絶体絶命のとき、名将はどうしたか?

雑話


これは76回目。歴史物です。戦国時代の名将と呼ばれる人は、こんなふうに丁々発止の戦術や罠を駆使したのか、という典型的な例です。絶体絶命に追い詰められたとき、名将はどう判断し、なにをしたのでしょう。武田信玄と北条氏康の三増峠合戦で、その息詰まるやりとりを見てみました。

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人間、どんなに巧い手を打ち続けたと思っていても、気がついたら、とんでもないピンチに陥っていたということが、ときにある。永禄十二年1569年の冬の武田信玄がそうだった。目の前の成功に自画自賛したが、その実、ふと我にかえってみたら、信じがたいほどの危機に直面していたというケースだ。言わば上手の手から、水が漏れたのだ。自業自得といってもよい。

当時の時点では、推計二百万石に相当する(計算方法にもよるが)版図を築き、最大の戦国大名にのし上がっていた信玄だったが、その結果は、周囲をすべて敵に回すことになっていた。まさに四面楚歌。絶対絶命のピンチだ。さすがの信玄も震えた。

北は越後の上杉謙信、東は相模の北条氏康、西は三河の徳川家康。三者が共同で信州、甲州、遠江・駿河へとそれぞれ軍を進めれば、もはや信玄にまったく勝ち目はない、という危機的状況だ。このピンチを、信玄はどう切り抜けたか。その話だ。

信玄という人物は、きわめて慎重にして合理的な思考回路の男だ。戦国武将としては稀に見る知的教養の高さからしても、インテリ武将だったといっていい。性格も、剛毅なイメージとはまったく異なり、むしろ神経質なほど繊細で、いわば「やさおとこ」であった。そもそも病弱であった。

事の発端は、誰も予想もしないハプニングだった。尾張平定に臨んでいた今川義元(東海一の弓取りと呼ばれた)が、あろうことか桶狭間で小大名・織田信長に討たれてしまったのだ。永禄三年1560年のことだ。主(あるじ)を失った今川家中は一気に勢いを失い、独立した松平元康(後の徳川家康)によって、見る見るうちに遠江(とおとうみ)が略取され、駿河自体の支配もおぼつかなくなるという状態に陥った。まるでそれは坂道を転がり落ちるようであった。

翌年、信玄の気持ちを大きく変える大事件が起きた。永禄四年1561年、第四次川中島合戦である。それまで、信玄は、北条氏康(相模)と故・今川義元(駿河)との間に、それぞれ縁組を行い、有名な甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)を結んでいた。それによって三人は、背後の脅威を気にすることなく、北条は関東平定に、今川は尾張平定に、そして、信玄は信州平定に全力を傾けることができたのだ。

ところが大きな壁が立ちはだかった。それが上杉謙信だった。第四次川中島合戦は、戦国でも類例がないほど、両軍ともに損耗率6-7割という、完全な殲滅戦に発展し、さんざんな目に遭った。最終的には川中島は信玄の手に落ちたから、戦争の目的がなんであったかという観点からすれば、信玄の勝ちだったが、惨勝だったといっていい。謙信のほうも痛手が大きすぎ、どちらもその後軍事的衝突を避けるようになった。

しかし、それでは信玄はもはや領土拡大の余地がなくなる。戦国大名は、自転車操業である。合戦と領土拡大をし続けない限り、経済成長はおろか、保全すらままならない。なんとしても活路を見出さなければならなかった。

怜悧な戦国の論理に貫かれていた信玄にしてみれば、今川家の退勢は絶好の好機だった。みすみす小大名の松平ごときに駿河を奪われるなら、自分が奪ったほうが良い。それは、念願の海への道でもあった。北条にこのことを打診し、駿河を両者で分割する案を投げてみたが、北条は未だに、婚姻関係による盟約を重んじ、納得しなかった。北条は、今川へ娘を出していたのだ。信玄のほうは嫡男・義信に、やはり今川から娘をもらいうけていた。ちなみに、信玄は北条に娘をやっていた。

