半可通の戯言(ざれごと)

雑話

これは61回目。中途半端な知識しかないのに、通ぶったりすることを、半可通という。わたしも、ちょっとものを知ると、そういう癖(へき)があります。

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たとえば、蕎麦(そば)の食い方だが、そもそも蕎麦といったら、東京では盛り蕎麦(もりそば)のこと言う(最近では、ザル蕎麦と、言葉が混用されているが。)。間違っても暖かい汁蕎麦のことではない。この蕎麦を、どっぷり汁(つゆ)に浸して食べるのは、無粋だといういい加減な知識を覚えていた。

記憶では、落語家の話に由来するものだった。江戸っ子のそのお師匠は、いつもそばを箸でさっとつまむと、先っぽのほうだけちょんちょんと蕎麦汁につけて、(ほとんどついていないのと一緒だ)ずずずっと食べる。どっぷり蕎麦汁に浸してはいけないのだ。

ところが、この話には落ちがあって、その師匠がいまわの際に言った一言というのが、「一度、蕎麦汁にどっぷりつけて食いたかったなあ。」という。本音はそこにあったが、お師匠は、粋のために、汁をほとんどつけずにずっと長い生涯、蕎麦を食べていたのだ。不幸な話である。

しかし、これこそが、江戸のダンディズムなのだろうと、勝手に思っていたら、とんでもない。ものの見事に打ち砕かれた。ずいぶん前だが、池波正太郎の「男の作法」というのを読んだときのことだ。

そもそもどうして、蕎麦をどっぷり汁に浸してはいけないのか。それは、江戸時代、蕎麦汁というのは、今と違って、ほぼ原液の状態で出されたのだそうだ。つまり、どっぷり蕎麦を浸してしまったら、辛くて食えたものではないのだ。だから、ちょっとつけて、ちょうどいい按配になるようにして食べたというのである。つまり、先述のお師匠は、通ぶっていたが、実は半可通だったということにほかならない。

従って、今の時代、蕎麦屋に入ったら、濃い汁のところもあれば、薄い汁のところもある。わたしが子供の頃から、家族で墓参りに行った後、必ず寄って食べたのが、麻布十番にある永坂更級布屋太兵衛だが、ここでは辛い汁と薄い(甘い)汁が出る。それでも昔ほど辛いわけではなく、加減してるのだと思うが。

どれで、どう食ってもよいのだ。どれがよい悪いということもないのだ。ただ、薄い汁のときには、なにも通ぶることはなく、堂々とどっぷり汁につけて食って構わないのだ。それを知ってから、慌ててどっぷり食うようにしている。

池波は、蕎麦一つとっても、それこそ江戸の粋というものを、これでもかこれでもか見せるのだが、どれも嫌味がない。だいたい薀蓄(うんちく)を垂れ流しされると、辟易するものだが、どうも池波の言にはそうした嫌いが無い。それは、合理的だからだ。

そもそも、「粋(いき)」というのは、伊達や洒落、格好のことではない。合理性に貫かれていることなのだ。それを、思い知らされたものだ。

たとえば、同じ蕎麦の話でも、七味唐辛子を振り掛けるが、だいたい蕎麦自体が美味ければ、振り掛ける必要などない。それでも、これは好き好きだから、かけるとしよう。それを読むまでわたしは、ひたすら蕎麦汁の中にどっさり振り掛けたものだ。ぴりっとくるのが好きなのだ。

ところが、これは池波に言わせれば、野暮なのだそうだ。彼は、蕎麦そのものに、ぱらぱらと振り掛ける。つまんで一口食う分くらいを目安に、都度振り掛けるのだ。

言われてみれば、その通りだ。汁にいれてしまった日には、よほど入れなければ、ぴりっとこないし、そもそも風味というものは、汁にまぎれてどこかへ飛んでしまう。

蕎麦そのものに振り掛けて食えば、風味も、味わいも、蕎麦を口にした瞬間から、直接鼻や喉に広がっていくのだ。これはうまい。

それからというもの、七味も蕎麦に直接、その都度振り掛けて食べるようになってしまった。

確か、似たようなことを、別の章で池波は書いていた。刺身の話だったと思うが、わさびの使い方だ。これまた同じで、わたしは昔から醤油にわさびを溶いて、刺身を浸して食べていた。

池波に言わせれば、ちょっとだけ、刺身にわさびを直接箸でつけて、それを醤油にちょこんとつけて食うのだ。わさびはわさびの主張を、われわれの口の中でする。

格好つけでもなんでもない。合理的なのだ。そのほうが確かに、わさびが美味いのだ。わさびが美味いということは、その刺身が引き立つのだ。蕎麦と七味唐辛子の関係もまったく同じだろう。

