自分磨き~ちょっと、物足らない気がするんですけど・・・

雑話


これは6回目。当世流行りの、「自分磨き」について書いてみました。口うるさい老人の愚痴とでも思ってください。

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どうも、「はやり言葉」には抵抗を感じるものが多い。「自分らしく」とか、「自分へのご褒美」とか、「自分探し」とか、「自分」のオンパレードがそうだ。たとえば、「自分磨き」という言葉を取り上げてみよう。これは若い女性に多い。言っていることは決しておかしなことではないのだが、どうも薄っぺらな感じがしてならないのだ。まあまあ、そうとんがらずに、と言われそうだが。

誤解されたくないので先に断っておくが、外見を磨くのは大事なのだ。花でも、無造作に選んで、雑然としたまま人には渡さない。ちゃんと選んで、ラッピングして、リボンをかけて人に渡す。それが、心遣いというものだ。人に不快感を与えないよう外見に気遣うのは、当然良いことだと思う。習い事にも彼女らはせっせと通う。これも良い。

しかし、やはり女性の魅力とは、月並な言い方だが外見ではない。それは男も同じだ。ましてや、若さそのものではない。こんな言葉がある。

「若さを信頼することこそ女の不幸である。若さではなく、ミステリーをまとうべきである。」

誰が言った言葉だと思うだろうか。
香水で有名な、あのココ・シャネルだ。私が言ったら噴飯ものだろうが、彼女の言葉なら納得してもらえそうだ。

「その女性のことをすべて知りたいと思わせる。つまり、一人占めしたいと思わせる。それが、女のミステリーであり、魅力だ。若さでも、装飾でも、学識でも、技術でもない。ミステリー、なぞめいた魅力は、その女性の人格すべてに、広さと深さと多様性が求められる。」

ココ・シャネルの言葉を、そんな風に解説した文章を、どこかで読んだことがある。

それは磨こうとして得られるものでもなく、若さを利用することでも得られない。ただそれに気づいた女性は、きっと魅力的なのだ。彼女がもはや若いとは言えず、むしろ年老いていたとしても。ここでは女性について書いたが、男性にもまったく同じことが当てはまる話だ。

だいたい、「自分▲▲▲」「自分●●●」と「自分磨き」に余念がない人たちだが、その「自分」とはなんなのか。老境にはいって、はじめて「自分」とは何かが、やっとわかるのがせいぜいというのが、人間なのだ。たかだか20年そこそこの経験と知識だけで、残りの50年を生きていこうなどと言うこと自体が、ずうずうしい。

人間は、生まれたときから死に向かって走り続けている。人間は、「未完成な死体」とも言われる。若さ自体には、なんの意味も価値もない。逆に、年を取るということはなんて楽しいことだろう。生きてきた成果を知ることができるのだから。自分でも気づかなかった「自分」にだんだんと出会えるようになるのだから。たとえそれが幸せなものではなかったにせよ、人生の意味や価値を知ることができる。

話は変わるが、国際連合を舞台にしたジョークというのがある。かなり有名なものが多いから、ご存知の方もいるはず。たとえば、国連でもっとも難儀とされている課題が2つある、という。1つは、「インド人をいかに黙らせるか」。もう1つは、「日本人にいかにしゃべらせるか」、ということだ。

こんなのもある。豪華客船が座礁した。沈没は時間の問題である。悠長に構えている乗客たちに船員が、「海へ飛び込め」と言うが、誰も一向に腰を上げない。そこで船員は、それぞれの国民に、説得を試みた。

アメリカ人には「あなたには、ものすごい金額の保険がかかっているそうです」と言った。アメリカ人は血相を変えて海に飛び込んだ。
ドイツ人には、「国際法上、そう決められています」と言った。ドイツ人も、やむなく飛び込んだ。
イギリス人には、「紳士は飛び込むものです」と言うと、済ました顔で飛び込んだ。
フランス人には、「海に女がいますよ」と言うと、目の色を変えて飛び込んだ。
イタリア人には、「海に飛び込むのはモテる男だけです」と言うと、それは俺だと飛び込んだ。
そして日本人には、「みなさん飛び込みましたよ」と言ったら慌てて飛び込んだ、という。

こういったジョークは、かなり極端にデフォルメされているものの、一面の真実を伝えているから、チクリと心にくるものがある。さて、先述の、「いかに日本人にしゃべらせるか」という話だが、実際にこういう場面に出くわしたことがたびたびある。それを書いておこうと思う。

80年代の中国は、まさに改革開放経済が始まってまもない頃だった。当時の北京はレストランも営業時間が決まっており、それを逸すると食事ができずいつもえらい目にあった。冗談のようだがこのご時世で、たびたび飢餓に直面したものだ。

