神仏などというものは、しょせん・・・
これは438回目。
今日は、9月9日、重陽だ。この日は、わたしにとっては特別な日でもある。
神仏というのは、しょせん思い込みの所産である。
そう思っている。
それで良いのだ。どうせわからないからだ。わたしもこの長い(いや、短いというべきなのか)人生の中で、幽霊を見たことはたったの二回。
そのていどで、なにがわかるものか。
ただあの世があるのだ、ということだけは思い知った。
信仰は有るかと言われると、一応「ある」と答える。
特定の神仏は、と聞かれると、いささか説明が面倒になってしまうので、一言「稲荷」と答えるようにしている。まあ、あまり聞かれることも無いので助かっているが。
というのも、稲荷というのは、神道系と仏教系と二つあるから説明が厄介なのだ。わたしの中でほぼ同じだ。
きっかけは14年前。
信仰を持ちたいと思って、自分の念持仏をどの仏様にしようかと悩んでいたときのこと。
たくさんおられるじゃないか。
大日如来に始まり、三十三もの観音、明王だっていろいろおられる。天部に至っては、仏なのか、神なのか、それとも魔物であるのかさえ不分明になってくる。
そんなとき、夢を見た。
それは、夢だと自分でわかっていた。
そこに白い綺麗な獣がいて、見目麗しい天女のようなのが跨っていた。
静止画像だ。
それが夢の中のわたしの目の前にいた。
すると、夢の中のわたしが「あ、ダキニ天だ。」と一言漏らした。
そこで目が覚めたのだ。ああ、これが夢告というものだろうか、と思った。この夢を見た日(朝)が、14年前の9月9日だったのだ。
お寺というのはどこにでも本尊がある。たいていは、開祖となった坊さんが、夢告で得たものを本尊にしている。いや、そういうことが多いと聞いている。
同じようなことだろうとわたしは思った。
その日のうちに、赤坂見附の豊川稲荷(一番近いところでダキニ天を祀っていたのがここだった)に詣でて、念持仏を手に入れた。
その後もちょくちょく大勢の狐(稲荷の眷属は狐だと言われている)や、蛇の夢もよく見たものだ。白い蛇が現れると、横から金色の蛇が出てきて、白いのを食ってしまったのだ。
別に怖い夢ではなかった。
蛇は、弁財天であろうが。おれは稲荷だと思っていたが、後々ものの本で、どうやら狐と蛇は無関係ではないらしい。どころか、稲荷・ダキニ天(狐)と弁財天(蛇)は、同体であるとさえ述べている本もあるのを知った。
ところで、稲荷というのは、その信仰のほどを試すと言われる。
そのためかどうか知らないが、そこから数年間というものは、どん底に叩き落された。
「へっ、なにが稲荷だ。ろくでもねえや。」と言って捨ててしまえば、それまでだ。
実際、本音ベースでは「しょせんなあ、神仏なんてものは、当てにならんのよ。」とうそぶくことも多々あった。
が、不思議と、心の底では捨てなかった。
毎日ご先祖さまと同じく、手を合わせては、「ほんとにお願いしますよ」の拝み倒しを続けた。
そのうち、有る人から「具体的な願いを言うな」と怒られた。
言わずとも、まるっとお見通しだから、だという。
余計な願いをすると、かえって邪魔になると。
で、ありがとうございますだけを祈ることにした。
ここ数年、いろいろ「試されること」も多いが、自ら道を踏み外すようなことはしないように、多少は心がけてきたからか、なんだか空気の流れがよくなって来ているような気がする。
してみると、12年くらいは験が出るのに時間がかかるのかい、とも思ってしまうのだが。
まあ、ご先祖さまにしろ、自分が念持仏と思う本尊にしろ、とにかく恥ずかしい思いだけはさせてはならないとは思っている。
なかなかそうはいかないものだ。
日常、恥ずかしいことばかりしているといってもいいくらいだが、それでも致命的に彼らに恥をかかせることだけはしまいと、一応努力はしているつもりだ。
わたしの信仰なんて、そんなものである。
わたしが勝手に片思いしてきた稲荷という存在も、実際のところ稲荷でもなんでもないかもしれないのだ。
が、そこはそれ、神仏などというものは所詮「思い込みの所産」。
西行ではないが、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」だ。
特段霊感などがあるわけではないわたしだ。
これが精一杯と言ってもいい。
ちなみに、霊感が強い人というのは、パワーが弱いのだという。
人間というのは、みなそれぞれ特有のオーラに包まれているという。
見たことが無いからなんとも言えないが。
わかる人に言わせると、そのオーラは一種のバリアーのような効力を持っている。
そのバリアーが薄く、弱い人は、幽霊をよく見たり、取り憑かれてしまったり、霊障に禍されやすいというのだ。
わたしは、さしづめ、バリアーがよほど強いのだろう。
だから、わたしの片思いもバリアーが邪魔になって、なかなか稲荷に届かないのかもしれない。
言い方を変えれば、「業(ごう)が強い」ということであろうか。
やはり、どう考えてもわたしは俗物で、ろくでもないのだという結論になってしまう。
困ったものだ。