黙っていれば、そのうちに松平に駿河を乗っ取られる。みすみすこの機会を逃してはならじと、信玄は腹をくくる。当時、家中では、三つのグループに分かれていたという。一つは従来通りの路線、北進派と呼ばれる家臣団で、信州平定がほぼ成功した今、あくまで越後を下して、日本海への道を模索しようという主張。これは嫡男・義信が強く押していた。しかし、なにしろ強敵の上杉謙信がいる。すでに十五年越しの衝突を繰り返してきて、決着がつかない。

一つは、東進派といわれ、ここは上杉と和睦し、共同で北条を討って、関東に乗り込むという主張。これは信玄の寵臣筆頭・高坂弾正(だんじょう)昌信が押していた。実は最も現実的な路線だったが、それこそ弱体化した今川を侵略するのと訳が違う。相手は、なにしろ河越夜戦で、八倍近い足利連合軍を撃破した名将・北条氏康である。しかも、破ったところで、しょせん関東は関東管領職の地位にある上杉謙信の差配になるわけで、信玄はその下につく格好になる。彼のプライドもそれを許さない。切り取り自由、乱捕りというわけにはいかない。

最後は、弱体化した駿河を奪おうという南進派だ。確かに、同盟を破るわけで、婚姻関係の情誼を踏みにじることになる。親子でも殺しあうような戦国時代である。他家との婚姻を破るなど、物の数ではないが、それでも大義名分は無い。

最終的に、冒険を好まない信玄は、一番コストの安い、南進論に傾いた。問題は嫡男・義信だった。今川から嫁をもらっているだけに、今川衰えたりと言えども、友誼が厚い。第四次川中島合戦ごろから、信玄と義信は、合戦のことに始まり、ことごとく衝突することが多くなり、険悪になっていた。信玄が南進論をぶちあげると、真っ向から反発したのが、当然ながらこの義信だった。

着々と駿河侵攻プランの段取りが始まるにつれて、家中が不穏になった。定説では、義信は、その傅役(ふやく、養育係)だった重臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)とともに、信玄を降ろすクーデター計画を企てた、とされている。が、よくわからない。そもそも、この謀議を信玄に密告したのは、虎昌の弟・飯富昌景(おぶまさかげ、後の山県昌景)だという。なにか不可解だ。もしかしたら、冤罪であったかもしれない。つまり、信玄が画策して、義信を廃嫡(はいちゃく)に追い込んだという線だ。

近年の研究では、昌景は虎昌の弟ではなく、甥ではないか、という説がでてきている。それだと年齢的に合う。元は毛利家の人間で、出奔し、信玄の重臣となっていた伯父・虎昌を頼って、甲斐に来たという説である。密告説も信憑性がでてくる。兄弟より、ずっと縁が遠くなる。

いずれにしろ、クーデター計画が露呈し、信玄は先手を打って義信を幽閉、飯富虎昌を始め、彼が指揮していた精鋭「赤備え(あかぞなえ、武具をすべて真っ赤に塗った武田の最強部隊)」の高級将校クラスを一網打尽にして、成敗(せいばい、処刑)した。義信も殺したという説もあれば、幽閉中に自害したという説もある。

信玄の性格からいって、直接殺害することには、抵抗があったろう。自分がクーデターを起こして、甲斐の政権を奪取したときも、実父ですら追放処分しただけで、殺してはいない。義信に翻意を促したと思われるが、おそらく頑固な義信である。最後まで納得しなかったようだ。いずれにしろ1年後に死亡している。抗議の絶食の末の死という説もある。あるいは、それによる衰弱甚だしく、毒で安楽死させたという説もある。

家中を、南進論で固めた信玄は綱紀粛正を図り、周到な準備の末、駿河侵攻を開始した。永禄11年1568年12月6日、ついに計画は実行された。先んじて、信玄は遠江、そして駿河への領土拡大に邁進していた徳川家康(すでに改名していた)との間に密約を結ぶという周到ぶりだった。大井川を挟んで、東は信玄、西は家康という内容である。

