がらぽん

宗教・哲学, 政治・経済, 歴史・戦史

これは469回目。
科学の功罪の話だ。
言い古されて久しい話題だ。

科学はかなり正確かもしれないが、残念ながら寛大ではない。

確かに科学の進歩によって、文明は人間の幸福をどんどん実現してきた。
原始、わたしたちの祖先たちは飢餓と、労働の過重負担から少しずつだが劇的に改善してきた。

冷蔵庫、エアコン、蒸気機関に始まる動力の進歩、抗生物質の誕生、通信手段の奇蹟のような発展・・・
それによって、どれだけの人類が幸福感を味わうことができただろう。

しかし、同時に新鮮で自然に近い食生活が失われ、無用に寿命が延び、不必要なほど多忙になり、永遠の生命をすら望み始めている。

原発事故が起これば、その被害は致命的だ。

これだけ科学が進歩したのに、いやしたからこそ、殺し合いは止むどころか、むしろかつての戦争とは比較にならないほど効率的で酷い様相を呈してきた。

科学技術の進歩と、人間の幸福は当初は平行的に増大してきたかもしれないが、次第に両者が実は本質的に相容れないものであるということが、次第に露呈していった。

科学技術の進歩は「いまや功罪相半ばしている」と言われた時代もあったが、もしかするとすでに臨界点を超えているのかもしれない。
つまり、「罪」のほうが、その効用を遙かに凌いでしまっているのかもしれないのだ。

わたしたちは前に進むことばかり考えてきたが、もしかすると、引き返す勇気や選択を迫られているかもしれない。

グラハム・ベルが電話機を発明してから14年後の1890年(明治23年)に、日本初となる東京〜横浜間での電話サービスが開始された。
明治23年といえば、第一回目となる衆議院の総選挙や帝国議会が開かれるなど、日本が近代化に向けて本格的に動き出した年だ。

当初の加入数は、東京で155世帯、横浜で42世帯のわずか197世帯。
開局当時の電話代は、明治30年頃、月額40円。
現代に換算すると約3800倍。つまり月額15万円。
東京市内の通話は月額料金を払えば無料だったが、東京から横浜の通話(市外電話)には、5分で15銭(現代に換算すると2250円相当)だった。
今では、ネット経由なら事実上無料といってもいい。
驚くべき「進歩」だ。

しかし、それでわたしたちは、電話にしろメールにしろ、日々追い立てられる不毛にして慌ただしい生活を強いられている。
昔はなかなか会うことさえ困難であったから、どう話を伝えるか、あるいは手紙でどう伝えるか、熟慮をするプロセスが必ず存在したものだが、今はまさに口からついてでたまま、思いのままメールで相手に投げつける無作法がまかり通るようになった。
それは人と人との距離を著しくゼロにした効率性や利便性をもたらしたが、同時に人間関係を破壊することは数知れなくなってきた。

薬学にいたっては、クローンという新たな技術が、人間存在そのものに重大な警鐘を鳴らしている。
しかし科学は止まらない。
見えないところで、『バイオハザード』のようなおぞましい現実がすでに存在していることは間違いない。

科学者の倫理が問われる時代に入ったという人もいる。
が、無駄である。
なぜなら、科学の進歩と反比例してその地位が地崩れを起こしたのは、人間の倫理の大前提となっていた宗教が、もはや形骸化しているからである。

信仰を持ち出すと、否定こそされないが、裏では失笑を買うのがオチだ。

なぜか、そこには科学技術の進歩によって、膨大な富を得ることができる仕組みが世の中に存在するためである。
それによって、手段であるはずのマネーという利益が、人間の幸福と同義語に近くなってしまったからだ。
それを自動制御していたのが、宗教であり信仰による「倫理」というフィルターだったが、このフィルターはすでに「殿堂入り」してしまい、社会的な影響力は地に落ちてしまっている。

資本主義が悪い、ということではない。
共産主義でも同じことだ。
富を少数者が分配する仕組みとしては、資本主義も共産主義も同じだ。
そこに競争があるか、ないかの違いだけである。
分配優位者を競争で決めるか、それとも一方的なドグマ(独善)によって強制的に決めるかの違いにすぎないのだ。

つまり、通貨経済が人間を考え違いに陥れてしまう悪弊が蔓延しているのである。
では、通貨をなくせば、この病理は解消するか?

しないのである。
貨幣経済の代わりに、より周到な利益収奪システムとして、いまや仮想通貨・暗号資産という概念が台頭してきているのをみればわかる。
人類は都合良く、現在の問題の解決のために、新たな「仕組み」を模索してしまうのだ。

結局人間は、これまでもそうであったように、都度「ガラポン」しなければリセットできないようだ。
リセットしたところで、新たな過ちを再び犯していくことになるのだろうが、ふと「来し方を振り返り、少しでも人間存在の慢心を戒める機会」にはなる。
破滅への道を、多少なりとも「遅らせる」ことは可能なのだろう。

わたしたちが科学を捨てることがない以上、人類規模の「ガラポン」は今後も繰り返されることになるだろう。
これは、わたしたちの原罪である。

わたしが生きているうちに、次の「ガラポン」など見ないで済むだろうか?