とにかくテレビがつまらない~もっと、とんがりなさいよ。
これは81回目。表題の通りです。ほんとにテレビがつまらないのです。なんとかしてください。わたしは実際、一週間のうちにテレビを見る時間は、(自分の意思で見ているのは)ゼロ時間です。年間でも恐らく、48時間から72時間くらいであろうかと思う。
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テレビがつまらないのだ。かつて、インターネットが登場した1995年前後、テレビvsインターネットの論争があった。やがてはテレビに、インターネットが吸収されるというのが大勢の意見だったが、最近ではどうもインターネットがテレビを吸収するような勢いだ。
だいたい、わたしはテレビというのが大嫌いなのだ。ずっと、相場の分析や情報などで、あちこちのテレビ局から頼まれて、出演してみたり、情報だけを出したり、といろいろしてきた。が、あの「名前が売れますよ。だから、無料でお願いします」的な傲慢なスタンスは、正直、うんざりだ。いつのころからか、片っ端から断ってきた。そのうち、向こうからも連絡がなくなった。
なにしろ、知恵や情報というものを、「ただ」だと思っている輩が多すぎるのだ。ひどいときには、さんざん数ヶ月も時間をかけて、教えてやって、勝手にコンテンツを利用するだけならまだしも、わたしの名前の表示すらなく、あたかも自前で分析したりまとめたようなことを、平気でやってのけるのだ。
某局だけかと思いきや、同じことが、二度三度、複数の他局でも起こったのには呆れた。どうもこの業界の人間というのは、そういう人種ばかりが集まっているのか、そこで働いていると、みなそうなってしまうのかわからないが、とにかくわたしは、テレビという業界には、非常にアレルギーを持っている。以来20年近く、わたしはテレビに出たことがない。頼まれてもお断りだ。新聞は読んでも、依頼されて書いても、テレビだけはとにかくうんざりなのだ。
米国の動画配信会社ネットフリックスが日本に上陸してきたが、同業のライバルHULUは、すでに日本で映画の動画配信サービスを先行して行ってきていた。映画というのは、映画館に行かなければ観ることができない代物だった。だから、テレビが週末に放送する土曜洋画劇場とか、映画番組が楽しみだった時代がある。子供の頃だ。
それがどうだ。いまや、いつでも好きな映画を、低料金でいくらでも観ることができるのだ。ネットフリックスが日本でのサービスを本格化させれば、テレビ局が映画を放送するなどということも、無くなっていくだろう。
それでなくとも、テレビ番組の面白くないこと甚だしい。わたしなどは、今では、よほどのニュースが無い限り、テレビを観るということは、日常皆無になってしまった。
かつて社会評論家の大宅壮一が、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と「一億白痴化」と呼んだ。作家の松本清張に至っては、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。「総」がついたのだ。当時から、テレビ番組は、つまらなかったらしい。
当時にしてみれば、書物をベースとした教養主義が、テレビという媒体に抵抗していたわけだ。しかし、歴史はテレビが本を圧倒した。それには、決定的な両者の間に存在するハンディキャップがあったからだ。なんといっても、テレビは(NHKを除けば)無料だということだ。
「ただ」というのは、ロクなことがないのだ。テレビ文化発祥の聖地、アメリカでは、いわゆる地上波テレビを見ている率は低い。圧倒的に料金制度のはっきりしたケーブルテレビが支配的である。
だから、この例から言えば、やはりきちんと料金を取ったほうが、まともな面白い番組をそろえるという結果が、確かに立証されているだろう。
とくに最近の地上波テレビ、「ゆるい」番組が大手を振っている。番組というものには、ニュースや解説、教育といった硬派な番組が基本的に王道である。が、それでは息がつまる。そこで、視聴率を上げるというメディアの営利目的のため、軟派な番組が昔から生まれては消えていった。
歌番組、スポーツ番組、クイズ番組など定番だが、バラエティ番組というのもある。これも、旅番組のように、さまざまな情報を発信するものはこの「ゆるい」には入らない。あくまで、訴えたいものがあるからだ。
「ゆるい」番組というのは、さして情報発信を目的としているわけでもなく、ただ、だらだらと楽にぼんやり観ていられるという類のことで、わたしが結構好きなのは、たとえば、テレビ東京の「モヤモヤさまぁ~ず」だ。
実に、なにも無い。情報発信的な見歩きでもない。ただ、だらだらなのである。テレビ東京は、このパターンで成功例が多く、かなり傑作もある。「モヤさま」以外に、この類のカテゴリーの走りとしては、「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」もある。やはり、旅番組特有のお得な情報など、一つもでてこない。名所、名産もなにも取り上げない。宿泊に関するデータも、一切紹介がない。
