昭和の怪物~石原莞爾

雑話

これは482回目。

山形は酒田出身の陸軍軍人だ。
この人物は、歴史上非常に毀誉褒貶が激しく、北一輝と同様、評価が定まらない。
昭和天皇も、「石原という男は、よくわからない。満州事変の張本人でありながら、226事件での態度はきわめて正当であった。」と述懐されている。

満州事変を、一人で引き起こし、関東軍を引きずり、陸軍全体を引きずり、日本政府・国民を引きずった男だ。
後の支那事変や太平洋戦争の発火点とされるのが、この満州事変だということで、未曾有の日本の敗戦という惨禍の元凶こそ石原だという見方がある。

一方で、彼が掲げた満州国の五族協和などの人種平等主義(日本人の開拓移民の流入に猛反対だった)は、本物であったようだ。
1911年の孫文の武昌蜂起の報道に接して、部下たちにその意義を説き、「支那革命万歳!」と叫んだことは有名である。
また、満州事変自体は日清戦争・日露戦争後の日中の公約を、一向に中華民国が履行せず、日本の権益が脅かされ続けた事に対する合法的な武力行使だというのが、国際法に照らせば正しい解釈だ。
実際、リットン調査団は、満州国建国はやりすぎだが、日本の満州における権益に関しては全面的に認めているのを観れば明かだ。
そのほか、日中全面戦争に対する反対(失敗)、両国の和平工作(失敗)、対米戦への大反対(失敗)、東条政権との反目(徹底的に左遷され、憲兵隊に終日監視の下に置かれた)なども石原人気の大きな要素だ。
彼が陸軍における指導的立場を得ていれば、日中戦争も太平洋戦争も無かったはずだという好意的な見方は根強い。

この評価というものは真っ二つである。

また、個人の性格もきわめて特異である。
北一輝と同じく、熱狂的な日蓮宗徒であることも、不思議な因縁だが、陸軍士官学校当時から、上官への反抗・侮辱、最低の生活態度は終生変わらなかった。バカが大嫌いだったようだ。
陸軍は斥候という任務があるので、写生が教科にもあった。
石原は大嫌いだったようで、ある日彼が提出した絵を見て、教官は絶句した。
石原は、自分の性器をでかでかと描いていたのだ。
これで恩賜の金時計をもらいそこなったという逸話もあるようだ。

しかし一方では、この頃、乃木希典や大隈重信の私邸を訪れ、教えを請うている。

陸軍大学は次席で卒業。
同期には、オトポール事件で多くのユダヤ人を救った樋口季一郎がいる。

1931年の満州事変を主導し、1万数千の関東軍で、23万の軍閥・張学良軍を蹴散らし、東三省をあっという間に全面支配。
作戦の神と異名を取った。
国内では植民地化の意見もあったが、石原は頑強に反対し、独立国として満州国建国を実現させた。
日本人の移民流入を赦さなかったが、後東条が上官として満州に赴任してくると、東条は積極的に満州の植民地化を進め、日本人の大量移民を断行。
このことから、石原と東条は犬猿の仲となっていった。

その後は、不拡大主義、対ソ戦準備、日中和平、対米戦絶対回避の主張を終生一貫している。

1936年の226事件では、陸軍省に登庁しようとしたとき、反乱軍に止められた。
首班の一人・安藤大尉は部下に銃を向けさせ、石原の登庁を阻止したのだ。
石原は、「なにが維新だ。陛下の軍隊を私するな。殺したければ、おまえが自分でおれを撃て。」といって罵倒。
反乱軍を押し開いて、登庁してしまった。
この事件では、徹底して反乱軍に対する武力鎮圧を主張した。

軍上層部で、反乱の対処について議論された際に、反乱将校たちと通じていた荒木貞夫大将に対して、石原は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。
荒木は「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になった。
石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と罵倒した。

