彼岸過迄
これは461回目。
一般的に女はロマンティックで、男は論理的だという。
個人的には、あまり納得しない。
女は現実的で、男は分別がつかず、直面する現実への対応力が乏しい。
女は現実を直視できるから、理屈がどうであろうと、あるがままに現実を見て、素直に適応しようとする。
葛藤はあるだろう。
しかし、順応できるのだ。
男は、屁理屈ばかりで堂々巡りしてしまう。
損得勘定で天秤にかけようとするのだ。
自身、煮えきらず、ふんぎりがつかない。
男が、ときに女を二股、三股かけるというのは、生物学的な本能や性格的な情欲過剰の程度ばかりが理由ではない。
漱石の長編小説の中に、マイナーなほうだが『彼岸過迄』というのがある。
序文によれば、正月から書き始めて彼岸過迄書くということで、題名にはあまり意味がないらしい。
マイナーな割には、わたしは漱石の作品中でも、かなり好きなほうである。
面白いのだ。
好きな小説というのは、生涯にふと気がつくと、また手にとっては読み返している自分がいる、そうしたものだ。
この『彼岸過迄』もそうした類の一つなのだ。
これは漱石がそれまでの短編を集めて、長編に編み直したものなのだが、一貫した主題を追っている。
「修善寺の大患」後の、「自分らしいものを書きたい」という漱石の起死回生の一作だ。
とくにこの時期、文壇では自然主義だの、ロマン主義だの、社会主義だの、さまざまな「流行」が勃興しており、自分の作品がそうした形にカテゴリー化されるのを嫌っていた。
だから漱石は孤独だった。
孤独の中で書かれた秀逸な作品だと思う。
推理小説仕立てだというところも、読み手を思わず知らず引き込んでいく上手さが光っている。
市蔵には、幼馴染の従妹・千代子がいる。
市蔵の母は、市蔵を千代子と結婚させることに執着している。
市蔵は千代子に惹かれてはいるものの、性格が合わない、他人と争ってまで得たいとは思わない、自分のような理屈を考えてばかりの男の女房になっても、千代子は幸せにならない、幼馴染だから女として見ることができないなど「結婚しない理由」ばかり思っている。
千代子は、まんざらでもない。
事実上、二人は許嫁のようなものだ。
しかし、その千代子の想いに市蔵ははっきりと応えられないでいる。
そのクセ、千代子に接近する別の男に、市蔵は嫉妬するのである。
ここで彼の自意識は、崩壊の危機に直面する。
実は、(小説では最後に明かされる事実なのだが)市蔵はそれまでにすでにアイデンティティが崩壊していたのだ。
実は、市蔵は母の実子ではない。
父親が下女に産ませた子で、母が引き取って息子として育てたのだ。
母には娘(市蔵の腹違いの妹にあたる)もいたが、ジフテリアで亡くしていた。
だから、母はなんとか自分の血をつなげていきたいという思いから、姪の千代子を市蔵に嫁がせようと陰に陽に二人を結びつけようとしていたのだ。
あることからこの事実を知った市蔵は、すでに自分を「根無し草」と感じていた。
自分はだれなのかという根本的な命題に、彼の近代的自我というものは、音を立てて崩れてしまっていたのだ。
その状況下で、千代子との関係が進んでいく。
自分が誰かということに自信の持てない市蔵は、自信の決断による行動を起こせない。
学生だが、就職もままならずにふらふらし。
結婚にも踏み切れない。
しかしその彼が、実は自分が千代子を好きだという現実に復讐される。
それが、千代子とほかの男がつきあることに、思わぬ嫉妬を抱くことで、市蔵はますます自己崩壊の回帰不能点にまで達する。
後半、千代子に詰め寄られる場面は圧巻である。
千代子が泣きながら訴える。
「何故愛してもいず、細君にもしようと思ってない妾(あたし)に対して…何故嫉妬なさるんです」
市蔵は、自分がもっとも卑しいと思う心、つまり嫉妬を、あろうことか自分自身が持っていることに気づいていた。
すでに心の行き場を失っていた。
そこに、千代子の痛烈な一撃を受けたのだ。
市蔵は、周章狼狽する自分を否定できない。
この場面は、小説中のクライマックスと言っても良い。