「田舎に泊まろう!」もテレビ東京だ。いわゆる、フジ、朝日、日本、TBSといった キー局とは違い、ローカル局であるだけに、違いを出すニッチな味わいを出そうと努力した結果がこれらの傑作番組ということだ。
ところが、このニッチな味わいというのは、テレビ番組の王道からは完全に外れているわけで、だからこそ、マイナーなうちはきわめて希少性があり、ほっと息抜きになるような価値がある。
ニッチというのは、しかし、それがあまりに多くなってくると、ニッチではなくなる。なんと、キー局が近年こぞって、この「ゆるい」番組を追及し、狂奔しているとさえいえる。
毎朝、日経新聞を読んでいるが、テレビ番組欄なぞついぞ見たことがないが、いざ一覧してみると、実にこの「ゆるい」番組が昨今乱舞しているではないか。
この「ゆるい」番組が跳梁跋扈してくると、当然ながらマンネリという病魔におかされることになる。どうもだんだんテレビというものが、毒や刺激というものを喪失していっているような気がしてならない。
そこへいくと、インターネットの動画というものは、驚くほど尖っており、ときに眼を覆いたくなるような部分も露骨にさらけだしている。テレビとインターネットの戦いは、わたしはやはり最終的にはインターネットの世界に、テレビがその形体ごと取り込まれていくのではないか、と思う。
結局、テレビがこの「ゆるい」番組でなければ、「おばか」番組を勢ぞろいさせている最大の理由は視聴率確保の一点である。あとは、創作力、想像力が非常に貧困になっており、それを追及するとコストがかかるというジレンマなのだろう。
「おばか」ぶりにしたところで、しょせんテレビの「おばか」ぶりなど、ネットの腰を抜かしそうな「おばか」ぶりには太刀打ちもできまい。
もっとも安易なテレビ側の手法は、「24時間番組」。いわゆる、チャリティとからめた「お涙ちょうだい」パターンである。なにしろ、24時間であるから、楽だ。視聴者の目を釘付けにするだらだら感やゆるさといい、また情報発信は適度にあり、しかもそれはチャリティを全面に押し出しているから、誰も文句のつけようがない。誤解も恐れず、ここはずるく、さかしい発想と敢えて言わせてもらおう。
テレビは、公共の電波であるという自負からか、また世間がうるさいからか、やたらと最大公約数的な着地を番組に求める。それが、どんどんテレビを面白くなくしていく。
そのうち、日本中誰も、テレビなど見なくなるのではないだろうか。利便性、情報発信性、刺激、真実の探求、ガセ、なんでもありで、しかも好きなときに視聴できる。テレビが活路を見出している「ゆるい」「おばか」なカテゴリーにいたっては、インターネット上では、やりすぎの度を越えた「ゆるさ」と「おばか」ぶりが炸裂している。
いや、真面目な報道番組にも咬みついておこう。二言目には「報道の公平性」という。そんなに報道に公正さが必要なんだろうか? わたしは、これもまた誤解を恐れずに言わせてもらえば、報道に公平性などいらないと思っている。
アメリカを見てみよ。どこに公平性があるだろうか? メディアはテレビからネットに至るまで、反トランプ大統領の大合唱である。アメリカで、選挙によって選出された大統領であり、国民の半分以上が(代理人選挙なので得票数ではないが)支持した大統領にもかかわらず、支持者の側の主張はほとんど報道されないではないか。
明らかに偏向報道なのである。それを言い方を変えれば、メディアは自身が主張したいことを徹底して主張しているということなのだ。メディアで重要なのはわたしは報道の公平性などではないと思っている。自由である。
右から左まで、テレビも新聞も、公平性であるとか、綺麗ごとを並べるから、話がややこしくなり、欺瞞に満ちた報道にもなる。二言目には公平性といいながら、要するに自身が主張したいことしかカメラの焦点を当てていないではないか。かえって国民は何が正しい主張なのか、わからなくなる。
「中立中道」と言うのだろうか。言っておくが、世に「中立中道」ほど冷酷無比に国民を切り捨てるイデオロギーも無いのだ。フランス革命を見よ。革命派のうち、理念猛進の左派を粛清し、穏健な右派を粛清し、連日の断頭台送りで革命フランスを未曽有の恐怖政治に陥れたのは、誰あろう、ロベスピエールらジャコバン党という、中道派だったのを思い起こせばよい。
各局各誌は、信じる報道を徹底的にすればよいのだ。選択するのは国民である。その選択が間違っていようと、選択肢があるということ、そしてそれが鮮明な違いを見せていることが重要なのだ。
テレビも新聞も、さんざんとんがってよいのだ。テレビが生き残るには、それしか道はないようにすら思う。ネットがひっくり返るような「とんがった」番組や報道してみせよ、と言いたい。
まあ、無理だろう。一番世の中で「あざとい」中立中道なのであろうから。どう転んでも、今のままではテレビに未来は無い。ネット中毒患者だから、そう思うだけだろうか。