両軍はいっせいに駿河・遠江になだれ込んだ。今川勢は、後継者・氏真(うじざね)の器量の問題もあったろうが、義元が討ち死にして以来、実父の弔い合戦もままならなかったため、家中に求心力を失っていた。このため、家臣団は雪崩を打って信玄に内通。ほぼ甲州兵は戦らしい戦もなしに、電撃的に南下を続け、13日には駿府に無血入城した。

話をはしょれば、またたくまに駿河全域を掌握した信玄は、甲州・信州・上州西部、そして、駿河を制し、生前における最大版図に達した。ここで齟齬が起こる。大井川をはさんで武田軍と対峙することとなった徳川軍に、背後から秋山信友が率いる武田別働隊が襲い掛かったのである。徳川勢は、あまりのことに慌てて後退し、窮地から離脱。信玄に猛抗議をした。

信玄は、しゃあしゃあとしたもので、「現場指揮官への指示がちゃんと伝わらなかったようで、大変ご迷惑をおかけした。厳重に注意しておいた。」と釈明している。が、これが、偶発的なものだったか、それとも謀略的なもので、一挙に徳川も無きものし、遠江、三河まで勢力拡大を図ろうとしていたものか、不明である。いずれにしろ、この一件で、徳川家康は、信玄に対して深い不信感を抱くようになる。

さて駿河侵攻の際の、今川方の狼狽は覆うべくもなく、北条氏康の娘(氏真正室・早川殿)は、輿(こし)も用意できず、徒歩で駿府を離脱している。氏康はこれに激怒し、救援の軍勢を差し向けるが、ときすでに遅く、駿河全土が落ちていた。従い、北条軍は止むを得ず伊豆で進行を止めた。しかし、一方では、信玄に裏切られたと感じた家康と盟約を結び、東西から駿河を挟撃する態勢を築いた。

それだけではない。北条氏康は、これまで北関東の支配を巡って長年の仇敵であった越後の上杉謙信とも、越相講和を結び、これで、完全に、北・東・西から、武田領を包囲することに成功している。それが信玄も震えたという、永禄十二年の危機である。リアリズムに徹したつもりの信玄だが、氏康の大義というものを甘く見ていたということになる。

このピンチをどう切り抜けたか。まずは、越後・上杉の動きを封じることが先決であった。一対一では、二度と両者は戦うまいと心に決めていたろうが、三対一なら、話は別だ。謙信は全力で信州解放を旗印に侵攻してくる可能性が出てきた。

そこで、信玄は、将軍・足利義昭に泣きつき、甲越講和の命令を出させることに成功する。謙信という人間は、戦国時代にあって、信じがたいほど律儀である。足利幕府とは名ばかりで、まったくのお飾り状態となっていた将軍家にもかかわらず、最後まで忠節を尽くした、稀有な戦国大名である。このタイプ、もう一人いるとすれば、明智光秀であろうか。

将軍から謙信に、「信玄と正式に和睦せよ」との命令が下ったのを確認。これで、謙信の動きは封じられた。そこで信玄は次の策を練った。小田原攻め(北条の拠点)である。単独では挑みかかってくることはありえない徳川は放置し、全力で北条を叩くという、きわどい作戦に出たのである。念のため、上杉軍が機動できない冬場を狙った。

相手は歴戦の名将・北条氏康(正式には嫡男・氏政に家督を譲っていたが)だけに、川中島以来のとんでもない総力戦に発展する可能性が高かった。そこで信玄が練り上げた作戦計画とは、後になってみれば、見事というしか言いようがない完璧な揚動戦であった。

生涯、72戦49勝2敗(後は引き分け)という信玄の驚異的な戦歴の中でも、局地戦であり、日本の歴史を大きく変えるものではなかっただけに、あまり知られていない地味な戦だが、信玄の戦略というものが遺憾なく発揮されている典型的な勝負である。それが、永禄十二年10月8日(ユリウス暦では11月16日)の三増(みませ)峠合戦だ。

同年8月甲府を発った信玄は、最初から出兵の意図を偽装した。甲斐から北条領の相模へ直接侵攻するルートを取らず、敢えて信州へと北上した。今回の出兵の意図が、信州方面であると錯覚させたわけだ。しかし、佐久を通過した後、武田軍は碓氷峠を経て、関東に入った。北条方は、信玄の意図が信州ではないことを悟ったが、上州一帯なのか、それとも別の目標があるのか、わからなくなった。

