選択の重さ~あなたならどうする。

雑話


これは129回目。これは、選択の違いで生死を分けた例の比較です。どちらも必死が前提であることに変わりありません。結果として、死んでいった人、生き残った人があるだけです。究極の選択です。このときあなただったらどうしますか。

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人生をドラマティックなものにしているのは、選択という問題だ。人生は、能力や努力によって決まるのではない。結局のところ、そのときの選択によって決まる。

そしてわたしたちはみな、その結果がどういうものであれ、受け入れなければならないという宿痾(しゅくあ)を背負っている。また、それが表面的に成功や幸福のように見えても、果たして本当の意味でそうなのか、実は誰にもわからないのだ。逆の場合もそうである。

役に立つ、良いことをする、果たしてそれは人生の目的なのか。おそらくそうではない。せいぜい、それらの命題は、役に立たないよりは、なにも良いことをしないよりは、マシだという程度の差にすぎない。むしろ、問題は起こった結果をどう受け入れるか、ということに人生のほとんどの意味があるような気がする。

選択とその結果、そして受け入れる覚悟のほどといったものを、極端に逆のケースで比べてみよう。どちらが、正しかったかを議論することは、もちろん愚問である。そして、どちらが本人にとって、良かったのかも、また答えはない。本人に納得のいく選択と、その結果だったのかだけの問題である。

北緯30度43分17秒 、東経128度04分00秒。日本の古名を冠した巨大な戦艦が深海で眠っている。大和である。全長236m。東京駅とほぼ同じ長さのこの大艦は、ほぼ護衛のない中で、事実上の沖縄への海上特攻を行ったが、アメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による雲霞のごとき波状攻撃によって、わずか2時間の戦闘で海の藻屑と消えた。1945年昭和20年4月7日のことである。

この大和の海上特攻(天一号作戦)は、連合艦隊参謀の神大佐が、発案主張したものだった。草鹿参謀長が鹿屋基地に出かけている間に計画され、豊田連合艦隊長官に直接決済をもらったというとんでもない発端に始まっている。

豊田長官は、「奇跡に近い内容だが、まだ働けるものを最大限に使わなければならない。多少の成功の算あれば、と決めた」とそう述べたが、草鹿は「決まってからどうだ、もないもんだ」と激怒した。

この無謀な特攻に関しては、富岡作戦課長が「燃料がない」といって反対したので、神は、軍令部次長の小沢治三郎中将から、直接承認を取った。小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意なら」といって許可を出している。

神一人が奔走し、この誰も成功確率がほぼ無いとわかっている作戦の計画が進められた格好のようだ。不思議なのは、この重大な計画について、関係者が神一人に振り回され、誰ひとり、真っ向から計画を潰しにかかった人間が登場していないという事だろう。

草鹿参謀長も、けっきょく決まったことには従順であった。大和の伊藤整一司令長官に、作戦命令を伝え、特攻の説得にかかった。伊藤長官は「犬死だ」と反対。まったく、海軍首脳部の決定に従おうとしなかった。

草鹿自身も多分に疑問を持っていただけに、伊藤が頑として反対論を譲らないため、黙り込んでしまったようだ。見かねた三上中佐が、「要するに、一億総特攻の先駆けになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります。」と言い、この言葉に伊藤もついに頷いたという。

もともとは、及川古志郎海軍軍令部総長が、沖縄戦の「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏した折、天皇からご下問があったのだ。「航空部隊だけの総攻撃か。海軍にはもう船はないのか。沖縄は救えないのか。」このため、答えに窮した及川が、「水上部隊も含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奏答してしまったところから、始まっていた話だ。

もし沖縄に到達できれば、北西方向から本島の残波岬に自力で座礁し、砲台として陸上戦を支援、乗員は陸戦隊として上陸の上、米軍拠点に突入するというものだった。

しかし、現実には、挫傷時に船位がほぼ水平でなければならず、主砲を発射するには、機関および水圧系統、および電路が生きていなければならない。およそ、沖縄本島に到達できたとして、その機能は蜂の巣状態の中で、ほぼ壊滅していると考えられたため、事実上不可能な作戦だったことは言うまでもない。

従って、戦後一般的に言われているように、海軍は敗戦・降伏するのにあたって、大和のような残存兵力を残していたということにはしたくなかったのだ、と批判されても仕方ない決断だったと言える。

伊藤長官は、傷病兵や家に後継がいない者など中心に、退艦を許し、志願者のみで特攻を行うことにした。

出航前夜、最後の酒宴を行っていた海軍兵学校出身の若手士官たちと、学徒出身の若手士官たちとが、特攻について激しい論争をしたという。前者は「戦死することは軍人としての誇りである」と主張し、後者は「無駄死にである。意義がまったくわからない」と衝突し、あわや乱闘寸前にまで発展しそうになったそうだ。

これを収めたとされるのが、臼淵磐(うすぶちいわお)少尉だった。臼淵は「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚める事が最上の道だ。日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか。」

