アウトサイダー

雑話

これは465回目。
わたしたちが生きているというのは、どういうことなのか。
そんな大それた話だ。

人間は、社会的動物である。
だから、社会人(インサイダー)としての意識が、生活の大部分を支配している。
そして、さまざまな壁や、苦痛やストレス、感慨や幸福感を味わうが、ほとんどが社会人としての人間ならではのことだ。

恋人や妻、親や子どもたちといった近親者との私的な人間関係も、広義の社会人の範疇に入る。

この社会人としての意識に振り回されることに潔しとしない種類の人間がいる。

コリン・ウィルソンなどに言わせると、「アウトサイダー」と呼ばれる人種だ。

彼が著書、「アウトサイダー」で次から次へと代表的な作家、画家、舞踊家などの例を上げて、こうした非社会人的な意識を持った人たちの思想的苦闘を解説した。

SF小説の先駆けとなったHGウェルズは、そういう態度を簡潔に述べている。

「こんな人生は夢だ。現実ではない。」

ウェルズは、人間が人間社会のなかで営む人間生活、そういう意味での人生を否認する。
そして、問いかける。

「あるがままに現実を見たとき、人間はどうするのか?」

戦後、サルトルは、そうした一つの人間観察を遺した。
小説『嘔吐』の中で、ロカンタンに要約して言わせている。

「人間とは、徒労の情熱である。」

そこには選択の余地はなく、ただ徒労な生存を続け、それを自覚することしかない。
それでもロカンタンは、意味と秩序とを垣間見ることはあったのだ。
「いつの日にか」という思いがそれだ。

サルトルは、何だかんだいいながら、結局、共産主義革命に傾斜していったわけだから、ずいぶんとインサイダー(社会人)的ではある。
カミュの、「抵抗の精神」を揶揄し、中途半端だといって馬鹿にした割には、自分はすっかりミイラ取りがミイラになってしまっていたように、わたしには見える。

こうした近代・現代人の精神的病理というものは、もとを正せば、神から切り離されてしまったことに端を発している。
神という絶対的存在に、すべてを責任転嫁していた時代に決別し、人間自身でその生と死のすべての責任を負おうとしたところに、途方も無い苦悩に襲われる陥穽があった。

人間は、神と断絶することで、永遠の自由と自我を得た、勝利したと信じた。その栄光の頂点たる言葉こそ、「ヒューマニズム」である。

しかし、現実の世界はどうだ?
それがあまりにも楽観的でおめでたい「悲喜劇」だという恐るべき警鐘は、19世紀欧州で澎湃として沸き起こった。

ヒューマニズムの行きつく楽観論の果てに、背筋も凍る無意味さが訪れることに愕然とした「アウトサイダー」たちがあいついで異を唱え始めたのだ。

結果、ニーチェやニジンスキーやゴッホは、発狂した。
漱石は血を吐いて死に、芥川や太宰は錯乱して自死し、宮沢賢治は無私の極限にまで自分を追い込んだ末に力尽きて死んだ。

彼らの狂気は、彼らの妄想によるものなどではなく、実際に、第一次大戦・第二次大戦という人類史上、未曾有の殺し合いを生み出したことで、彼らが決して間違ってはいなかったことを証明している。

このヒューマニズム(人間中心主義)の悲劇を目の当たりにした行動者・ヘミングウェーが遺した小説は、ことごとく暴力的で血なまぐさい。
彼ははっきりと書いている。

「わたしにはわからない。が、大部分の人間は、少しも人間らしくなく、動物のように死ぬ。」

これが、アウトサイダーによる、「ヒューマニズム」への回答である。
勇気の価値すらアテにならない。
死が勇気を否定するからであり、勇気を奮い立たせるものといえば、大概は「アヘン」のように麻痺させるものだ。

後にサルトルが、その類まれな知性を総動員しても、結局、ヘミングウェーの回答を越えるものを提示することはできなかった。

戦後の精神的営為というもののほとんどがそうである。
戦前に出尽くしたといってもいい。
戦後は、すべて戦前の亜流に過ぎないといっても過言ではないと思う。

舞踊家のニジンスキーは、世界観が崩壊していく前に書き残した。(彼の後半生はほとんど狂人であり、1950年に死んでいる)

「わたしはキリストよりも苦しんだと信じている。わたしは生命を愛している。そして生きること、泣くことを欲しているが、そうできない。魂に烈しい痛みを感じるのだ。・・・わたしの魂は病んでいる。わたしの精神ではなく、魂がである。医者たちには、わたしの病気がわからない。・・・この文を読むものは、誰もかもが苦しむであろう。・・・わたしの体が病気なのではない。魂が病んでいるのだ。」

トルストイはほとんど世捨て人になった。

彼は、『戦争と平和』の中のピエール・ベズーホフの口を借りて苦悩を吐露した。

「人生とはなにか? なぜなにかをなさねばならぬのか。かならずやってくる死に打ち勝てる意味が人生にあるのか?・・・悪とは何か? 善とは何か?・・・なんのために人は生きるのか? わたしとはなんだ? 生とは? そして死とは?」