近衛内閣が、盧溝橋事件を発端に二個師団派兵を決定。日中全面戦争に突入した。
石原は、近衛に対して、蒋介石国民党総統との直接会談による事変収拾を強く進言。
近衛も航空機を予約し、これで和平への道が開かれるはずだったが、広田弘毅外相が反対し、近衛のブレーンである尾崎秀実ら国粋主義者を擬装したソ連・コミンテルンのスパイたちにも反対され、キャンセル。
これで、千載一遇の日中和平のチャンスが失われた。
石原が悔しがることしきりで、「近衛は、日本を滅亡させる」と公言してはばからなかった。

太平洋戦争中は、東条首相から嫌われ、徹底して左遷や憲兵隊による監視がつけられた。
石原は憲兵に、「寒いだろ。中へ入らんか。」と言って、家に入れては暖を取らせたり、食事を与えたりしてねぎらった。
「閣下は、なぜ、国家の政策に反対なさるのですか?」と憲兵たちが聞くと、石原は待ってましたとばかりにとくとくと情勢を説き、憲兵はことごとく石原シンパとなってしまい、憲兵の役にならなくなった。
このため、東條はしょっちゅう憲兵隊員を入れ替えたが、まったくその効果は無かったという。

末期には、窮した東條は石原を呼び、打開策を尋ねた。
石原の答えは簡単だった。
「だったら、首相を辞めろ。あんたにゃ戦争はできない。」

各地で、満州事変の英雄ということで講演に招聘されたが、あちこちで東條政権の政策に反対する論陣を張り、当初は「東條軍曹」と呼んでいたが、最後は「東條二等兵」に格下げして表現した。

挙げ句の果ては、暗殺計画である。
太平洋戦争の敗色が濃くなってきた1944年、自分が組織する右翼団体「東亜連盟」の会員ら数名が、東条暗殺を計画。
決行当日、東条内閣総辞職となったので、これは未遂に終わっている。

きわめつけは、終戦後にある。

驚くべきことに、GHQは石原を戦犯指定しなかったのだ。
これに激昂したのは、石原のほうであった。
「なぜ、すべての始まりがおれが起こした満州事変なのに、この俺を戦犯指定にしないのか?」とGHQに詰め寄った。

これにはいろいろ諸説あるが、本音としては「石原を法廷に引きずり出すと厄介だ」という判断があったようだ。

なにしろ石原は公然と、「軍事法廷で、米国の悪行をことごとく世界に晒し、この裁判がいかに不当なものかを徹底的に糾弾してやる」と激しく食ってかかっていたのだ。

そこで、GHQは、あくまで「証人・参考人」として石原を聴取するという結論になった。

戦後は、持病を患い、石原は病床にあったので、GHQは石原を訪問することになった。
最後は酒田まで出て、いわゆる出張法廷を設けて石原に対した。

米人検事がベッドの石原に、「一番の戦犯は誰だと思うか?」と尋ねると、石原は開口一番、「トルーマンだ」と言い切った。
検事がそれを否定すると、石原はにやりと笑い、枕の下から米軍が戦時中にばらまいたビラを一枚取り出した。

「これを観ろ。銃後の一般国民、婦女子に至るまで、好戦的な政府に対して立ち上がれ。さもなければ、全土を爆撃しつくし、日本人を皆殺しにする、とある。」
「これは脅しだ。」

そこでブチ切れた石原は、大声で「脅しではない! 広島で、長崎で、おまえたちはなにをやった! 非戦闘員を一瞬でどれだけ殺した! 脅しとは笑止千万。トルーマンこそこの戦争の第一級戦争犯罪人である!」と怒鳴りつけた。

GHQが、石原を戦犯指定しなかった理由が、これでよくわかる。厄介なのだ。

昭和の前半、日本を、そして世界を掻き回したこの鬼才は、終戦の4年後、奇しくも敗戦記念日、8月15日に死去。60歳であったから、まだまだというところだが、昭和の怪物の一人とされる希代の一匹狼も、病魔には勝てなかった。



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