臼淵のこのあまりにも有名な発言は、当時乗艦していた吉田満の「戦艦大和ノ最期」の中の一節である。真偽については、疑問視されている。が、おそらく大和の海上特攻という、あまりにも無謀な最後の一撃には、艦内でもさまざまな受け止め方があったろう。

実際、インテリの学徒兵には、納得のいかない命令だったに違いない。臼淵の発言(とされるこの名文)は、おそらく、選択の余地がないのか、という疑問に心が押しつぶされそうになっていた多くの将校や兵士たちが、自分を納得させることができた、唯一のロジックだっただろう。

だから、事実ではなかったかもしれないが、この思いは大和に残った人たちすべてが共有する、真実だったのだろう。依るすべは、悠久の大義一つだったということだ。それも、あまりにも悲劇的な大義である。

副砲分隊長だった臼淵は、実戦では、配置場所に近い後部指揮所電探室に直撃弾が命中して即死している。享年21歳。

問題は、伊藤司令長官の選択である。思いは、同じであったろう。しかし、とにもかくにもこの無謀な特攻を受け入れたという選択だ。結果は、沖縄突入など思いも及ばず、魚雷を14本から35本(さまざまな説あり)、爆弾7発から38発の被弾をし、南西諸島沖で沈没。米軍被害は、6機墜落、5機が帰投後に破棄のみ。大和乗員は、敢えて沈みゆく艦に残った伊藤長官を含め、2740名が死亡。総員退避で生存できたのは、270名前後。ただし、付随艦の被害も含めると、死亡者は3721名に及ぶ。当然ながら、沖縄に侵攻中の米軍には、一矢も報いることはできなかった。

では、本当に大和の特攻は犬死だったのだろうか。確かに、局地的な戦闘としてはこれ以上の不合理な作戦もなかったろう。結果も最悪である。しかも、予期できたことである。ただ、大和沈没という歴史的な事実が、戦後、ずっと日本人にとっては象徴的な敗戦の事実として残ったことも間違いない。大本営の首脳陣たちにも、敗戦の事実を深く認識させる「事件」になったことも間違いない。

もしそうだとすれば、大和の特攻は、これ以上ない悲劇的な選択をして見せることで、無言の告発を歴史に刻んだといっても過言ではないだろう。各戦線に倒れていった数多くの日本人の思いを、すべてこの選択の悲劇に集約して見せたのだ。十分に、その思いは報われているはずだ。

この沖縄戦では、もう一つ特筆すべき「選択」があった。それは、大和とはまったく逆の選択を取った集団である。その名を、海軍芙蓉航空隊という。2005年にNHKでも、「芙蓉航空隊、特攻せず」という番組が組まれたので、知っている人も多いだろう。

芙蓉航空隊とは、日本海軍第131航空隊所属の3つの飛行隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)の通称だ。関東海軍航空隊の指揮下にあったが、実質的に131空所属の美濃部正少佐が指揮を取っていた。

戦争末期、ほぼ航空戦は特攻に傾斜していた中で、この芙蓉航空隊は、夜間爆撃に徹した稀有な飛行戦隊だった。静岡県藤枝(現在の静浜航空自衛隊基地)にあったので、富士山にちなんで美濃部が「芙蓉」と名づけ、これが通称となった。美濃部は、かつてソロモン空戦において、水上戦闘機一機だけで、敵航空基地を破壊した猛者である。

美濃部は、骨の髄まで徹底した合理主義者であった。夜間攻撃のために、昼夜逆転生活を取り入れた。午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食として、電灯使用を制限して夜目の強化を促した。

夜間洋上航法訓練では、黎明-薄暮-夜間の順で定点着陸訓練から、太平洋へ出ての洋上航法通信訓練を行った。時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。つまり「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上をはかった。

座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われた。特に雨天時は搭乗員を集めて集中的な講義を実施した。講義の内容は航法、通信、夜間の艦艇の見え方、攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、機材等についてであった。

芙蓉航空隊が犠牲を伴いながらも攻撃を継続できたのは、基地において新人を訓練して、随時要員を交代させるというシステムを確立していたからだとされる。パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみに絞り、訓練時間を約三分の一にまで短縮することに成功したという。この結果、蓉部隊の整備員・兵器員も零戦は90%、彗星は80%の出動可能態勢を維持するという、あの末期の悲観的な環境の中で驚異的な総力戦体制を維持していた。

美濃部は常々、「俺の隊からは、一機の特攻も出さない」と豪語していたが、これがどれほど飛行隊員たちに安心感を与えていたかわからない。以前、特攻隊の生みの親・大西瀧治郎中将に食ってかかったことがある。「生還率ゼロの命令をだす権利は、指揮官と言えども持っていない」と大西に迫り、やがて彼は「こんなむごい戦争があるか」と声を荒げたと言う。

1945年3月、沖縄戦が開始された。一ヶ月後には、例の大和が海上特攻することになるこの戦いにおいて、日本軍上層部の航空運用方針はただ一つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。

この沖縄戦に先立つ2月4日、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出されていた。このときの幹部の発言は、たとえば「行けばたいてい命中する」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要する」といった杜撰な特攻計画だったことがうかがわれる。

