歴史は修正される(中)

歴史・戦史

これは347回目。日露戦争後から、第二次大戦までの経緯です。

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さて朝鮮半島だが、伊藤が暗殺されず、長命であれば、朝鮮独立も夢ではなかったろうが、残念ながら歴史はそうもいかなかった。

この後の日本の戦争というものは、確かに海外に領土拡大、植民地獲得を野望とする動きはあった。それは間違いない。政府というより、日本人がそれを望んだのである。民間企業の海外生産地域獲得の野望である。

それが1931年の満州建国である。この問題は日清日露戦争で得た満州における権益が、日本と清国(中国)との間で結ばれた国際協定にもかかわらず、中国側によってまったく守られないことに対する実力行使ということであった。それが満州事変である。ところが、時代はすでに流れが変わり始めていたのだ。

その前には、1914-17年の第一次大戦があり、連合国側に立って戦った日本だが、アジアではドイツの支配を完全に排除する貢献をした。が、一方で、その後釜に座ろうという「植民地主義的」な政策意図も出てきていた。植民地を持つということは、犯罪ではなかったが、第一次大戦によって民族自決主義が国際社会のコンセンサスとなってしまっていたのだ。

この民族自決主義というのは、表面的な美名に過ぎない。ただ、そういう新たな概念が出てきた背景には、新しい国際秩序が必要だという認識が西洋列強に高まっていたからである。植民地争奪による世界分割の時代はもう限界にきており、さらに進めばお互いに支配している地域を奪い合うということにしかならず、挙句の果てには本国同士が血で血を洗う戦争をする羽目に陥るという結論が、第一次大戦によって明らかになったのだ。そのための智慧が、「民族自決主義」という名前の、現状維持という原則論だった・

日本はこの変化に鈍感であった。満州事変は確かに石原が意図したように、本来自存自衛の一挙ではあったし(ソ連共産主義に対する防波堤)、侵害され始めた利権の防衛であった。日露戦争までは誰もこれに異を唱えなかった。しかし、時代が変わり始めていたのだ。

第一次大戦によって新たな国際認識となった民族自決主義とは、真っ向から衝突する事件になってしまったのである。

この満州事変によって、日本国内の植民地主義者、つまり民間企業の海外商圏獲得を渇望する人たちによって、利用されていったことも事実である。それと癒着した軍との連携もあったろう。

一方でこの事変を起こした当の張本人である石原莞爾関東軍参謀には、まったくこの意図はなかった。あくまで五族協和による満州国という独立国家の建設が目的であった。あまりにも理想主義的すぎて、現実の日本の帝国主義的版図拡大とは、相いれないものだったのだ。

石原が意図したのは、ソ連共産主義という外圧をそこで止める緩衝地帯である。緩衝地帯であるだけに、独立国家でなければならなかったのだ。朝鮮はすでに、意に反して日本国になってしまっていたから、独立国家の緩衝地帯を満州に求めたのである。

だから、石原は、満州国への日本人移民の大量流入を禁止していたし、その後の日中戦争拡大にも反対していた。日本の自衛のための限界線が、満州国建国だったのだ。

その石原は、残念ながら、国内世論の海外植民地獲得を渇望する民間企業の圧力に押され、軍指導部によって左遷。満州は、独立はかろうじて維持していたものの、実質的には日本の傀儡国家となった。日本人の開拓団も、石原の意図とは反対に、急増して満州になだれ込んだ。

なぜ、西欧列強はいきなり第一次大戦によって、帝国主義から民族自決主義に変わってしまったのであろうか。それは、先述通りだが、もう一度確認しておこう。先行利得による総取りという植民地獲得競争が、すでに限界に達しており、彼らはそれ以上の獲得となると、西欧列強同士の直接戦争ということになるからにほかならない。つまり、ここで「均衡させよう」という話になったのだ。それが、表向きはいかにも響きのよい「民族自決主義」という「タテマエ」であり、きれいごとであった。

だから、満州事変を「侵略である」と訴えた中華民国の求めに応じて、国際連盟はリットン調査団を派遣、この問題を精査した。結果、結論としては、満州において侵害された日本の利権の正当性をすべて認める。しかし、だからといって、満州国を独立させてしまうところまでやるのは、「やりすぎだ」ということだった。

一方、そもそも満州が中華民国領なのかというと、実際問題、西欧列強の当時の認識では、違っていた。それまで清国(満人)によって、中国(漢人)が支配されていたのであり、辛亥革命によって成立した中華民国は、この満人を満州に追い出した、革命である。つまり、漢満はまったく別のものである、という認識が一般的だったのだ。

そういう意味では、満州国独立は正しかったのだが、実質的には日本の支配によるもので、決して独立国家とみなされるような代物ではなかったことも事実である。

そこで国際連盟が下した裁定は、日本の満州における利権をすべて認めるが、満州国独立は認めない。その代わり、国際連盟による共同統治で独立が将来可能かどうか、様子を見よう、というものだった。日本は、これを拒否したのである。挙句の果ては、国際連盟脱退とあいなる。ここから、日本の侵略志向が次第に露骨になっていったということが言える。

正直言えば、ここで国際連盟による共同統治を受け入れておけばよかったのだ。実際には欧州各国は、満州の共同統治ができる実質的な力をすでに失っていたのだ。したがって、実質的に統治の任務にあたるのは、日本と新興大国であったアメリカ以外に無かったのである。

もしも、ここで日本が満州の共同統治を受け入れていれば、アメリカはそこに利権を得ることになっただろう。当然満州で日本とアメリカの「利権の棲み分け」が成立し、日米は利権で固く結ばれることになったはずである。

この結果、後の大東亜戦争に発展するというシナリオは、可能性としてはゼロになったはずなのである。なぜなら、共同統治によって満州に入ってくるアメリカ資本の権益を、実際に武力で防衛する任は、ほとんど日本に依存することになったはずだからである。

後に起こる太平洋戦争と呼ばれるものは、遅れてきた帝国主義・アメリカが、中国という膨大な市場を、「俺にもよこせ」という意図を全面に出してきたことと、それを拒否した日本との戦いである。

このアメリカの「門戸開放・機会均等」という主張こそは、アメリカ帝国主義の本質を如実に表現したものである。すでに日露戦争に日本が勝った直後に、アメリカは満州における鉄道建設を、日本と共同でやろうとハリマン財閥が申し出てきていたのだ。

日本は当初これを受け入れたが、その直後に拒否したことから、日本とアメリカの関係がこじれ始めていた。

日本が増上慢に陥らなければ、当然このアメリカの満州鉄道建設の共同経営を受諾していただろう。そうすれば、後の満州事変を起こしても、今度はアメリカと日本による満州の共同統治が成立し、実際には、日本とアメリカの支配と化していたはずである。

結果、太平洋戦争は起きるはずもなかったことになる。二度にわたって、日本からソデにされたアメリカは、アジアでの権益獲得にはどうしても日本を排除しなければならない、と結論づける。もっと言えば、日本も支配してしまえ、ということになったわけだ。

ここに、太平洋線戦争への道筋が出来上がった。アメリカは中国を扇動し、日本との徹底的な戦争継続を促す。満州から基本的にはもはや出ようとしない日本を、挑発に次ぐ挑発を行い、中華民国内に居住する日本人をたびたび虐殺し(通州事件など)、日本の世論を激高させ、とうとう日本を日中戦争に引きずり込むことに成功した。その謀略は、ほぼすべてアメリカによるものといっていい。

(続く)



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