霊的存在への理屈っぽいアプローチ

宗教・哲学, 雑話

人間を、物の見方や考え方で大きく二つに分けるとしたら、霊を信じるか、信じないかと分けることもできます。

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最近、実は驚いているのだが、おそらくこの5-6年だろうか、かつて考えられないほど「怪談」を語るプロやセミプロ、アマなどネット上に非常に多く登場するようになったのだ。

以前のような「変わり者」扱いとは違い、かなり社会における居場所が確固たるものになってきているように見える。
火付け役はアマチュアだった。

昔のような専門の怪談師ではなく、一般の人がそれこそ怪談好きの集まりのようなものから始まったのだが、あれよあれよと今ではネット上には怪談というジャンルで溢れている。

ただの物好き、怖いもの見たさ、という志向性は昔からあったのだが、これだけ流行りになるとは思ってもみなかった。

霊という存在に関心を持つということは、それ自体は良いことだと思っている。

見えないものに関心が無いということは、他人のこともまた見えなくなっていることが多いからだ。霊などという存在は、赤の他人の最たるものだ。

霊などというものを「発見」しようとするのは、土台、無駄な努力なのだ。ただ、そうした無駄を敢えて好むには、どこか精神的余裕がなければできないことなのだ。

もちろん、霊に関心が無いからといって、人間的に問題だというつもりはまったくない。精神的な余裕がその人の場合、どこに表れているかという違いなのだろうから。

この霊的存在に対して非常に親和性が強く、日常的に受け入れられている世界は、おしなべて地方に多い。
典型的なのは、沖縄のユタ、ノロという存在や、東北のイタコという存在がそれである。
もちろんそれぞれの地元でも、こうした存在に眉をひそめるひとたちは、個々には存在するだろうが、総じて自然に受け入れられている。

それは、科学という文明が行き渡っていないからだという理由はもはや通らない。文明的に遅れているからでは、全然ないのだ。
日本は、すでに沖縄であろうと、東北であろうと、離島であろうと、国土の隅々まで科学的な世界観はとっくに行き渡っており、科学の重要性に疑いを持つ前近代的な地域性などというものは無い。

物理的には、都会と何ら変わらない。コンビニがあり、通信手段も問題ない。せいぜい、鉄道が多いか少ないかくらいの違いしかない。

どんな田舎であろうと、一瞬で東京や世界で起こった事実が伝播される。

にもかかわらず、沖縄や東北では、日常生活にかなり霊的存在が染み込んだままであり、霊的世界観はずっと生き続けている。

日本人のストレスを測ってみればよくわかる。東北や沖縄の居住者のストレスは、東京・大阪人のストレス度数に比べて圧倒的に低い。つまり精神的余裕は、明らかに北と南のほうが中心部や大都市圏に比べて豊かなのである。

仕事にしろ、住居にしろ、あるいは生活のスタイルにしろ、都会は経済合理性に貫かれている。だから、単調である。無駄なものを見たり、考えたりする余裕がそこには無いし、求められることがない。

だから、都会に住んでいる場合、一日一度は、人間がつくったものではないもの(見えるものも、見えないものも)を見たほうがよい。

なかなかお目にかかることもないのだが、霊的存在に関心を持つということは、だから自体悪いことではない。
メルヴィルが言った、「われらが進歩と称するこの堕落した時代」を生きていく以上、かつてわたしたちが置き忘れてきたものの中に、わたしたちの本質を思い出すしかないのだ。
霊的存在というのは、その一つの浮標といってもいい。

肉体を持っているか、持っていないかというだけの違いであり、「彼ら」もしょせん、われわれと同じ人間である。
「神」と称される存在ですら、おそらくもとは人間であった可能性が圧倒的に高い。

人格という要素がある限り、それはかつて「人間であった」はずだ。
人格という要素がない、超越的な存在は、もはや「神」というよりも、エネルギーに近いだろうから、およそわれわれの手に余る。
が、人格という要素を持った霊的存在であれば、それはわれわれと実はなにも変わらない。

だから、われわれが普通の生きている隣人に応対するのと同じように、霊的存在や神と称する存在にも応対すればいいだけのことだ。

その社に詣でるのであれば、失礼のないようにするのは、友人や先生の家に上がるときに、失礼のないようにするのと同じだ。

社殿の前でいきなりお願いはないだろう。
ふつう、自分がどこの誰かということを述べて、身分を明かすに違いない。
そこからのはずだ。

ふだん訪れたこともない社に、苦し紛れにお参りをしたところで、聞き入れてくれるはずもない。
毎日でなくとも、毎月一度は訪れて、ご機嫌伺いや、お世話になっていますと感謝を述べていれば、向こうもこちらをよく知るようになる。
いざ困ったときにお願いをすると、てきめんに効果が高い。

こんな神社詣でのコツもよく知られたことだが、これらはわたしたちが日常、人と付き合うときにする当たり前の礼儀となにも変わりはしないのだ。

社殿にはいくつも摂社がある。

小さな祠もいくつかあったりする。

本殿だけにお参りして帰らず、そうした祠にもご挨拶してから帰るのが道理だ。

わたしたちが友人の家にお邪魔して、その家族たちを家中で見かけ、なにも挨拶もしないでいるだろうか?
それも同じことだ。

挨拶されなかった家人たちは、友人に言うだろう、「今日、うちにきたあの人は、礼儀知らずだね。あんまり付き合いを深くしないようにしたほうがいいよ。」と。
そんなことを眷属や摂社の神々から、本殿の主祭神に告げ口されかねないではないか。「あいつは駄目だ」と口を揃えて言われれば、主祭神もわれわれを助けてやろうかと思っていたのを、やめてしまうかもしれない。
ご利益のほとんどが台無しになってしまうかもしれないではないか。

ことほと左様に、見えない存在というものを、意味もなく畏怖するのではなく、またただの興味本位の対象とするのでもなく、わたしたち生きている人間と同じように対応すればいいだけのことなのだろう。

唯一違うとことがあるとすれば、わたしたちは彼等を見ることがなかなかできないが、彼等は始終わたしたちの言動のすべてがお見通しだということだ。
わたしたちは、彼等の前で何一つ隠し立てすることができない、という圧倒的な違いはある。

だから、スキを見せたら、相手が結構悪質な存在の場合、勝負は見えている。
われわれに勝ち目はない。

そんなふうに霊的存在というものをわたしは考えているが、別に霊能者でもないからこれが実態に近いかどうか、正直自信はない。

ただ、そう考えるのが一番彼等と共存していく上では、「合理的だ」と思っているだけである。

ときに、「なぜあなたはそんなに霊の存在を信じられるのか」と聞かれるときがある。

いや、信じてなどいないのだ。
知っているだけのことだ。
実際に見て、経験して、その事実を知っているから、もはや信じてなどいないのだ。信じるというのは、知らない人が使う言葉だろう。ただそれだけのことだ。

見ない人というのは、たぶん、その人には見る「必要」が今まで無かっただけのことだ。きっとそのはずである。「必要」なときがくれば、おのずと見える瞬間が訪れるのではないだろうか。

そんな風に思っている。



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