魔界転生~純文学か、大衆文学か。
山田風太郎が、自作品のうち最も好きだと言っていたのが、「魔界転生」です。もともと、「おぼろ忍法帖」という原題が、「忍法魔界転生」に変わり、1981年の映画化の際に風太郎自身が「魔界転生」と原作を改題したそうです。なにしろ、面白いのです。大学の時分にはじめて読みました。ほぼ、馬鹿にしたようなつもりで戯れに読み始めたのですが、とんでもなかったのです。そして、いつしか、ふと思い出したように読み返して、これまた一気呵成にまた読んでしまう。
最近もまた思い出して読んだのですが、あいかわらず新鮮です。この魅力は一体何なのでしょう。
ただの、一般的に言われている通俗小説なら、ここまで惹かれるものなのでしょうか。
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一体、純文学と大衆文学の違いとはなんだろうか?
一般に、純文学というと芸術性を追及した作品ということになっており、大衆文学は娯楽性を追求した作品ということになっている。
果たしてそうなのだろうか?
そもそも、分けること自体に意味があるのだろうか。
ほとんど無いような気がする。
結局小説などというものは、江藤淳が言っていたように、「読んで面白いということ(娯楽性)、生きていく上にいくばくかの智慧(思想)」の二つを内包していると思う。
よく芸術性ということを言うが、それこそまったく意味不明である。
芸術とはなんだろうか?
書き手と読み手の間に発生する精神や感覚の高揚の相乗作用だろう。
純文学であろうと、大衆文学であろうと、そういう意味での芸術性というものは、どちらにだって有り得る話だ。
だから純文学が芸術性が高く、大衆文学にはそれが少ないなどということは無い。
山田風太郎という一世一代の「通俗作家」がいた。
彼の書いた「魔界転生」はおそらくその最高傑作なのだろうが、わたしにはただの娯楽小説、大衆小説の域を完全に越えた芸術性の高いものだとしか思えない。
あまりにも面白いので、その娯楽性がときに勝ってしまい、その芸術性というものがともすると見失われがちだが、指摘されればなるほどと思うような芸術性に貫かれている。
登場人物は、柳生十兵衛であり、これと戦うのが蘇った歴史に名だたる武芸者たちだ。
荒木又右衛門、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜(いんしゅん)、柳生但馬守、柳生如雲斎、宮本武蔵、そして剣術使いではないが、天草四郎時貞。
共通項として風太郎が設定した要素は、「未練」である。それも死ぬほどの未練である。
武術一筋に生き抜き、幾多の敵を倒し、そのためには心から愛する女を捨てた男たち。そして、一世一代の決闘をし残している男たち。
今そこに迫る死に際し、彼等の心に去来する過去の自身の捨てた欲望への愛惜、あるいはやり残した唯一の命がけの戦い、そうした激しい未練が、彼等を悪魔との魂の取引へと追いやり、魔性として蘇る。
読んでいて思ったのだが、人物としてよく描けているかどうかはともかくとして、読み手がどうしても気になってしかたがないのは、十兵衛ではないということだ。
むしろ、転生した魔界衆のほうである。
ちょうど、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」を読んで、主人公の善良なアリョーシャよりも、悪魔に魂を売ったイワンや、性格破綻したドミトリーのほうが、遥かに魅力的に思える(あるいは、非常に気になる)のと同じだ。
悪魔がいるからこそ、天使の存在が信じられる、とでも言うべきだろうか。
宮本武蔵を始めとする魔界衆は、生前の血を吐くような未練に苛まれ、蘇ってその本懐を遂げたいと転生する。
その最大の未練とは、まだ見ぬ最強の敵との果し合いであり、女である。
道を極めるという覚悟と、人間としての幸せを、剣術による戦いと女にそれぞれ仮託して描いているわけだ。
思えば、山田風太郎には「戦中派不戦日記」というのがある。
文語調なので、当時戦中下における風太郎の、生死ぎりぎりのところでの精神的葛藤が、ものすごい迫力で読むものの心をとらえて話さない。
並の日記ではない。
彼はタイトルから想像するような反戦主義者ではない。
むしろ逆である。典型的な当時の若者と同じ、心の底から勝利を信じた愛国青年・軍国青年である。
自暴自棄的な「不戦」の二字だけを書き捨てたあたりに、その苦衷が伺われる。
その彼が、医学生であったことから戦地に赴くこともなく、彼の前を幾多の人々が通り過ぎては散っていく。
終戦直前のころの文章は、もはや凄絶といってもいい。
とくに、敗戦が決まった直後の茫然自失となった風太郎の虚脱感たるや、圧巻である。
思うに、彼と同じような愛国青年たちの多くが、愛するものと決別して大義に身を委ね、死地に赴いているわけで、そこに生涯の人間としての「未練」を痛いほど感じていたのではないか。
それは親であり、兄弟であり、子どもたちや妻であったかもしれない。
が、多くは恋人でもあったろう。
魔界衆たちの生涯の未練というもの(一世一代の決闘と、人指も触れることがなかった愛する女)に仮託されたものは、彼が昭和二十年に凝縮して味わった、多くの戦死者たちの無言の問いかけではなかったのか。
そんな風に思えたのだ。
されば、小説中の魔界衆たちというものが、読み手にとっては「生きる」ということの意味を激しく問いかけている存在だけに、その描写は少ないとはいえ、十兵衛よりはるかに読み手の心を捉えて離さないのではないか。
わたしの読み方が間違っていればともかくだが、そんな風に感じたのだ。
となれば、面白くもない多くの純文学などより、遥かに「魔界転生」は、その資質において純文学の要素を豊かに備えた傑作だとわたしには思える。
哀れなり、魔界衆。されどその心には寄り添いたい。
そこにわたしたちは、いつわらざる人間の本性を垣間見るに違いない。
まだお読みでない方は、騙されたと思ってお読みいただきたい。
映画(二回映画化されている)などより、遥かに惹き込まれ、圧倒的な読み応えのある傑作だ。
映画とはまるで別物の娯楽性と哀感が、心に染み入ってくるに違いない。