ウェルテル効果
これは416回目。
ゲーテのベストセラー『若きウェルテルの悩み』という書簡体小説。当時、ウェルテルを真似て自殺者が急増したと言われています。
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いわゆる「流行」だ。
流行というものが、ただ、その身なりや、趣味、動作などを真似るというのであれば、まったく罪の無い話なのだが、自殺の流行ともなると話は違ってくる。
原作は、青年ウェルテルが婚約者のいる身である女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いている。模倣自殺が引きも切らなかった為、当時も「精神的インフルエンザの病原体」と揶揄されたそうだ。
その後この傾向のことを「ウェルテル効果」と呼ぶ。ナポレオンが、同書を愛読し、エジプト遠征まで携帯していったというのだから、驚きだ。しかも、7回読んだというのだから恐れ入る。相当、ナポレオンというのはロマンティックだったということになりそうだ。
なにしろ、後年ドイツに侵攻したナポレオンが、ゲーテをはじめて面談したときに、「ここに人物がいる!」とあらためて感動を示したというおまけつきだ。よほどなのだろう。
あらすじとしては、しごく単純で、ステレオタイプの悲恋ものだ。シャルロッテに恋い焦がれたウェルテルは、シャルロッテの婚約者アルベルトの登場で精神が病んでいく。が、不思議なことに原作を読む限り、あまりウェルテルの、アルベルトに対する嫉妬心は強く描かれていない。
ゲーテがそこに重点を置いていなかったとすれば、このウェルテルの自殺は嫉妬からくるものではない。
極端なことを言えば、アルベルトが登場しなかったとしても、おのずからウェルテルの心は崩壊していったとも考えられるわけだ。
要するに自分のものにならない、という壁を超えられずに、ウェルテルは自殺する。そして、重要なもう一つのポイントは、永遠の命という前提があるということだ。この世で結ばれないが、あの世では結ばれることを夢見て死んでいくのである。
たとえば、近松門左衛門の数々の代表作である「心中モノ」と、決定的に違う。
たとえば、『曽根崎心中』である。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段だが、いろいろ邪魔が入っていたお初と徳兵衛であることは間違いない。
叔父の反対と、叔父の娘(徳兵衛の従姉妹)との結婚強要。勘当、追放、借金返済。ようやく工面した借金を、人の良さから騙し盗られるなどさんざんな目に遭い、とうとう二人は(考え方次第だが、いささか短絡的な)心中を決意する。
しかし、ウェルテルとの違いとは、お初や徳兵衛は、結婚が成就しないという現実の壁はあるものの、実質的に「結ばれている」である。生きるも死ぬも、心はすでに満たされているはずなのだ。
しかし、ウェルテルはアルベルトどころか、結婚したシャルロッテからさえも冷たく遇されてしまう。当たり前の話で、まったく思いが通じないわけだ。しかも、シャルロッテには最初から婚約者がいることはわかっていた話なのだ。つまり、横恋慕である。
果たしてこれは、「苦悩」なのであろうか。と、わたしなどは思ってしまう。こういうウェルテルの悲痛さというものに、同調できる人と、わたしのように「つらいという気持ちはわかる」ものの、やはり最終的に同調できない人間とでは、おそらくくっきり線が引かれるのだろう。
ウェルテルの苦悩は孤独と言い換えてもいいかもしれない。お初と徳兵衛は孤独ではない。少なくとも二人は愛し合っており、死をもいとわないのである。
このゲーテの名作をわたしなりに重い価値を見出すとしたら、この「孤独」の意味を訴えたことだろうか。
孤独というのは、一般に「誰も自分を認めてくれない」「誰も自分を助けてくれない」「誰も自分を理解したり、理解できなくても心を寄せてくれない」といった「くれない」シリーズの連発と思われるだろう。
わたしの中で、(少なくともわたし自身のこれまで生きてきた中で)「孤独」というのは、自分が誰のためにもなっていない、自分が誰も救うことができていない、自分が他者にとって無意味な存在である、ということを感じたときだ。
ウェルテルの「苦悩」は、恋が成就しなかったという「形」で表現されているので、問題のピントがズレやすくなってしまっているかもしれない。
ウェルテルは、自分の恋というものが、シャルロッテを幸せにできないという力不足に幻滅し、自身の存在理由に懐疑を持ち、自己崩壊してしまったのかな、とも思う。
「恋愛」というきわめて私的な動機がテーマになってしまっているので、いかにも私小説的な結末で終わらざるをえないのだろうが、もしかするとゲーテがウェルテルに託した「苦悩」の本質・・・それがそういう意味の「孤独」だとすれば、相当質の高い純文学ということで、未だに名作として読まれているのも十分納得できそうだ。