2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、特攻は実施にほぼ決定されていた。ほとんど現実を無視した、数合わせの世界だ。

2月下旬、木更津基地において、第三航空艦隊司令部は、擁する9個航空隊の幹部を招集して沖縄戦の研究会を実施した。軍令部の方針で練習機の投入などが決まっており、特攻を主体とするという説明があった。

研究会は、ほぼなんの異議申し立ての機会もなく、上層部の事実上の命令がそのまま通る様相を呈した。そこへいきなり美濃部は、猛反駁したのである。「劣速の練習機を投入しても、敵戦闘機の多重の弾幕を突破することは不可能である。」

100人を数える参加者だったようだが、全会一致で特攻作戦で決まるはずだったのだが、思いもかけない反論を受けた参謀たちは、「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか! 第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけた。

少佐である美濃部は末席から、階級差も省みず並みいる人々に向かい、主張を断固として曲げなかった。「現場の兵士は誰も死を恐れていない。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務がある。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白。練習機による特攻を推進するなら、ここにおられる方々が、それに乗ってこられよ。私の零戦一機が、箱根上空でお迎えする。断言してもよい。全機、撃墜してお目にかける」と言い切り、研究会を沈黙させた。

4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸を開始。これに先立つ3月30日と31日、部隊は鹿児島県鹿屋基地へ進出した。芙蓉航空隊は、特攻しなかった。往復1400kmの過酷な飛行を伴う、夜間攻撃を繰り返し、最後の最後まで徹底抗戦にこだわった。

終戦までに、出撃回数81回。延べ786機が出撃。未帰還機43機、死者103名、うち戦死者は89名。総合戦果は、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破、飛行場大火災6回、空母群発見4回、敵機夜戦2機撃墜。

この戦争末期は、あまりにも物量と戦力の差がありすぎて、その奮闘にもかかわらず、戦果は乏しかったと言わざるを得ないが、少なくとも、終戦のぎりぎりまで、徹底抗戦をし続け、米軍を悩ませた部隊は、稀である。

しかし、実は美濃部は、ハナから特攻を否定していたわけではない。航空隊が結成された最初の段階では、フィリピンに上陸してきていた米軍への攻撃計画で、まず先発隊が敵空母の甲板上を滑るように特攻し、航空戦闘能力を奪った上で、残機が雷撃・爆撃を行うという案だったのだ。これは、結局索敵できず終わっている。

このときは、一番機が敵航空母艦の飛行甲板に特攻・炎上することで、敵の制空能力を封殺し、立て直す間に、全機で蜂の巣にするという作戦であったから、一番機の特攻はいわば、作戦全体を成功に導く、貴重な犠牲打の役割を果たすはずだった。

また、沖縄戦終了後も、本土決戦がいよいよ現実のものとなってきた段階では、航空戦闘能力をほぼ失った状態であったため、美濃部は陸上特攻の「決号作戦」を計画。しかも周到に、壮絶な「まきぞえ」的な効果を狙った作戦計画を立てていた。

美濃部の脳裏には、特攻を頭から否定している向きはない。むごい作戦であることは間違いないが、それが置かれた状況の中で、最善の効果を生むのであれば、美濃部は躊躇しなかったということだ。ただ、効果をほとんど吟味することもなく、馬鹿の一つ覚えのように、全機特攻などという話は、美濃部には狂気の沙汰というよりも、責任の放棄のようなものでしかなかったのである。

8月15日、終戦を迎えた。美濃部も、また隊員たちも終戦に納得しなかった。抗戦の意思を見せたが、艦隊司令部で美濃部は井上成美大将に説得された。美濃部は基地に帰ると隊員に「部隊は陛下のものである」と説得し、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と言って、8月15日からの戦闘を抑えた。

その後、美濃部から「日本もまたいつか復興することもあるかもしれない。その時はまたここで会おう」という訓示が行われたそうだ。美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可。このため、後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」ということで、不問に付された。

美濃部自身、こう述べている。「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案が無いかぎり、特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」。また、同時に「ああいう愚かな作戦をなぜ編み出したか、私は今もそれを考えている」とも。

要するに、美濃部の合理性には、特攻は見合わなかったのである。その主義に美濃部はこだわった。特攻やむなしという軍内部の、「結論ありき」の思考停止状態に、最後まで異を唱えるという選択をしたのだが、その選択を貫くのは容易ではなかったはずだ。

美濃部は、戦後しばらく農業をしていたが、1953年に航空自衛隊に入隊。最後は空将で退官している。1997年、病没。享年82。

大和の伊藤司令長官も、芙蓉航空隊の美濃部少佐も、特攻という一事に関しては、真逆の選択をしたが、伊藤には大義が、そして美濃部には理があった。そして、どちらも日本を救うことはできなかった。しかし、どちらも、あの極限状態にあって、人間が取りうる究極の選択を、身をもって示したことだけは間違いない。答えは、彼らの心の中にしかない。

歴史は同じことは二度と起きない。が、同じ「ような局面」は何度でも繰り返しわたしたちの前に訪れる。そのとき、あなたならどういう選択をするだろうか。



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