革といい、年金破綻リスクといい、お先まっくらな日本国民だが、それでも国民自身が変わろうとしなかったのだ。

1990年の暴落と、長期的なデフレ経済の中で瀕死の状態に陥りながら、その雇用スタイルを自ら変えようとはしてこなかった。企業も次の時代に備えて積極的に未来絵図を模索してきたとは到底言えない。

いや、してきた人たちいるのだ。実際フリーランスは増えているという現実がある。それが今や、もしかすると全国規模で大きく労働環境や雇用スタイルが激変するきっかけになるかもしれない。疾病感染拡大のリスクに直面しているからだ。

かつて、経済学者の大家ケインズが「2030年までに経済問題が解決し、自由な時間をどう使うかが人類の大きな課題になる。一週間にフルタイムで15時間働けばよい時代がくる」と言った。

週休二日とすれば、一日の労働時間が3時間ということだ。ほんとうにそういう時代がこようとしているのかもしれない。

もっともロボットや自動化などで、8億人が完全失業するとマッキンゼーあたりは警告する。

さて、働かなくてもよい時代がくるのか。

それとも、働けなくなる時代がくるのか。

ただ、労働というものを切り売りするわたしたちは、その価値が大きく変わってきていることを認識しないといけない。

かつて、労働とはマルクスの労働価値説ではないけれど、それ自体に価値があった。なぜなら、製造業の時代だったからだ。それには労働力は必須であり、なにによって評価されたかといえば、労働にかけた時間によってである。

つまり、労働価値というものは、かつて時間一つだったといってもいい。わたしたちは、時間を切り売りしていたのと同じだ。

未だに、タイムカードなどというものがある。これがおよそナンセンスになろうとしているわけだ。

それが、知の時代と言われるものだ。つまり、労働とは投入された時間ではなく、生み出した知の価値によって計算されるという考え方だ。そうなると、肉体のハンディ、高齢による衰え、といったものは、まったく障害でもなんでもなくなる。

優れたアイデアやノウハウを生み出す人が果実を得る時代ということだ。もちろん伝統的な時間の切り売りをする労働がまったくなくなるわけがない。製造業にしろ、小売・サービスにしろ、さまざまな職種で伝統的な労働価値説的な雇用慣習やスタイルはずっと残っていくだろう。

一方で、多数を占めてくるのはもしかしたら、そういう時間の切り売りとはまったく無縁の雇用シーンというものなのかもしれない。

それを加速させているのがデジタル化だ。これが、資本主義を成り立たせてきた、資本家と労働者という境界線を、にわかに消しゴムで消し始めているのである。どちらが優位な立場か、わからなくなってきたといってもいい。

アメリカでは組織に属さないフリーランスが、2027年にも全就労者の過半を占めるようになるとさえ言われている。

今般のウイルスショックで、にわかに日本でもテレワーク、在宅勤務がやむを得ず始まったようだが、これが一過性で終わり、もとのタイムカードの世界に戻っていくかと言うと、おそらくそうではない。

「なんだ、やればできるじゃないの」という感じを、労働者も、また企業サイドも感じる大きな転機になるかもしれない。

 



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