食料が足りないというのは、本当なのか?

雑話

これは49回目。わたしは事実とデータを重視しましょうと前回書いていますが、そもそも統計が間違っているということはあるんでしょうか。なんか、今、国会でもずいぶん問題になっていますが。確かに統計はウソではないとしても、作り方、見せ方で伝わるものがまったく異なってしまうということはあるのでしょう。↓ 前回の記事 ↓

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多木化学という企業が、大正7年1918年創業の、日本で初めて人工肥料を開発した会社だ。昨年、バカマツタケの完全人工栽培に成功したと発表し、3ヶ月で株価が2.3倍に化けた。

松茸(マツタケ)は、日本国内の消費量に占める国産の割合が、わずか5%にすぎない。とくに、香りが珍重される食材だけに、圧倒的に国産のほうが人気がある。バカマツタケは、本物の松茸より濃い香りだそうだから、株式市場で飛びついた投資家も多かった。

松茸に限らず、食べ物の国産か輸入物かは、つとに話題になる。かつて、昭和30年代、日本の食糧自給率は78%だった。今それは39%に落ち込んでいる。品目によって過不足はあるのだが、総合的なデータだけで比較すると、カナダやアメリカ、フランス、そしてオーストラリアと、いずれも130-230%と大いに余剰分がある。これらの国は、純然たる農業大国といっていい。

一方、100%の自給率には達していないが、健闘していると言えるのがドイツやスペインで80-90%だ。土地が痩せていると思われる英国でさえ65%。あんな北国でと思いがちなスウェーデンでも80%近くあるが、これは人口そのものが少ないからかもしれない。逆に、イタリアは思いのほか多くなく59%にとどまっているが、グルメ大国だけに食い過ぎるのかもしれない。

ところが、韓国の食糧自給率は40%、台湾が32%と日本とたいして変わらない。中国・インドはおおむね100%前後で推移しているようだ。もっとも中国もインドも、はっきり言って信憑性が無い。中国は政治的意図で都合のいい数字に捏造する常習国家であり、インドにいたってはそもそも国勢調査が行き届いていないから、統計の前提が間違っている可能性が大である。

こうしてみると、多くの人はこう信じているはずだ。「日本の食糧自給率は低い」「将来、世界的食糧危機になるのだから、日本は食糧自給率を高めて備えなければならない」「日本の農業は弱く、保護しなければ崩壊してしまう」等々。しかし、もしそれが、でっちあげの大嘘とは言わないまでも、何か計算の仕方が間違っているとしたらどうだろうか。

実は、上記で挙げた食糧自給率は、カロリーベースの数字だ。生産高ベースに直すと、じつは日本の自給率は66%と海外諸国に見劣りしていない。そもそも、カロリーベースという指標を、国策(農水省)として使っているのは、世界広しと言えども日本だけらしいのだ。

ではなぜ、農水省はそんな計算を敢えてしてきたのだろうか。よく分からないが、けっきょく農産物の増産とかいう話にでもしないと、予算が余計に取れないからではないのか。農水省に対しては、やや酷な見方かもしれないが、ほかに納得のいく理由があるのだろうか。わたしは素人だからわからないが、そんな気がしてならない。

確かに、おかしなことに気づくことがある。たとえば、世界的な食糧供給不足という大きな問題だが、これも供給量そのものは、人口の増加ペースよりも高い水準で増大している。過去40年間の人口増加率は190%だが、穀物の増産率は215%であり、明らかに穀物増産率のほうが上回っている。むしろ過剰な生産と在庫という問題が起こっていても不思議ではないじゃないか。

もともと、この食糧供給の危機意識というのは、18世紀の経済学者マルサスが書いた『人口論』で、「人口は幾何級数的に増えるのに、食糧は等差級数的にしか増えていかない」と書いたことがもとになっている。幾何級数的な増え方とは数倍の勢いで増大する。これに対して、等差級数的な増え方とは隣りの項との差が常に一定になる増え方(例:3→5→7)だ。このマルサス理論が現在の食糧危機説、終末論に結びついているのだが、実は過去これが立証されたためしはない。

