語源の不思議

文学・芸術

これは190回目。ふだん何気なく使っている言葉です。どうしてそう言うようになったか、どうでもいいこまかいことがやたら気になる性格です。ついつい、調べてしまうのです。

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「ちちんぷいぷい」という呪い(まじない)言葉は、もともと江戸時代初期、乳母(とされている。本当は、実母という説が濃厚。)の春日局(かすがのつぼね)が、幼少時代の徳川家光(後の三代将軍)に言い聞かせた、「知人武勇は御世(ごよ)のお宝」というものからなまったものだ、と言われている。ほんとうかどうかはわからない。

通常わたしたちが使っている日常的な言葉の中には、よく考えてみると、どうも使われている意味とは、かなりギャップがあったり、まったく意味不明であったりするものも多い。この「ちちんぷいぷい」などは、言われてみれば、ああそうなのかとも思えるが、予想もつかないケースも多い。

よく、お土産屋さんで500円くらいで売っている、「まごの手」という、背中を掻き掻きする、あれだ。ふつう誰しも「孫の手」と思う。年よりが、孫に背中を掻き掻きしてもらう様子を思い浮かべるのだろう。

が、もともと中国の仙女「麻姑(まこ)」である。中国・西晋時代の「神仙伝」に登場する仙女で、爪が長い。

この、語源がまったく違う分野からきたものの例には、「へそが曲がる」「へそを曲げる」というのがある。この「へそ」だ。まず十中八九、これを体の中心のへそを思い浮かべる。が、よく考えてみれば、あの「へそ」は穴であるから、曲がるというのはどういうことかまったく意味不明だ。

実は、このへそ、体の中心の「へそ=臍」ではないのだ。もともとは「綜麻(へそ)」である。「おだまき」とも呼ばれたが、つむいだ麻をつないで撒いて糸巻きにする。これをちゃんとまかないと、こんがらがったり、曲がったりよれたりして使い物にならなくなる。それが、いつのまにか、体の部位である臍(へそ)に置き換わってしまったのだ。

同じように、「へそくりを貯める」の「へそ」もそうだ。「綜麻(へそ)」である。「綜麻(へそ)」を操って糸を巻くことで、こっそりお金をためることの意味だ。

だいたいからして、「幸せ」と言う言葉すら、意外な事実で驚く。もともと「仕(し)合わせ」あるいは、「為(し)合わせ」という言葉からきたらしい。つまり、いろんなことが重なる状態のことを指すようだ。とくに良いことが重なるような状況を、「しあわせ」と言いならわすようになったらしい。

博打の世界から入ってきた言葉も多いようだ。たとえば、「一か八か(いちかばちか)」という言葉がある。勝負ということだが、サイコロ賭博では、「丁(偶数)か、半(奇数)か」と言う。この丁の字の上側は「一」、半の字の上側には「八(上下さかさまだが)」がある。この一と八からきたそうだ。これなど、教えてもらわなければ、絶対わからない語源だろう。

方言だと思い込んでいる、誤解もあるようだ。たとえば、「しんどい」という。これなどは、あまり関東では使用頻度は低いと思うが、関西の言葉だと勝手に思っているフシがあるのではないだろうか。

ところが、この「しんどい」は、もともと「心労」からきている。シンロウが、なまってシンド―、シンドイになっていったようだ。これに似た言葉の変化では、「ひどい」という言葉もそうだ。もともと「非道」からきている。そのくらい「ひどい」のである。

このように、意外に語源がわからないという場合、博打打ちの言葉や、あるいは花柳界の言葉からきていることが多いようだ。いわゆる「隠語」である。

たとえば、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」というのは代表的な例である。指切りそのものが、郭(くるわ、置屋)住まいの遊女たちが、情を通わせたときに、決意がどれだけ堅いかを示すのに、小指を切ったのだ。(やくざの、示しをつけるのも、ここから来ている)

