幸せはどこにあるのか?
これは、480回目。
人間の幸せとは畢竟なんだろうか?
一般的には、著名人の名言などにそれを求めたり、あるいは手軽に答えが見つかりそうな宗教の世界をのぞいてみたりするだろう。
本を読んで、自分で考える人もいるかもしれないし、経験からだけ自分の信条を得る人もいるかもしれない。
行く道はさまざまで良いのだ。
仮にここでは、仏教の例を取ってみるが、宗派によって幸せへのアプローチは異なる。
たとえば、浄土系が日本の仏教では一番多数派なので、浄土宗と浄土真宗を引き合いに出してみよう。
仏教の幸せとは、結局のところ悟りを得る、悟りを開くことに行き着く。
浄土宗では、生きているうちには絶対に悟りは得られないと考える。悟りを開くには修行が必要だが、生きている間は修行などないからだ。
死んではじめて、修行ができ、悟りに到達する。これを成仏という。
死んで、修行できるようになることを、往生するというわけだが、往生できるように、仏(浄土宗の場合、阿弥陀如来)を信じ、念仏を唱え続けよ、というわけだ。
言い方を変えれば、人間は死んではじめて救われるのだというわけだ。
浄土宗から枝分かれした浄土真宗も、やはり徹頭徹尾、仏(やはり阿弥陀如来である)の力一つにかかっている。
しかし、浄土真宗は、生きていようが、死んだ後だろうが、修行などないという立場といっても過言ではない。
願っても、願わなくても救われる、という考えだ。
ただひたすら、阿弥陀如来の力にすがるのだ、という考えだ。
これに対して、密教、典型的なのは真言宗だが、浄土系とは真逆の発想をする。
今、生きているこの身このままで、成仏できると考える。
つまり、今、幸せになれる。
今、悟りを開くことができる、といいきるのだ。
それが、即身成仏という概念だ。
ほかの宗派もそれぞれに、違うアプローチを提示しているが、同じ仏教でも、たった浄土系と密教系を比べただけでも、これだけ違う。
これに著名人の名言や多くの人の経験談、膨大な哲学書など、きりがない。
どれをとってもよいのだ。
自分が歩きやすいと思う道を行けばよい。
しかし、実は答えは簡単なところにある。
人間の幸せとは、おそらく自分が「成功した」と思えることだろう。
それは、事業に成功して富裕になることができた、という場合の「成功」とはまったく意味が異なる。
ここで言う「成功」とは、その人の「本質」にとって「幸せ」であるということだ
本質とは、「魂のレベル」において、幸せということだ。
事業を一生懸命にやり、富裕になることができたとしよう。
それでもまったく幸せでは無い人がいる。
どういう場合だろうか?
人々から、好かれない、むしろ嫌われるという場合だ。
これは不幸なことだ。
どんなに富裕になっても、幸せとは言えない。
人から、尊ばれて、愛されて、好かれて、感謝されて、はじめて幸せなのだ。
事業の成功・不成功とはまったく次元が違う。
そういう人は、物質的に豊かな生活を送ることが無かったとしても、きっと幸せだろうし、どのような窮地にも必ず人々が救いの手を差し伸べるから、絶体絶命のピンチにも救われることが多いはずだ。
ときには、人々から親しまれることで、結果、気がついたら事業に成功する人もでてくるだろう。
おそらく、人間の幸せとは実は非常に簡単なことなのだ。
そんな偉人や聖人でもなければ幸せになれないというのであれば、この世界にわれわれ凡夫が生まれてくることもないはずだ。
きっと答えは、すぐそこにある。
ただ、気づかないだけだ。