時代のルーキー~ボクシング、遣唐使、そして新幹線
これは9回目。人間誰しも、なにかを始めようとするときは、老いも若いもみんなルーキーです。
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ルーキーという言葉がある。もともと新兵という意味で、recruit(リクルート)が語源になっている。若く、経験も少なく、知恵も技術も未熟だが、革命を起こすエネルギーだけは持っている。それだけに、若い人に気負いがあるのも無理はない。
しかし何も時代のルーキーは、若い人たちだけとは限らない。中年でも、壮年・老年の人間であっても、時代に新たな道を切り開こうとする者、いくつになろうと何かを始めようとする者は、つねにルーキーなのだ。
ひとりのプロボクサーがいた。往年のチャンピオンだった。輪島功一という。世界王座を三度獲得した人物だ。今の若い世代には、「変なじじい」タレントとしか映らないかもしれない。しかし、全盛期を知っている者にとっては、瞬時に繰り出されるストレート、それも、正確に打ち抜くパンチは比類なきものだったし、負けても必ず王座を奪還する姿は、おそらく同時代の日本人に多大な感動を与えていたはずだ。
その輪島選手にも、ついに引退の時が来た。当時、記者会見の様子をテレビで見ていた私は、心が震えた。記者が、「ここまで頑張ってこられたのは、やはり根性のおかげですか」と質問したのに対し、輪島選手はこう答えた。「いや、根性じゃ勝てない。勇気だ」。
そうなのだ。根性は、あって当たり前。ただ、歯を食いしばって耐えているだけのことだ。それでは相手をKOできない。最高のタイミングで、最高のストレートを出すのは、高度に知的な判断、つまり勇気がなければならない。根性がなければ戦う資格もないが、勝つには勇気がなければならないのだ。それを身を持って教えてくれたのは、いま団子屋のおやじをやっているかつての栄光のチャンピオンだった。
輪島が日本人に与えた感動は、若き日にチャンピオンとなったことではなく、その後、敗れるたびに復活して頂点を奪回した生き様のほうだったろう。それは、知恵と技術、経験と挫折が生み出した傷だらけの栄光ともいえる。
青春という言葉がある。もともと、遣唐使の時代。世界最大の都、長安に向けて、平均年齢18歳前後の、将来を嘱望された若者たちが送り出された。何年かかって帰ってこられるのか。あるいは、二度と故国の土を踏めないかもしれない。だからこそ平均年齢をあえて低くしたのだろう。いわば、その「時間」を買われたのだ。目的は国家経営に必要な、世界でも最先端の知識と技術の習得だった。
そもそも、当時の気象観測は占いによるものだったので、不幸なことにシケの季節に大荒れの東シナ海を渡ることが多く、難破があいついだ。しかし、彼らが幸運にも大陸にたどり着き、長安の都に至るとき、東の門(陽春門)をくぐることになる。陽春門は、瑠璃色の瓦で覆われている。この「青」い陽「春」門をひたむきに目指した若き遣唐使たちの勇気、そして使命感、その必死の思いを、「青春」という言葉で表すようになったのだそうだ。
新幹線をつくった三人の男たちがいた。三木忠直たちだ。戦時中、ゼロ戦や、急降下爆撃機銀河、そして心ならずも特攻機桜花の開発にかかわった男たちである。事故が多く、パイロットの犠牲がつきなかった当初のゼロ戦を、急降下爆撃から一撃離脱への制御(ATC装置につながっていく)、離陸走行時の振動制御など改良を重ね、名戦闘機に仕上げていった。銀河の高速性能を実現するための、流線型のフォルムもそうだ。
三木たちは戦後、パージ(GHQによる公職追放)に遭い、国鉄の外郭団体に閑職を得て、細々と暮らしていた。時代は、航空機輸送が台頭し、東京大阪間7時間という鉄道が斜陽となっていくことは火を見るよりあきらかだった。三人は、かつて世界を驚倒させたゼロ戦の技術で死ぬ前にもう一度何かできないかと、箱根にこもって奇蹟のプロジェクトを立ち上げた。「夢の超特急」である。
1957年、プレス相手の研究発表会が国鉄総裁の目にとまり、プレゼンテーションを行なった。三木の鬼気迫る説得は、新幹線の開発への抜擢を得る。数々の苦難を克服し、最後の実験となった高速性能と耐震性能のテストは、若手技術者たちが恐れをなした。速度は100キロを超え、やがて200キロも超えた。振動が激しい。もう無理だ、と誰もがあきらめたが、男たちには絶対の自信があった。緊急停止ブザーに手を置き、押そうとする若い副運転手を、「まだだ」と制止した。
時速が230キロを超えたところで、振動が止まる。250キロを超え、255キロで世界最高記録と並んだ。そして256キロを指したところで、実験は終了した。新幹線が誕生した瞬間である。1964年東京オリンピックの年に、新幹線は開業する。三木忠直、55歳。二度目の青春は見事に花開いた。いまや新幹線は、国益の大きな柱として、海外に勇躍しつつある。ツァラトゥストラ(ニーチェ)風に言えば、こうなる。
「その電光を放つのに、50年の歳月が必要だったのだ。君は、電光を放ちたくないのか」。
かつて魯迅は、その掌編「野草」の最後を、こんな言葉でしめくくっている。
「道というのは、はじめから有るとも無いともいえる。歩く人が多くなれば、やがてそれは道になるのだ」。
未踏の荒野に、その最初の一歩を踏み出す人間でありたい、という志がルーキーであり、青春の真っ只中とも言える。幕末、吉田松陰は血気にはやる高杉晋作(当時17歳)に、獄中から手紙でこう諭している。「十年待ちなさい。あなたの出番がくる」。その予言は的中した。若い人も決して焦ることはない。何しろ時間はあるのだ。じっくり世の中を見て経験を重ね、挫折の後に青春の門を改めて叩けばいい。それが、やがてあなただけにしかできない電光を放つことになる。