南下を続けた2万の武田軍は、現在の埼玉県にある鉢形城を攻撃した。北条氏邦が抵抗している。これを落とすこともなく、途中で引き上げ、さらに南下。下旬には北条氏照の滝山城に攻撃をかけた。このときには、二ノ丸に迫る攻撃をしかけ、陥落寸前となったにもかかわらず、やはり途中で兵を引き上げさせ、またもや南下を続けた。また、別働隊(小山田信茂)に、普通誰も軍用には使わないと思われていた小仏峠を越えて、八王子城に攻撃をさせており、同時多発的な用兵で小田原方の思考を混乱させている。

冷静沈着な北条氏康は、はやくからこれを信玄の陽動戦であると見抜き、動かなかった。そして武田軍は、ついに10月1日、北条の本拠小田原に姿を現した。1ヵ月半近くの日柄を費やしたことになる。信州北上から、関東進入、南下、と実に大回りな道程をかけたのには理由がある。

これでは、北条にしてみれば、武田の攻撃目標が最後まで特定できず、兵力の動員をどこに集結させるべきか不明にするためでもあるが、それ以上にもっと重要なことがあった。武田軍の行軍速度というものは、このくらいであるという先入観を植え付けるためであった。ここが重要である。最後の瞬間に、このとき北条方の脳裏に焼き付けられた甲軍の進行速度に対する認識が効果を発揮することになる。

緩慢な武田軍の大回りの出兵は、かなり兵糧の消費を伴う。当時、帯同する輜重部隊(小荷駄隊)は、3ヶ月分が限界であった。8月出兵であれば、どう考えても、11月一杯まではとても遠征がもたない。帰路も含めての話であるから、かなり時間的にはタイトな遠征計画ということになる。

当初、宿老(高級幹部)の軍議で、重臣・高坂弾正昌信は信玄に、「リスクが高すぎる」と反対しているが、信玄は強行した。信玄は、ふつうこうした戦(いくさ)をしない。一見無謀に近い遠征だが、実は計算しつくされたものだった。

武田軍は、小田原城を包囲した。永禄四年にも、上杉謙信が関東諸勢力を糾合して、十万の大軍で包囲したことがあったが、落ちなかった堅城である。たかだか2万の武田軍が落とせるわけもない。

北条勢は付近の住民を城内に退避させ、堅く門を閉ざし完全な籠城態勢を取り、討って出ようとはしなかった。武田方も付近の村や武家屋敷に火をかけたりするなど、挑発を繰り返すのみで、本格的な戦闘命令を出さなかった。

そもそも、この遠征には、領土的野心などない。領土的野心がある場合には、進行途上の地域の田畑や村々を焼くなどということはしない。占領することになるから、むしろ住民の反発を招かないように、細心の注意を払うものだ。

しかし、鉢形城攻めでも、滝山城攻めでも、付近を焼き討ちしている。目的は支配拡大ではなく、北条に対する「翻意」を促すための示威行動だというアピールである。

しかし、この段階で氏康がこれを受け入れるかどうかと言えば、毛頭その気はない。氏康は、武田軍が小田原包囲を解き、撤退する途上で、包囲殲滅することを計画していた。当然、帰路は丹沢山系になるから、狭隘な山道を通過することになる。縦深陣にさそいこんで、武田軍が攻勢限界点に達したところで、背後を遮断し、前後から包囲殲滅するというものだった。それまでは、武田軍の進行経路において、各地で適宜抗戦を明示、人的・物的消耗を強いたわけだ。問題は、武田軍が退路をどこにするだろうか、ということだった。

信玄はそういう氏康の思慮を、当初から想定していた。小田原包囲は4日で止め、撤退を開始した。ところが、撤退経路がまた不可解であった。武田軍は平塚を目指したのである。鎌倉方面を海沿いに進んだ。北条は、丹沢から遠ざかるこの武田軍の真意をはかりかねた。しかも、その行軍速度は緩慢だった。