メニューに書かれてあっても、実はたいていのものがなかった。注文しても、忘れられることがしょっちゅうだった。やがて面倒になった私は、店に入るなり厨房に行き、オーダーミスで行き場のなくした料理(これがまた多いのだ)を指差し、これとこれをくれといって、待ち時間ゼロで食べるようにしたものだ。

貧困がここかしこに存在していたが犯罪は少なく、清貧という言葉がぴったりの国だった。今のような、生き馬の目を抜くような血走った金権社会ではない。

現在は近代的な高層ビルが立ち並び、最悪の大気汚染に被われている。過日を振り返れば、胡同(フートン)と呼ばれる網の目のようなレンガ造りの路地が懐かしい。北京の空はどこまでも抜けるように青く、春には街路樹の柳が燃え盛っていた。

あの頃、駐在する外国人にとって娯楽らしい娯楽はなかった。せいぜい、ホテルの一室を借り切って集い合い、飲み明かすというパーティのようなものが、唯一の娯楽だったといっていい。私も商社の連中といっしょに何度か参加したことがある。

欧米人、アフリカ人、華僑入り乱れての集いは、共通語が北京語だった。しかし、いつも不思議に思ったのだが、日本の商社の若い駐在員たちは、たいてい壁の花になっているか、日本人同士で話し込んでいた。彼らの北京語のうまさは、わたしのつたない北京語とはわけが違った。専門職として送り込まれ、学んだ人たちだから流暢なものだった。

しかし、外国人たちとの交流は限定的だった。ふと気が付くと、下手な北京語で悪戦苦闘している私と違い、日本人はみな「安全地帯」にいたのである。同じことは、香港に長くいたときにもよく経験した。英語は話せるのだが、どうにも溶け合わない。

なぜだろう? 私は不思議に思ったが、彼らと話してみてすぐにその理由がわかった。それは、話すコンテンツ(内容)がないからだった。

日本のことをまず知らない。日本と日本人についての知識も見識も、外国人にそれを分かりやすく説明できる技も何も持ち合わせていないのだ。

たとえば、ある欧米人がたまたまその直前に、日本を観光旅行していたとする。人気スポットの一つが、伏見稲荷の千本鳥居だ。で、その欧米人は、あの「鳥居」って一体何なんだい?と聞いて、どれだけの人が、簡潔に答えられるだろうか。

こんなことは、知ってるか知ってないかだが、こんな程度のことすら、日本人はまともに答えられないのだ。こんな調子で、来日観光客数8000万人の観光立国を目指すなど、おこがましいにもほどがある。

外国人たちが日本人から聞きたいのは、レディ・ガガのことでもなければ、アップルの新製品のことでもない。日本と日本人のことだ。それに日本人はまったく答えられないのだ。ましてや、世界的な政治・宗教・文化・経済の問題についての、主体的意見などは到底持ち合わせていない。ナショナルでなければ、インターナショナルにはなれないという、基本的なことが理解されていないようだ。

私は、子供が小さいころから英語を学ぶことに、決して反対ではない。しかし、何より重要なのは、日本語なのだと痛感している。結局、人間というものは、母国語のレベル以上に外国語を習得することはできない。母国語の語彙・表現力の水準を上げなければ、外国語はそれ以下のものでしかない。

そして、習得した外国語があったとしても、話す内容を持っていなければ、『彼女は、英語がうまいね』と言われるだけで、敬意を持って接してくれることはない。「一目置かれる」ことが大切なのだ。

もし『自分磨き』をせっせとするなら、目標はそこだろう。日本にもべらべら日本語をしゃべる外国人はたくさんいる。が、中身がなければ、軽薄にしか思えないだろう。それを考えずに、大金を使って英会話教室に押しかける日本人をいつも残念に思う。

アメリカにいれば、赤ん坊でも英語をしゃべるようになる。日本でもそうだ。言語の習得レベルというものは、基本的にはかけた時間に比例するのだ。問題は、それでなにを話すのか、ということになってくる。

どんなに下手な英語でも、外国人が「こいつの話、なんかやたら面白いんだけど」と思えば、何度でもこちらの下手な英語を聞き返し、一生懸命に理解しようとしてくれるのだ。それが「一目置く」ということにほかならない。

「日本人にしゃべらせるのがいかに大変か」というジョークは、引っ込み思案になる性格を言っているだけではなかろう。要するに、主張すべき話の内容と信念を日本人は持っているのか、ということをつきつけられているような気がするのだ。

ヴォルテールが、『カンディード』の中で、こんなことを登場人物に言わせていた。(下品な表現で済みません)

「人間なんてな、しょせんてめえの尻の上にしか座れないんだよ。」

どんなに自分磨きで英語が流暢になっても、それは英語であって、あなた自身ではないのだ。



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