恩讐の彼方に
これは441回目。菊池寛の「恩讐の彼方に」の話ではありません。人間の情念と、その偽善性の話です。
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芥川龍之介の小説に『袈裟と頼通』という短編がある。
平安末期から鎌倉時代にかけての文覚上人のことだが、俗名遠藤頼通といった。
源頼朝とよしみを通じ、神護寺はじめ東寺、高野山大塔、東大寺など幾多の寺を勧請して、その普請に努めた。
頼通はもともと北面の武士出身だが、19歳で出家している。
この頼通は、かねてから袈裟御前という美女に懸想(けそう)をしていたのだが、従兄弟で同僚の渡辺渡の妻として嫁してしまった。
『源平盛衰記』によると、その後も連綿と袈裟御前への想いを断ち切れず、機会を伺っていた。
陵辱に成功したのである。その母を殺し、自分も腹を斬ると脅したことで、袈裟御前は頼通に身を委ねたということになっている。
袈裟御前は、そこで頼通をそそのかし、夫の渡殺害に赴かせる。
頼通が実際に殺害したところ、それは渡の身代わりとなった袈裟御前の死骸だった。
袈裟は夫への贖罪のつもりで身代わりになったのではない。あくまで自分の魂の救済が先決だったのだ。
この話は、袈裟御前の「貞女」ぶりを遺憾なく発揮した話ということになっているが、これを素材にして芥川は、頼通と袈裟御前それぞれの深層心理を暴き立てていく。
それが『袈裟と頼通』の骨子だ。
一言で言えば、ようするにいずれも「偽善」にほかならないということになっている。
頼通は、すでにかつての容色が衰えた袈裟御前に失望してしまった。その袈裟御前にささやかれて、夫の渡の殺害を行うのだが、それとて恨みもない渡を殺すのだ。
一体、自分は袈裟御前を愛しているのか、もはや侮蔑しており、陵辱の一環に過ぎないのか、苦悶する。
が、芥川はいずれも否定的である。つまり、ただの色情に突き動かされただけのことで、愛だのなんだのというものでは毛頭ないと切り捨てている。
頼通の心理の迷走はいたずらに自分の色情を正当化しようとする偽善にほかならない。
一方袈裟はどうだろうか。
こちらも、母を救うために愛してもいない男に身を委ねたものの、夫への不義理に苦悶する。
かといって、夫に一部始終を告白する勇気とてない。
また、頼通への怨念も捨てがたい。かつての容貌が衰え、醜くなった自分というものを思い知らされ、侮蔑されたのだ。その恨みも深い。
袈裟御前が選択したのは、頼通を騙して渡殺害を決行させ、渡になりすました自分が殺されてしまうという算段だった。
あらゆる意味で、袈裟御前による究極の「復讐劇」と言ってもよい。
ラストは身代わりとなって息を潜めている袈裟御前のところに、とうとう頼通が忍んできた。そこで小説が終わる。
あらすじはそういうことだが、短編ながら、両者の醜い自己正当化や、自分探しごっこの愚かしさが、非常にきめ細やかに描出されていて、いかにも芥川らしい「計算された」佳作となっていると思う。
このテーマが「偽善」だとすれば、およそ救いのない人間の本質を暴き立てた小説ということになる。
芥川はいくつかのパターンを書いており、洋の東西を問わず、同じテーマを扱ったものが数多い。
たいていはこの『袈裟と頼通』のように、暗澹たる気分の読後感、一種恐怖を覚えてしまいかねないような人間の本質をつきつけられるものが多い。
しかし、同じテーマを扱っていながら、芥川には逆の読後感のものもあるのだ。
たとえば、『俊寛』である。
平安後期、真言宗の僧であった俊寛は、平家打倒の陰謀に加担し、自邸でその謀議が行われた。
ところが露見して都を追放され、薩摩の鬼界ヶ島に流された。いわゆる『鹿ヶ谷の陰謀』である。
過去、この俊寛のその後を巡っては諸説ある。
能や歌舞伎、小説などの題材にもよく使われてきた。
一般的には同じ遠島の処分を受けた共謀者たちは一人、また一人と許され都に帰っていったが、俊寛だけは許されず、変わり果てた姿になっていったということになっている。
実際のところ、後に都に戻れたのか、島で死んだのかもはっきりしない。俊寛の墓とされるものが、鬼界ヶ島にもその他の地域にも存在している。
後に文芸で取り上げられたもののうち、倉田百三の『俊寛』は伝統的な俊寛像に近い。
悲嘆と怨念の権化となり、最後は狂死する。
が、菊池寛と芥川の『俊寛』は真逆の俊寛像を描いている。
いずれも、「苦しんでいない」のである。達観といえばそれまでだが、孤島でつつましやかに余生を送る男は、恨みにも後悔にも苛まれていない。
自分に与えられた今を、心から幸せと受け止めている。
『袈裟と頼通』で見せた、冷酷なまでの人間の偽善性と、あるがままの自分に満足する『俊寛』は、同じ作家が書いたとは思えないほど、同じテーマを見事に描き分けている。
芥川が、『俊寛』で見せたような作風で大成していたら、きっとあの悲劇的な最期を迎えることもなかったのではないかと、正直思う。
が、一方で、『袈裟と頼通』を書いた芥川だからこそ、近代日本文学史に燦然と輝く名を残したのだろうとも思う。
自身のあまりにも短い老境と引き換えに。