いまだ国民成らず。

政治・経済, 歴史・戦史

これは471回目。

民族というと、どうもナショナルなイメージでとらえがちだ。
日本民族に関して言えば、日本文化の「独自性」を強調するなどはその類いだ。
それが悪いとは言わないが、ではアメリカに民族はあるだろうか?

こういう「民族文化の独自性」が民族という概念の核心であるならば、アメリカ民族などというものは存在しない。

オーストラリアもそうだろう。

しかし、アメリカに民族はあるのだ。
本来、民族とは、一般に考えられているような生物学的な人種や血縁地縁でつながった種族とは違うのだ。
こうしたエスニックな意味での民族と、近代国家(民族国家、あるいは国民国家、いずれも同義だ)と混同して使われていることが問題なのだ。
混同しないために、ここでは「国民」ということばで、「民族(エスニック)」とは区別して書こう。

さて翻って日本に、果たしてこの国民はあるだろうか? 実はかなり希薄かもしれないのだ。
国民とは、所与のものとして存在していたエスニックな意味での民族とは無縁のものだからだ。
国民とは、自らを形成しなければ国民たりえないのだ。

人民というのも、違う。
範囲が狭いのだ。
人民というのは、為政者や権力者などを除く残りの人々のことを指す。
しかし、国民とは、為政者や権力者まで含めてすべてが国民なのだ。

国民という概念がいつできたのかというと言うまでもなくフランス大革命である。
典型的な例が、ルイ十六世が処刑されたとき、国王でありながら、国王として処刑されたのではなく、市民ルイとして処刑されたのである。
これはルイ16世が、革命勃発後、フランスを見捨てて亡命しようとしたことが発覚し、逃亡中捉えられ、フランスに対する裏切り者として告発され、処刑されたのである。
ここに、国民という概念の平等性が発揮された。
近代国民国家の誕生である。

この国民の概念無しに、身分制の清算はありえなかった。

国民とは、言語や歴史、文化を「共有する集団」である。
だから、遺伝子的に原日本民族であろうと、朝鮮民族だろうと、華人系であろうとコーカソイド(白人種)であろうと関係ない。

そこには、多数派を占める原日本民族の文化的独自性にうぬぼれることも、少数民族の文化的独自性をことさらに過大評価することも無い。

エスニックな民族という概念が前面に押し出されれば、それはしょせん聖職者の宗教的権威や王侯貴族・独裁者による暴力に支えられた問答無用の身分性秩序と、なにも変わらない結果になる。

中共を見るがいい。良い例だ。漢民族による支配で、少数民族が弾圧されている。中国には国民などという概念はゼロである。漢民族でさえ人民でしかない。共産党という国家エリートたちによる畜群に対する支配であり、これを彼らは「中国的民主主義」と臆面もなく標榜している。欺瞞とはこのことだ。

しかし、国民国家は権利と義務が万人に共通なものとなり、それぞれがどのように権利を行使し、義務を果たしているかをめぐって、常に相互に問い問われる。
そのため、国民国家というものは、作家、知識人、言論人によって代表されることが多く、広義の世論形成こそが国民国家の核心といってもいい。自然、それは民主主義を掲げることになる。

その自覚や意思、行動を伴わず、未熟であれば、当然つけいられる。それが、多くの近代戦争や紛争の原因として絶えず導火線となっている。侵略国の野望もさることながら、侵略されるほうの未熟が侵略を結果的に誘うのである。

いや、日本も明治維新で国民国家になったのだという意見が多いだろう。
たぶんこれは間違っている。
明治国家が成立しても、今から振り返ってみれば、しょせんそれは日本人と称されているエスニック集団が、日本列島にあらたに衣替えして誕生しただけで、なにも本質は変わっていないのである。

もっと言えば、明治維新は、日本人が国民になる可能性を封印してしまったともいえる。

明治維新は当時の帝国主義という国際情勢の激変の渦中にあって、主に西国の下級武士が政争の具に使ったクーデターにすぎないといってもよい。
彼ら討幕派には、開国の歴史的意義の認識などほとんど無かったのだ。

だから、当時のまともな思想家、たとえば福沢諭吉や中江兆民などは維新の大騒ぎにはほぼ目もくれなかったではないか。

無思想な維新の志士たちは、策士としてはしかし、きわめて有能であった。
天皇の建前上の権威を利用して、揺らぐ幕府を倒し、クーデターで権力を簒奪したのである。

わずかに志士の中にあっては、坂本龍馬は国民国家の概念をほのかに有していたと推察されるが、それとてどこまでかわかったものではない。ただ志向していたことは間違いなかろう。彼は当然クーデター画策集団にとっては邪魔だったのである。だから、消された。

そして、クーデター画策集団は、天皇を無理に神格化し、身分制度の掟を天皇を頂点とした「国家エリート」の職位階級の序列に置き換え、国家を壟断した征服者とみることもできる。天皇家こそいい迷惑である。

確かに、それまでの下層階級の者でも、栄達が可能な社会にはなった。
しかし、あくまで「国家エリート」の都合で消耗される「帝国の臣民」にすぎない。
国民とは、こうした国家エリートも含めて平等な概念であったはずだが、維新によって既得権者となった支配層は、これに明確な線引きをしたのである。

こういう観点から、わたしたちは明治維新以降の近代日本というものをもう一度見直す必要がある。
いまだ、国民成らず。

敗戦でこの明治体制が崩壊したと思ったら、大間違いである。
なにも変わってはいない。
どころか、絶対的な強者であるアメリカの庇護を得た国家エリートが、結局は連綿と国民国家の成長を阻んでいるのである。
戦前よりもっと悪いことに、アメリカの意向という余計な動機までが国家エリートたちの行動原理に加わっている。
戦後、日本は戦前よりも国民国家からは遠い存在になってしまっているといっていい。
致命的なのは、それに国民自身の気づきや自覚が、あまりにも不足している点だ。
世論が、国家エリートによって情報操作されているためである。
これは、なにも日本だけではない。
アメリカでもそうだ。
しかし、アメリカはこの問題に気づき始めている。
トランプという第45代大統領への熱狂的な支持が、それを反映しているといえるだろう。

日本に、トランプは登場するだろうか?