北条方は、武田にはほかに予備兵力が用意されているのではないのか。真の攻撃目標は小田原ではなく、実は別にあるのではないか。兵糧が少なくなってきているはずであるのに、この武田軍の行動はまったく異様なものとなった。千葉氏と内通、あるいは常陸・佐竹氏と共同しているのだろうか。疑心暗鬼が深まる。

信玄にしてみれば、目的が示威行動だけに、直接交戦は避けたかったが、仮にも決戦をしなければならないとすれば、消耗の激しい攻城戦はハナから選択肢に無かった。上杉謙信が大軍で攻めて落とせなかった城を、落とせるわけがない、とも思っていた。野戦に至っては、アウェイ(外地)である。むしろ数的に劣勢であるから、これも選択肢に無い。帰路の山岳戦しか考えられなかった。

氏康の性格からして、北条方が自分たちを山岳において、前後から挟撃しようとしていることは、信玄は百も承知だった。しかも、その罠に敢えてはまってやろうというのだから、驚きである。しかし、その前には、ある演出が必要だったのである。この、緩慢な行軍速度である。

武田軍は、平塚で進路を変更。厚木方面に北上した。これを知って、氏康は「そうだろう。結局丹沢を通る以外にない。兵糧も少ないはずだ。」と確信する。が、丹沢のどこを通過するかは、未だにわからない。一応、氏照・氏邦らに、丹沢へ兵を移動させてはおいた。氏康は甲斐への最短ルート、三増峠以外にありえない、と踏んだ。依然として武田軍の進行速度はきわめて緩慢だった。

北条方の本隊(小田原)にしてみれば、あまり武田軍との距離が遠くなるのは得策ではなかった。追撃しても、取り逃がす可能性があったからだ。かといってむやみに、小田原を出陣するわけにはいかない。忍びをつかっている武田は、当然その北条本隊出陣を察知して、予想外の行動を取るかもしれない。信玄は、氏康がそう考えるだろうということも計算に入れていた。

思いあぐねているとき、武田軍に動きが出た。厚木・海老名近辺を通過したところから、突然、強行軍となったのである。一気に丹沢山系に飛び込んだ。目指すは三増峠である。このとき、最後の兵糧を、小荷駄隊に放棄させている。武田は撤退に焦っている、と北条に思わせる偽装工作だった。

鉢形城、滝山城などからは、北条氏照・氏邦の別働隊が出張ってきており、三増峠近辺に布陣。武田軍を待ち構えた。彼らは小荷駄隊まで捨てた武田軍が、かなり疲弊していると錯覚した。このため、本隊の到着を待たずに、山中での決戦をするべきだと、別働隊は気負い始める。

山上の北条別働隊と武田軍は数的にはほぼ互角。小田原から出陣してくるはずの北条本隊は1万は下らないであろうから、挟撃されれば信玄に勝ち目はない。信玄がこれを各個撃破するには、北条本隊が到着するまでの、一日のタイムラグを作り出す必要があった。遠征開始以来の緩慢な行軍は、この土壇場の「たった一日のタイムラグ」のためにあった。

武田軍がそれまでの緩慢行軍から一転して、強行軍で三増峠を目指したため、氏康は急ぎ小田原から本隊を進発させる。この間、信玄はまたもや神業を見せることになる。自軍を三隊に分け、山県昌景ら二隊には、山岳の隘路を迂回、志田峠を越えて北条軍より更に高所に配置し、北条別働隊の背後に向かって、山上から奇襲できるよう展開させた。

7日夜、北条別働隊と武田軍本隊は三増峠で交戦状態に入った。北条別働隊は、信玄の背後に迫る本隊の到着を待てなかった。武田勢の挑発に乗り、混乱のうちに戦闘が始まる。一番槍は真田昌幸(幸村の父)だった。

序盤、北条軍が優勢。北条綱成などの奮戦で、浅利信種など幹部クラスの武田武将が討ち死にしている。伝令がその部隊の臨時指揮を取ったくらいである。後半、武田軍が反攻に転じた。そこに山県別働隊が挟撃態勢で北条方に襲い掛かった。北条方は、武田勢を挟撃するはずが、逆に側背から包囲されるハメに陥り、敗退。