命を懸けて、約束を守るという決意表明の証なのだが、命を捨てるわけにはいかないので、小指を切ったのである。その代わり、この誓約にもかかわらず、破った場合には、「拳で一万回殴り倒す(=殺す)」という意味が、「拳万(けんまん)」であり、ゴロから「げんまん」になっていったようだ。

今ではまったく生活環境が違うので見当もつかないものの、もともとはその時代に見合った現状をそのまま表している言葉もある。たとえば、「二束三文」というが、タダ同然という意味で使う。これは、江戸時代に「金剛草履(こんごうぞうり)」という、安物のゾウリがあったそうだ。それが、二足で三文の値段だったことから、粗末なもの、価値のないものを言い表したようだ。三文というのは、安いという言葉の代名詞のようなもので、三文芝居、三文文士、三文判といったような例でもわかることだ。

変わり種は、外来語である。これも意外なのがある。たとえば「ピンからキリまで
」という、初めから最後まで、一番上から一番下まで、と言う意味だが、これはポルトガル語だそうである。

ピンはPintaで、一の意味だそうだ。キリのほうは、一から十までの「十」のことなのだが、Cruz(十字、十字架)から来ている。ピンタからクルスまでで、ピンからキリまでと言い慣わされてきたようだ。ポルトガル語であるから、相当古い。おそらく、戦国時代末期から江戸初期あたりにできた言葉かもしれない。

似たような外来語由来というものでは、ポン酢がある。これは、オランダ語だ。やはり同時代と推測される。今では、ポンカンを使った酢だと勘違いする場合も多いだろうが、もともとポンは、オランダ人たちが、オレンジなど柑橘系果実を絞って、酒や砂糖を混ぜて飲んでいた、その飲み物をポンスと呼んだそうだ。

このポンスが、酸っぱい調味料のことを指すように日本人が使い、ポン酢となったようだ。普通は柚子(ゆず)や酢橘(すだち)を使っている。もしかすると、本当にポンカンをつかったものもあるかもしれないが。

男女逆転してしまった、外来語由来のものもある。ズボンである。ズボンというと、男の穿(は)くもの、という通念なのだが、本来女性用である。

ズボンの語源は、フランス語のJupon(ジュポン)から来ていると言われている。スカートの下に穿くペチコートのことを指す。最もこのズボンには、穿くときの音から来たのだとか、アラビア語由来だとか、ほかにも説があるようだ。

漢字の表記が変わってしまったために、意味まで不明になってしまったケースもある。「すみません」がそうだ。「済みません」と書くのが普通だが、本当は「澄みません」らしい。

「澄む」というのは、濁っていない、つまり「心が晴れている」状態を意味する。ところが、それが「澄まない」わけだから、「心が晴れない」のだ。お返しもできず、澄みません(心が晴れません)というように使ったようだ。それが、勘違いされたか、済みませんに漢字が置き換えられてしまったのだ。

さて、若い人たちは、まず絶対といっていいほど知らないだろう死語にも、こういう語源不明のものがある。今ではまず見なくなった、「ロハ」という言葉があった。カタカナで「ロハ」である。これは、無料、タダ、という意味なのだが、年配でないと覚えが無い言葉だろう。これなどは、漢字の「只(ただ)」を上下に分解して、カタカナの「ロハ」に見立て、無料という隠語になったのだ。

隠語というのは、先に見た博打、花柳界のほか、料理人の世界にも多い。また株式市場も、江戸時代からあるだけあって、きわめて隠語が多い。もっとも、市場で使われる隠語は、たいていの場合、博打や花柳界から流用されたものが多いようだ。隠語だと思うと、どうもなかなか使いづらくなるものだが、本来の使われ方からあまりにもかけ離れてしまっているので、そう気にしなくてもよいのだろう。言葉は生き物だ。間違っていても、みんなが使うようになれば、それが正しい言葉として新たな命を得る。



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