糸をたぐれば、江戸にたどりつく。

宗教・哲学, 歴史・戦史


これは102回目。そろそろ明治維新によって日本が近代化したなどという、紋切り型の皇国史観から卒業したほうが良いでしょう。日本はもっともっと以前から、しっかり自分の足で立っていたのです。

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さすがに今では、江戸時代というものが暗黒時代で、明治維新以降は文明開化の時代だなどという人は少なくなった。が、それでもまだ、19世紀後半から日本が見せた急成長というものが、明治維新の賜物だという一般通念というものが幅を利かせている。

が、これは間違いである。歴史はよほどのことがなければ、連続的に見なければならない。断絶ということは、まず無いのだ。

日本においては、明治維新以降の歴史こそが近代日本であるという肯定的な認識は、やはり見直されなければならない。なぜなら、アジアで唯一、驚くべき近代化を遂げた日本というものは、それまでの江戸時代という世界でもまれなほど成熟した社会・経済が成立していたからこそ実現したのだ。

明治政府によってなされたことのほとんどは、江戸時代がそのまま続いていたとしても、自ずと実現できた類のものばかりだといっても過言ではない。あまり、明治維新というものを、過大評価しないことだ。明治維新というものは、しょせん、武装階級同士の軍事クーデターに過ぎない、という認識のほうが、遥かに真実に近い解釈である。

維新を指して、「近代の夜明け」とかいったような表現は、まことに的を得ていない、歴史の捏造といってもよい。鞍馬天狗がいけないのだ。「杉作、日本の夜明けは近い」というあの一言が、日本人の思考を狂わせたのだ。

江戸時代なくして、明治以降の近代日本は誕生しえなかったのだ。ただの軍事クーデターを、あたかも明るい時代に日本を導いた素晴らしい革命だったのだなどと祀り上げないことだ。その意味では、司馬遼太郎という作家は非常によくない仕事をしたというしかない。

日本の現在の各分野における高い水準というものは、たかだか1868年の軍事クーデータ以降の、短い間に実現されたものなどではない。日本と言う世界は、そんな薄っぺらい文化ではないのだ。少なくとも江戸時代260年間という蓄積と爛熟が、維新以降の急ピッチな近代化を可能にしたと考えるべきである。そこが、明治日本が驚くべき近代化を成し遂げた一方で、まったく自力ではできなかった朝鮮・中国とは、決定的に違うのである。

歴史は常に連続的に進行する。明治維新が無くとも、幕政は変容を余儀なくされていたし、事実優秀な官僚群を背景にそれは始まっていたのである。無理やり謀略と挑発によって、薩長による軍事クーデターで、政権が交代させられたにすぎない。事実、攘夷(対外排撃論)の薩長革命派は、政権を奪取した瞬間に、開国論に手のひらを返している。幕政が目指していた開国・近代化路線は、政権が変わっても踏襲されたのだ。日本という国体の進化という点では、維新の前と後とで、実はなにも変わっていないのである。

まあ、そう堅い話ではなく、今日は、その江戸時代の市井の人々の生活に迫ってみよう。文化論や、高尚な史論を語るより以前に、知らないことが多すぎるからだ。基本的なことから、ちょっと江戸という時代をかいまみてみよう。

江戸といえば、刺身。刺身といえば、漁業なわけで、その象徴的なものが佃島(つくだじま)と、すぐ頭に思い浮かべることができる。

ところが、この佃島。もともと、徳川家康が江戸入りしたときに、漁業発展のために、わざわざ関西から村一つまるごと移住させたことに始まる。大量の武装集団を抱えていた江戸幕府であるから、米以外に重要な蛋白源も大量に必要とした。関西のどこから専業漁民を連れてきたか。

当時の摂津・佃村、現在の大阪市西淀川区佃町だ。当地の漁民をごっそり引き抜いて、現在の東京の佃島あたりに「移植」したのである。その名称も、大阪の故郷の名をそのままつけたことになる。つまり、江戸時代以降、東京の魚料理の原点は、実は大阪にあり、ということになる。家康は、彼らから漁獲を上納することを条件に、江戸湾における漁業権を与えたのだ。

つまり、東京の魚料理の文化というものは、江戸独自のものというよりは、大阪人によって創始されたものにすぎない。しょせん、東京中心の関東における文化というものは、大阪文化を「移植」するところから始まったわけだ。江戸というのは、そのスタート時点では、殺伐とした軍都にすぎなかった。