頭でっかちで、下等な欲というものを侮蔑する、仕事もせず、何事をも積極的に関わろうとせず、自意識過剰な近代的自我が、その内に潜む性に復讐されるという、漱石の作品に通底する主題が展開されている。
たまたま、男女関係の糸を解きほぐしていく筋立てのほうが、わかりやすいから、漱石もことさら男女関係をモチーフにしている。
しかし、なにもそれは男女に限った話ではなく、人と人との間のすべての問題に敷衍することができる。
千代子は市蔵をなじる。
それは絶唱と言ってもいいくらい、真正面から市蔵を見据え、逃げ道を許さない。
「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡さえあなたはすでに疑ぐっていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたはひとの招待に応じておきながら、なぜ平生のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻いたも同じ事です。あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
思えば、『三四郎』に「意気地無し」と言い放った名も無い女性といい、この千代子といい、どうも漱石の創作意欲を掻き立てる女性像なのだろう。もしかすると、どこか憧れていたような女性像であったかもしれない。
インテリゲンチャ故のプライドが、自身を盲目にする。
当たり前と思っていた自分の出自が、根底から覆されてしまい、自分という人間存在の軸足すら喪失してしまう。
市蔵は、ただ内面で独り相撲ばかりを繰り返しているにすぎない人間になってしまった。
その卑屈なまでの自尊心を保つ言い訳は、ほとんど痛ましくもさえ思える。
いつものように、優れた文学作品には「答え」などない。
安易に迎合しうる「答え」を提示する作品ほど、文学としての価値は低い。
千代子にノックアウトされた市蔵は、人の痛みや対面に配慮することより、自分の心の安定だけを護ることに汲々としている、近代人特有のエゴが自分の中にあることを、余すこと無く思い知らされる。
思えば、日本人というのは、明治維新以降、「外的な影響」によって「捏造された近代的自我、近代的個人」なのである。
寄って立つ足場を、日本人は近代以降持たなかった。
和魂洋才といいながら、結局和魂は時代遅れとして置き去りにされ続けてきたのだ。
実は、そういう意味では、千代子でさえ、期せずして、無意識的に市蔵を自己崩壊へと追いやっているという点では、近代的エゴの権化でしかない。
登場人物のほとんどすべてが、そうした近代の宿痾、エゴに取り憑かれているのである。
おそらく、市蔵に唯々諾々と身の回りの世話をし続ける下女の作だけが、その近代のエゴから距離を置いた存在だと言えるかもしれない。
ふと、市蔵は、下女の作に心安らかな親和性を抱く。
もちろん、実母の連想ともつながっているのかもしれないが。
結局、千代子の痛打は市蔵の心に届いたか?
小説の中においては、届いたとはいい難いようだ。
が、救いはある。
ラストで、市蔵は大学卒業を前にして、旅立つ。
理屈依存の独り相撲の境地から、「考えずに観る」ことを学んだと本人は言う。
その後、市蔵は、千代子と寄り添うことができただろうか?
それは作品中には書かれていない。
この作品は『それから』と、主人公の旅立ち、改心という点では、同じステージで終わっている。
この先にあるのが、『門』であり、『こころ』の夫婦の有様である。
いずれもハッピーエンドではない。
漱石は、前者はいい知れぬ空白感と寂しさに満ちており、後者では悲劇的な死を選ばせている。
ただわたしなどは、しょせん小説と割り切る。
『彼岸過迄』を読むにつけ、市蔵と千代子がなんだかんだ言って、幸せな日常というものにそこはかとない満足をする風景をついつい思い描いてしまう。
だからだろうか、漱石の作品中においても、どういうわけかこの『彼岸過迄』を、やたら読み返す回数が多いのだ。
漱石先生、そんな読み方をしても怒りませんか?