まあよく蕎麦の食い方については、いろいろとネタになる話はある。蕎麦屋にいるのに、蕎麦をすする、あの「ずるずるっ」という音がほとんど聞こえないことがある。あれはどうしたものか。

音を立てずに蕎麦を食って美味いか? 美味くなかろう。女性などは、(気持ちはわかるが)口をすぼめて、(すすらずに)箸でちょこちょこ口に押し込んで食っている。あれはいただけない。見ているこちらが、痛々しい気持ちになってくる。少なくとも幸せではない。

洋食ではないのだ、がんがん音を立てて食わなきゃもったいない。ただ、それには反論もあるだろう。すすったら、汁が衣服にはねてしまうからだ、と。いやいや、それなら、ナプキンでもなんでも、胸元に引っかけて、エプロンのようにして食えばよい。

もちろん突き詰めれば、人のことだから、食いたいように食えばいいのだが、なんだかそれこそ野暮な気がする。

面白いのは、外人だ。連中を蕎麦屋に何度も連れて行ったことがあるが、まず音を立てて、すすって食うということができない。そういう食い方というものが、洋食にはないのだ。マナー上も好ましくない。だから、どうやって音を立てて、ずずずっと吸い込むようにして、口に含み、二三度噛んだだけで飲み込んだらいいのか、どうにも要領を得ないのだ。

人の悪いわたしは、これを無理強いするのが大好きだった。まあ、でかいいい男が、日本の女性のように口をすぼめて、一生懸命馴れない箸で蕎麦を口に押し込もうとしているのをみて、さんざん爆笑したものだ。

何かにつけて半可通のわたしでも、一人二人で行くときに、必ず守っていた作法がある。それは、寿司屋で長居をしないということだ。下戸(げこ)だから長居をしないのではない。下戸でも、「飲みに行く」のは好きだったのだ。(大人数は苦手だが)

寿司というのは、ファーストフードだ。日本橋や佃、あるいは品川の河岸(かし)で、屋台同然に出していた立ち食いが、寿司なのだ。それこそちょっと小腹にいれて、さっと出て行くのが粋なのだ。寿司で腹いっぱいになるまで食おうという魂胆自体が、そもそも野暮であり、間違っている。だから、じっくりたっぷりというのは、その後の飲み屋に時間を預けるのだ。

だいたい、寿司屋で長々と酒を飲みながら居座るものだから、儲からない。儲からないから、当然高くなる。みんながさっと食って、さっさと出て行けば、回転数が上がる。回転が上がれば、安くても、店は儲けが出せる。安くなれば、どんどんちょんの間に、寿司屋にひょいとみんなが入ってくる。後はもう連鎖だ。なにしろ、日本人は寿司が好きなのだ。もっとも、これは屁理屈かもしれない。しょせん、コストが高いから、寿司屋は高いのかもしれないが。

これも、自分の勝手な半可通なのか、と思ったら、池波は「男の作法」(確か書いてあったと思う)で、「その通り。寿司屋で長居をするな。さっと食って、とっとと出て行け。」と書いていたはずで、それで我が意を得たりと、文字通り得意になったものだ。

ちなみに、これも池波から「お墨付き」を得たと思っているのが、「根深汁(ねぶかじる)」である。要するに、葱(ねぎ)の味噌汁だから、なんの変哲もない。しかし、味噌汁で一番美味い食い方というのは、この最も単純な根深汁に限ると思っている。

出し汁に、葱をブツ切りにして、味噌を溶き入れるだけなのだが、これが格別だ。豆腐、カブ、わかめ、玉ねぎ、大根、芋類、冗談ではない。味噌には葱(ねぎ)と決まっているのだ。

と、かたくなにそう思っていたら、長じて、池波の小説をあれこれ読んでいた時分に、ふと気がついたことがある。とくに江戸物の場合(「仕掛け人・藤枝梅安」や、「剣客商売」など)には、やたらとこの「根深汁」がでてくる。はて、池波も根深汁が好きだったのだろうか、と思い、わくわくした。なにしろ、食通で知られた男だ。その男が好きだった味噌汁が根深汁だとすれば、おれも大したものではないか。

はっきりそうと決まったわけではないのだが、どうも池波はやはり根深汁が好きだったようだ。ただ、わたしの単純な根深汁と違い、一ひねりがある。なんと、胡麻油を少したらしたりするのだ。別の折りに知ったのだが、本人が好きだったのは、鳥の皮を少し入れる根深汁だったそうだ。やってみた。確かに、一段と風味が増して美味い。単純にして、芳醇とはこのことよ。つくづくわが身の半可通ぶりを思い知らされ、「参りました!」と恐縮した次第。



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