北条別働隊には、近隣の津久井城に後詰の援軍を用意していたが、そこは信玄、落ち度はない。事前に、津久井城下には小幡隊を放って、あたかも武田軍が全軍集結中で、津久井城攻撃に入るかのような、これまた偽装工作をしていたのだ。だから、津久井城の北条方後詰部隊は、動くに動けなかった。

8日、北条氏康・氏政らの本隊が、丹沢山麓まで到着した。決戦場まで5km~10kmの地点だ。そこに、三増峠での敗戦の報がもたらされる。北条本隊は信玄との決戦を回避し、小田原に引き返した。きわどい「一日の差」で辛くも、信玄はピンチを脱したのである。

甲陽軍艦に拠れば、信玄はこのとき、断固反対をしていた重臣・高坂弾正に、「どうでえ。勝ったずら。」と自慢気に言ったが、高坂は「御館(おやかた)さまらしくねえ戦(いくさ)をしなさる。怪我の功名。二度とこんな戦、するもんじゃねえずら。」と、苦言を呈したという。

高坂の言う通り、信玄らしくない。遠征計画そのものは、きわめてリスクの高い危険な賭けであった。しかし、実際の用兵では、微妙な心理戦の持続で北条方の思考回路を霍乱し、わずかな時間差を作り出して、乾坤一擲の勝負に出た。信玄は、北条別働隊撃破の後(武田勢1000名損耗。北条勢3000名損耗。)、北条本隊が三増峠を駆け上がってきたら、反転して、これとも決戦するつもりだった。各個撃破の緻密な計算は正確無比であった。

もとより相模の領土支配を目的とはしていなかったものの、一くれの土地も得ることなく、表面的にはなんのメリットもない局地戦だったが、この一戦の後、信玄を震え上がらせた勢力図は、一変する。

この後、北条は、氏康( 3年後に死去)の遺言に基づき、その年末には後継者氏政が武田と再度同盟に踏み切り、上杉謙信と手切れとなる。武田包囲網が崩れたのだ。氏康にしてみれば、上杉と同盟を結んだものの、なんの助けにもならないという思いが尽きなかったのだ。

謙信は、血書で同盟を約したにもかかわらず、再三の援兵要請にまったく応えようとしなかったのだ。一方、かつて武田と同盟関係にあったときには、どんな時でも、援軍を要請すれば、武田は必ず出兵してきた。この対応の違いをまざまざと見せつけられたのである。

謙信には謙信で、言い分はあった。関東管領職の自分が、なにゆえ地方勢力の一つにすぎない北条と同盟など結ばなければならないのか。また、永禄四年の川中島での血戦の悪夢から醒めず、信玄同様に、「相手が悪すぎる」という思いも強かったろう。政治的な配慮で、北条・徳川と結んで、武田を包囲することには同意したが、そもそも多勢に無勢でリンチするようなことにも、謙信は性格的には納得のいかないものがあったのだろう。

なにはともあれ、北条は、同盟を結ぶ相手を間違えたと思いなおした。これで、信玄は、一生を通じて最大のピンチの一つといってもいい、永禄十二年の冬を切り抜ける。そして、生涯最後の壮図とされた上洛戦に向かって、後顧の憂い無く、着々と準備をすすめることになる。

この信玄の小田原攻めで見せた、計算しつくされた揚動戦術は、後に三方ヶ原合戦で芸術的な域にまで達する。そして、そこで完膚なきまで叩き潰された徳川家康は、返って信玄の用兵の妙というものに魅了される。信玄が何万もの大軍を、あたかも将棋の駒のように自由自在に操り、敵を翻弄するすべは、神がかり的でさえあった。後年、このときの経験から、今度は自分が関ヶ原で、絶妙な揚動戦に西軍を引きずり込み、ついには天下を制する。思想は、経験によって伝播するのだ。そして絶体絶命の中でこそ、奇蹟的な活路は開ける。



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