考えてみれば、話は単純なことだ。食糧が増えなければ、人口は増えるわけがないのだ。素人的にはそう考えてしまう。どうして、食糧より先に人口が増えるのか、なぜ、食糧危機が急速に訪れるのか、おかしな話ではないか。しかも、誰もこれに納得できる答えを教えてくれない。

はっきりしていることは、農政というものは農家を保護することでも、消費者を保護することでもない。それも分からない農水省なら、いちど解体してしまったらいいんじゃないだろうか。いっそのこと、予算配分という権限が集中する財務省も、その権限をすべて奪って、アメリカみたいに議会(国会)に渡してしまったらどうなんだろうか。遥かに透明な予算になってくるんじゃないだろうか。

もっと言えば(筆が走って、やや脱線するが)、こうした当局の出すデータというものは、鵜呑みにしていいのか、実に疑問が残る。アメリカ発の、「地球温暖化」という危機論もそうだ。私は昔から、現在は1万年サイクルの間氷期にあり、今後寒冷期がやってくると教わってきた気がするが。

しかし、今やそんな話はどこかに飛んでしまって、やれCO2だの、海面が上昇しているだのと大騒ぎだ。確かにそういう側面はあるのだろう。しかし、地球という壮大な質量をもった大自然に対して、たかだかちっぽけな人間のやることが、そんなに影響を与えられるものなのか。太陽系の中で繰り返されるこの1万年サイクルの間氷期・寒冷期(氷河期)が、いとも簡単に狂ってしまうものなのだろうか。そんなに人間のすることは凄いのだろうか。

わたしなどは、よく知りもしないこの問題に関してえらそうなことを書いてしまっているのだが、この地球温暖化というのは、人間の物質文明の影響もあるだろうけれど、根本的には間氷期において、たまたま温暖化するタイミングにあるだけなのではないのかと、そう思ってしまったりするのだ。

私などは、どうしてもそのような疑問が頭から離れない。けっきょくエコだとかなんとか言って、誰かが、あるいはどこかの国がボロ儲けをするための口実ではないか、などとどうしても体を斜に構えてしまう自分がいる。

そもそも、食品は無駄が多いというのが、恐らく多くの国民の認識なんじゃないだろうか。食品の安全基準には賞味期限、消費期限と二つあるが、私は結構その辺について無頓着で、昔から期限切れのものを大丈夫だろうといって食べては、えらい目に遭ったことが多い。

ちなみに賞味期限は、ハム・ソーセージやスナック菓子、缶詰など常温で保存がきく食品に表示されるもので、開封されていない状態で通常保存したときに、おいしく食べられる期限が示されている。一方の消費期限は、弁当や生菓子など常温では長く保存できない食品に表示されており、期限を過ぎたら食べないほうがよいとされている。

こうした期限が過ぎたものは廃棄されるわけだが、それを「食品ロス」という。これをなんとか減少させようという動きは近年高まってきてはいる。当然、企業にとっては利益率の改善につながるし、消費者にとっては生活費の節約につながる。また、東日本大震災でにわかに注目を集めるようになった、備蓄食の開発も期待できる。具体的には賞味期限を延長するようなことだ。

驚くべきことに、年間に発生する食品ロスは、500万トンから800万トンにものぼるという。一人当たり、一日におにぎり一個から二個を毎日廃棄している勘定だ。これは、日本の米の収穫量一年分(850万トン)に匹敵する。飢餓に苦しむ世界各地への食料援助量(年間390万トン)を遥かに超える量だ。先述の日本の食糧自給率というものは、やはり根本的にデータのつくりかた、考え方の何かが間違っているとしか考えられない。

これを世界レベルで見てみると、9億人とも言われる飢餓線上の人口に対して、3億トンが廃棄されていることになる。つまり、これは世界中の年間生産量の三分の一に相当する。膨大なエネルギーを使って生産した食品を、これまた膨大なエネルギーを使って廃棄処分しているわけだから、皮肉なこと極まりない。

コンビニが24時間営業をするために、最初から廃棄を想定した大量仕入れが行なわれていることは、よく知られている。たしかに、直接的には「もったいない」という類の話なのだが、単にそれだけでは済まされない。利便性と引き換えに多くの新たな問題を、私たち人間はいつも増やしていっているようだ。何か現代社会のシステムの妥当性が、根本的に問い直されているような事実が、この食品ロス問題には見え隠れする。



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