愛国心って、なんだろうか?

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これは457回目。愛国の話です。

昔から感じていたことなのだが、自分が愛国者だと称するのに、どこか気恥ずかしさを感じたものだ。

だから、軽々しく言えない自分がいつもそこにいた。

不思議ではないか。正しいのだ。
全然間違っていないのに、なぜか愛国という言葉を使うこと自体が気恥ずかしいのだ。

いや、他人からそれを謗られるからというのではない。
わたしが愛国を口にするのを、誰かが冷笑したり、馬鹿にしたりしたら、それこそムキになって「おまえこそ非国民だ。おまえなんぞ、この国に居る資格などない。中共でも、ソ連でもどこでも行ってしまえ。」と言い放ったものだ。

だから、人から批判されたり、非難されることを恐れて、愛国を口にするのを憚ったのではない。
まったく別の動機に違いない。

これをアメリカ人と比べると、まったく違うことがわかる。

このところ、大統領選後の大騒動の中で、「愛国者たち」が不正選挙を正そうとして立ち上がっている。
トランプ陣営の口からついて出る言葉は、「愛国者」だ。

これもまったくそのとおりなのだが、どうもPatriotという言葉と、日本語の愛国者とは、その言葉が形作られた経緯が違うからなのか、意味は同じでもまったく違う言葉なのだという気がしてならなかった。

で、ものはついでなので、Wikipeiaで「愛国」というのを調べてみた。

あったあった。

確かに、そうだ。
昔、三島由紀夫がこんなことを書いていたな、と思い出されてきた。

本人の言葉が引用されていたので、それを下記してみる。

・・・「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」・・・

つまり、彼の言っていることは、Wikipedia が解説している通り、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわない。

日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であるというわけだ。

なかなかこのWikipediaを書いた人は、的確な文化論を展開していると感心した。
「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通る。

しかし「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしているのだ。

三島は言う。

・・・われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である・・・

そうなのだ。恋なのだ。
あるいは恋に近いのである。
だから、口にするのも気恥ずかしく、ついつい言葉を濁しがちになる。

Wikipediaは、さらに三島の言葉を引用する。

・・・われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である・・・

・・・我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。・・・

ようやく、長年の謎が解けた。
やはり、わたしたち日本人は、愛国心などという言葉を軽々しくは使わないのだ。

大事なものは、人には見せない。
陰徳のようなものかもしれない、そんなふうに思った。