ではその後は、江戸人がそれを発展させていったのかというと、実はそうではない。またしても関西人なのである。寛永年間、1624年から1644年のことだ。大阪城陥落が、1615年であるから、その直後といってもよい。大坂の陣で焼け野原となった大阪を中心に、関西の漁民が大挙して江戸に下り、一旗揚げようとしたのである。そこで専業の魚問屋が成立し始めた。それが、日本橋の河岸(かし)=市場である。

魚市場の人たちの頭痛の種は、漁獲の徴収だ。役人が「御用! 御用!」といって、店を各個に査察し、毎日のように市場価格より破格の安い値段で、魚を取り上げていく慣習がずっと続いた。

問屋などは、いい魚を隠したいところだったが、なにしろ役人たちは漁船の出入りまでこまかく監督していたので、誤魔化しがきかなかった。タダ同然で召し上げられた漁獲が、どこへ行ったのかというと、江戸城である。

というのは、当時幕府は城に登城する武士たちに、昼食を出す習慣があったからだ。その役人たちの位によって、内容もことなるので、多種大量の魚介類を必要としたのだ。

あの時代劇にみる「御用!」という捕り物特有の掛け声は、なにも事件発生や取り締まりのときだけではない。実は、重要な食類である魚(蛋白源)を、ただ同然で漁民から収奪(よく言えば、上納させる)するときに、むしろ日常的に使われた掛け声なのである。

ちなみに、江戸の魚料理というと、どうしても江戸前寿司(鮨)ということになるのだが、実は非常にこの鮨というのは歴史が浅いのである。鮨といったら、江戸でも押し鮨と決まっていた。

イワシやコハダを使ったものだが、当然この押し鮨も上方から入ってきて江戸で流行したものだ。それが、いつからいわゆる我々が知っている鮨になったのかというと、文政年間、つまり1818年から1830年である。明治維新まで、あと40-50年というときにやっと登場したのだ。

華屋与兵衛(外食チェーンの名前に使われているのでご存知だろう)が開発したものだと言われている。酢飯を小さくかためて、熊笹で巻いて軽く押してつくる「笹鮨」をヒントに作ったらしい。これが、あっというまに江戸中に広まった。稲荷寿司の登場は、やや遅れて1830-1840年である。これが、ファーストフードの走りの中では、金字塔を打ち立てる大ヒットとなっていった。

魚ときたら、野菜だが、これも大市場が江戸には三つあった。神田、千住、駒込である。野菜(青物)市場のことを、「やっちゃ場」と呼ぶが、これはどうも市場の競り(せり)で使われた掛け声の「ヤッチャー!」というのがもともとの呼び名の発祥らしい。

さてさて食い物となると、出るものもある。糞尿だ。これがまた江戸時代というのは面白い。なんといっても野菜などの栽培には、肥料が欠かせない。通常は、米ぬかや灰、あるいは菜種カス、イワシを干して絞った脂が使われたが、やはり江戸町民の下肥(糞尿)は、もっとも良質の肥料だった。

下肥は、江戸中期ごろまでは無料、あるいは、若干の野菜を渡すことで手に入ったのだが、中期以降は下肥をくみ取る権利が売買されるようになった。言わば「うんこの証券化」である。

江戸後期にはこれが高騰。武蔵・下総(現在の東京・埼玉・千葉)の1016ヶ村が合同して、下肥値下げ運動が勃発。値下げが成功したので、その後も幕末まで、値下げ運動は非常に頻発した。

当然、良質の、そして種類の多い食生活をしていた高級武士や大店(おおだな)の下肥は、高価で取引されていた。

こうして江戸というものを調べていくと、意外な事実がどんどん出てくるから面白い。それだけわれわれが江戸時代のことを知らないということなのだろう。

風呂などもそうだ。江戸時代の銭湯といったら、混浴だったということくらいしか一般的には知られていない。そもそも風呂と言う言葉は、上方の言葉であり、江戸では「湯屋(ゆや)」と呼んでいた。

以前も江戸庶民の婚姻事情(圧倒的に女が優位に立っていた。)や、食生活など、この閑話休題でも取り上げたことがあるので、およそご存知だろうが、江戸庶民はとにかくよく風呂に入った。

少なくとも、朝夕二回は入っている。通常は4-5回だったようだ。その意味では非常に清潔な人種だったということになる。それは江戸が、関東特有の強風地帯であり、砂埃が舞いやすく、一方では湿気が強いという風土でもあったから、風呂が欠かせなかったらしい。

あんまり風呂に入るので、江戸庶民の肌は乾燥肌だったと言われている。それを彼らは「垢ぬける(アカぬける)」などといって、いきがったそうだ。

だいたい、銭湯の入浴料金は、大人8文(現在価値にして、約120円)、子供6文(約90円)といったところ。屋台の蕎麦一杯の値段の半分だ。ということは、現在の銭湯が460円として、かなり割安だったということになる。