ピエールは、銃殺の場面で愕然とする。
兵士たちは、自分たちがどんなことをしているか気づいていないのだと感じたのだ。
死の問題、そして人生の意味の問題は、人間にたいする人間の、非人間的行為からまったく切り離されていると、ショックを受けている。

トルストイはかなり、こうした19世紀から20世紀にかけてのキラ星のごとく輩出したアウトサイダーたちの中でも、かなり具体的に、わかりやすく「苦悩」した。

『イヴァン・イリイッチの死』では、こう書いている。

「わたしの全人生が間違っていたとしたら、どうすればいいのか?」

イヴァンは、「だが、どう生きれば良かったのか」と自問するが、その答えは見つからない。
瞬間的にはなにかを感じたこともあったのだ。
しかしそれは閃光のように消えた。
妻や子供も、ほんとうにはイヴァンを思ってはいないし、たとえ思っていたとしても、どうなるものでもない。
イヴァンは一生のあいだ他人とともに生きてきた(インサイダー=社会人)が、いまは一人で死のう(アウトサイダー)としている。

「死に代わって光があった・・・
『終わった』とだれかがそばで言った。
そのことばを彼は聞き、魂のなかで繰り返した。
『死は終わった』と。」

みじめな状況から彼を解放したのは、『われを許したまえ』であった。

トルストイや、同時代のドストエフスキーが、ロシア文学でも突出した「先見性」があったとすれば、それは神から切り離された人間が、神に戻っていく経路を指し示したからにほかならない。
それは、近現代人が意識的に逃れようとしたものを、目覚めさせたという意味で突出していたと言える。

しかし、トルストイは果たしてどこまでその仄かな答えに確信を持っていたろうか?
結局かれは、家を捨て、農奴を解放し、家出し、3日後に駅舎で客死した。
ドストエフスキーはまだ幸せだった。
破滅的な人生の結末に至る前に、動脈瘤破裂で生を終えてしまったから。
そのかわり、若き日に、無政府主義者として同志たちとともに銃殺刑の判決を受け、射殺寸前に、皇帝からの恩赦の連絡が刑場にもたらされ、九死に一生を得るという、ほとんど死神と面合わせする恐怖を味わっていた。
その衝撃に比べれば、トルストイの苦悩など「アマチュア」かもしれない。

しかし、ふと考えてみれば、彼らアウトサイダーたちは、ほんとうにアウトサイダーだったのだろうか?

コリン・ウイルソンに言わせれば、「アウトサイダーは、誰もがアウトサイダーを止めたがっていた」という。
「自由」とか、「平等」とか、「個性」とか、いった社会的用語によって、魂の問題を遠巻きに規定するようなインサイダーたちの自己欺瞞には与しない。

アウトサイダーたちは、なんらかの調和を一様にもとめていた。
そして、感覚や知覚を生き生きと躍動させることを欲していた。
魂とその働きを理解したがっていた。
「力」への意思、より充実した生命を求める意思に、いわば「取り憑かれること」を念願していた。
なかんずく、自己表現をどうしたらよいのか知りたがっていた。
自己を知り、そこに潜む未知の可能性を自覚する方法は、自己表現による以外にはないからである。

彼らの作品は、小説であろうと、童話であろうと詩であろうと、絵画であろうと、舞踊であろうと、なんであろうとすべて苦痛に満ちたものばかりだ。
しかし、彼らは不幸であったのか?

おそらく途方もない「ときめき」と、「感動」の中で、彼らはそれぞれの命を燃焼していたはずである。

芸術は、それが目的ではない。
芸術を人生の目的を達成するための手段にするならば、それがインサイダーの生き方である。

が、アウトサイダーたちはその選びをしていなかったはずだ。
彼は、芸術をすること自体に、烈しいときめきと感動を覚えて続けていたはずだ。

彼らは、社会人として人々に警鐘を鳴らしたかったろう。参考になりそうな知恵を、そして喜びや、心の躍動を与えたかったろう。

しかし、それはアウトサイダーたちにとって二義的なものに過ぎなかったはずだ。

彼ら自身が、芸術をすることそのものに、ときめきと、感動を覚えていたはずだ。

だからこそ、19世紀から20世紀の100年という、芸術の黄金期を築いたのであり、未だにこれらを越えるものは何一つないに違いない。

わたしたちが、インサイダーとして生きている以上は、社会的活動に勤しまざるを得ない。しかし、それはただの手段にすぎない。どの手段を選ぶにしろ、アウトサイダーの魂は「ときめき」と「感動」に満ちているはずなのだ。

インサイダーで終わるなら、ただの社会の歯車だ。

しかし、アウトサイダーとして生きることができれば、なんの不安も後悔もない。神や霊性というものがあるのだとすれば、まさにわたしたちがこの生きている瞬間瞬間に覚える「ときめき」と「感動」のうちにこそあるのだ。

そのとき、インサイダーとしての苦痛や苦悩は、もはや苦痛や苦悩ではなくなっている。



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