なにしろ人口百万都市であり(当時百万というと、ロンドンと北京しかなかった)、なおかつ一日のうちにも頻繁に入浴するので、需要過多。料金も安かったのかもしれない。なんと、風呂好きにはうれしいことに、「羽書(はがき)」というフリーパスもあった。一ヶ月148文( 2200円)で、何度でも入浴することができたそうな。

この風呂には独特のマナーがあった。それは、湯船にはいるときに、必ず言わなければならない「挨拶」である。たとえば、・・・

「ごめんなさい」
「冷えもんでござい(体が冷たくてごめんなさい)」
「枝がさわります(手足が触れたらごめんなさい)」
「田舎者でござい(不調法があったらごめんなさい)」

これは、どんな高級武士であろうと、町民だろうと、やくざものであろうと、また深窓の令嬢であろうと、厳に守られたマナーだったそうだ。

混浴という点だが、これは江戸に限らず銭湯は全国的にそうだった。1791年(寛政3)の「寛政の改革」をはじめ、何度か「風紀が乱れる」という理由から混浴禁止令も出されたが、男湯・女湯に分けるのは経済的に難しいなどの理由により定着せず。

明治新政府の厳重な取り締まりにより絶滅するまで、禁止されては復活するを繰り返し、のらりくらりと混浴時代が続いた。

江戸初期は、湯女(ゆな)といって、体を流してくれる専業の職業があったが、同時に性的サービスが行われていた。もともと江戸というのは、妙齢の女性はかたっぱしから大店や武家屋敷に、奉公人として確保されてしまっていたので、男女人口バランスが見事にアンバランスであった。(それが、遊郭や岡場所が発生してくる最大の要因であった)

だから、女は強かった。結婚したくてもできない男が江戸じゅうにあぶれていたのだ。湯女というのは、その需要を満たしたので(しかも安い。いわゆるチョンの間である)、吉原などをしのぐ一大歓楽場としてにぎわった。ただ、1703年(元禄16年)の大地震以降は、下火になり、後はずっと湯女がいない銭湯になっていったようだ。

混浴だから、間違いなどは起きなかったのだろか、と当然、現代のわれわれは余計な心配をしたりするものだが、あまり問題はなかったようだ。というのも、風呂には、いわゆる世話焼き婆あなどが牢名主のように踏ん張っており、一般のおかみさんにしてもしかりで、ちんぴらや不埒者(ふらちもの)が若い娘にちょっかいなどだそうものなら、年増の女たちが寄ってたかって桶でぶん殴るわ、引っぱたくわ、怒鳴りつけるわで、さんざんな目に遭ったらしい。

ということで、意外に銭湯は混浴にして、なお健全であったというのがどうも実態らしい。おばさんパワーは、やはりいつの世にあっても、恐るべしである。

さて、どちらかというと些末な(しかし、もっとも重要で基本的な)江戸の風景の一端をかいまみたわけだが、もうちょっと大所高所の話をしておこう。

江戸時代というと、いわゆるバテレン禁止令というものがあり、キリスト教は国禁とされていたという認識だろう。これは、間違いである。この間違いというものは、そのまま江戸時代=鎖国という勘違いを引き起こしており、鎖国時代=発展の阻害=暗黒時代という結論で、現代人は思い込んでいる。その延長上に、明治維新による開国=文明開化=近代化、という歴史観が厳然として存在しているわけだ。とんだ誤解である。

そもそも徳川幕府は鎖国などしていない。つまり、教科書はことごとく誤った教え方をしているということになる。平戸や長崎に対外通商のすべてを集約していただけであり、当然ながらそうした管理が必要だったのである。なぜか。それは、欧州に問題があったのだ。

戦国時代末期、豊臣秀吉の時代に最初のバテレン追放令が出て、政権を継承した形の徳川幕府でも、段階的に禁止令へと発展していった。しかし、それはカトリックに限っての話なのだ。

一切の入国、通商などを禁じたのは、ローマン・カトリックとその一派だけである。プロテスタントはその対象外であった。教義に問題ありとしたのではない。カトリック教国による、布教とその政治利用を日本は忌避したのである。政治的理由だ。

プロテスタントとカトリックの、当時の決定的な違い(日本などのような、非欧州地域にとってみれば)は、布教活動の有無である。

カトリックは布教をする。その布教とは、イコール征服である。プロテスタントは、その教義において、カトリックと大きな違いを持っており、それは、天国に行ける人と、いけない人は、はじめから決まっているという予定説なのだ。

プロテスタントは非欧州人などは、最初から天国にいけないことが決まっている野蛮人であるという認識を持っていた。だから、布教しない。無駄だと思うからだ。布教によって、価値観を同化させ、その力を利用してその国を乗っ取るなどといった征服の意図が無かったのである。求めるのは通商=金儲けだけだったのだ。

ところがカトリックは違う。布教は可能であり、何人もキリスト教徒に改宗することができるという教義であり、それはそのまま征服し、同化させ、隷属させ、富を収奪することにつながっていた。

秀吉も家康もこれを忌避したのである。幸いなことに、当時戦国時代を終えていた日本は、総兵力からも、兵卒の練度からも(なにしろ百年間、国民皆兵状態の戦国時代を経ていたのだ)、そして世界最大の鉄砲生産国・保有国であったという観点からも、金や銀の産出量とその交易量からいっても(日本の金銀市況で、欧州の相場が揺れることが常態だった)、世界最強の軍事・資源国家であったから、日本の征服などはまったく可能性が無かったのだ。

その後、世界は欧州によってほぼ完全に征服され、分割されたが、この日本と、英仏植民地の緩衝地帯だったことが幸いしたタイだけが、独立を維持し続けたのである。

とはいえ、カトリックは非常に危険な相手であった。しかもカトリック側と年がら年中戦争をしていたプロテスタント側にもくみすることは危険であった。どちらかにつくということは、一方を敵に回すという事だからだ。

集団的自衛権の行使をするにも、欧州はあまりに遠く( 2-3年の航海を要した)、カトリック教国と戦闘状態になったとして、プロテスタント教国に援軍を求めることは土台無理だったのだ。間に合わない。そこで徳川幕府がとった政策は、「武装中立」だったのである。ここを勘違いするとえらいことになる。鎖国ではないのだ。

中立というとその理想は、よく「非武装中立」ということを言う人が言うが、それは歴史を知らない人の妄言である。いまだかつて、非武装中立を全うした国は一つもない。スイスなどは、武装中立である。歴史上、欧州各国の王朝政府は、つねに、スイスの優秀な傭兵軍団を雇って、戦争を繰り返していたのである。今ではスイスは、国民皆兵ですらある。

武装なくして、中立は確保できないというのが、徳川幕府の定見であり、きわめて正確な国際情勢の認識だったのだ。

ただ、布教の意図がまったくないプロテスタント諸国、たとえばオランダなどとは、長崎で、延々と通商を続けており、徳川幕府はそれを天領として直轄支配し、暴利をむさぼったというのが実態である。もちろん、朝鮮・中国とも交易がおこなわれていた。

だから、鎖国などということは、そもそも徳川幕府のあらゆる文書中にも一言もでてこないし、事実鎖国ではなかったのである。

この徳川260年の、武装中立による絶対平和の期間、日本は世界でもまれにみる爛熟した絢爛豪華な文化を醸成していく。市場(米相場)も、その相場理論(罫線理論、ロウソク足)もすでに江戸時代にその原型ができていた。ロウソク足などは、ダウがアメリカで発明する百年以上前に日本に存在していたのだ。また驚くべきことに数学の進歩も著しかった。

『スーパーコンピューター京』というのがある。1秒間に10,000,000,000,000,000回もの高速計算が可能なスパコン京の頭脳には、江戸時代の和算学者・関孝和が関係している。スパコンの計算効率をアップさせる計算方法の原点には、関孝和が生み出した定理が含まれているのだ。

江戸時代が暗黒であり、明治維新で初めて日本が近代化できたなどという世迷い事はそろそろ捨てたほうがよい。歴史に、突然変異などということは無いのだ。すでに日本は江戸幕府のスタート時点で、開国をしており、近代は始まっていたのである。しかもその国際政治感覚は、抜群に正確にして合理的なものだった。

考えてみるがよい。明治維新以降の日本は、10年おきに戦争を繰り返し、最終的には全土が焦土と化すという過ちを犯している。維新から1945年の敗戦まで、わずか77年間に、日清・日露・第一次大戦・シベリア出兵・満州事変・ノモンハン事変・日中戦争・第二次大戦と、8つの戦争を繰り返してきたのだ。

帝国主義の時代にあって、生き残るための必死の戦いが、いつしか迷走、暴走へとかじ取りを間違い、自身を見失い、民族滅亡の瀬戸際まで追い詰めてしまった。

それに対して、江戸時代260年間、日本は史上空前のリサイクル社会を謳歌し、世界最強の軍事力を背景に徹底した武装中立を貫き、絶対平和を実現した。どちらが暗黒で、どちらが賢い国家運営であったか、言うまでも無い。そろそろ明治維新の「偉業」やその後の「近代化」の絶対肯定的な歴史観から日本人も脱却したほうが良い。