統計を見ると気が滅入る

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これは400回目。

統計を見ていると、びっくりすることが多いです。そして、現実というものに心が重たくなるのです。

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ちょっと古いが、2008年の統計がある。東京都内で司法解剖された変死者数は、1万3000人である。これだけでもびっくりだ。この半分強が屋内で亡くなっている。この数値がその後極端に変動してないような気がするが、実際のところどうなんだろうか。

もちろん、孤独死も多いはずだ。しかし別の統計では、人口100万人に対して、年間18.6人ということだそうだから、東京の人口1335万人から換算すると、孤独死者数の平均はざっくり年間248人ということになる。

先述の変死者数1万3000人の半分ちょうど6500人として、この248人の孤独死者を差し引いても、6252人の屋内変死者がいることになる。これは、ものすごい数だと思わないだろうか。

つまり、賃貸不動産を所有している人、あるいは借り受けている人には言いにくいことだが、東京では年間6252件の瑕疵物件が毎年発生しているということでもある。もしかしたら、そこらじゅう幽霊だらけだ。

数年前も、我が家の隣のマンションの一室で、男性老人が変死していた。夜までずっと電話が鳴りっぱなし(一度も止まらないのだ)で、当初は不在かと思ったが、その親族が飛び込んできて、「おじいさんと連絡が取れない」というので、一緒にドアを開けて入ったところ、亡くなっていたのだ。

不幸にして、飛び込んだわたしが第一発見者になってしまったので、エライ目にあった。救急に連絡するわ、その指示に従って遺体を触ったりして確認させられるわ。完全に硬直していた。その後は警察だ。

と思いきや、メディアやネットの発達で、ことさら以上に過剰なイメージを抱いているという側面もある。凶暴にして、酷薄な殺人事件がものすごく多いように思いがちだが、以前も書いたように、実はそうして目を覆う重大殺人犯罪は、劇的に減少しているのだ。それも、統計という事実のデータがはっきり示している。

たとえば、2015年の数字がここにあったのだが、1年間に全国の警察が認知した刑法犯は、前年比11万3115件(9.3%)減の109万9048件。これは戦後最少記録だ。その後も、さして増えていないのではないか。減っているかもしれない。

このときの警察庁のまとめでは、減少は13年連続だということだった。「治安の危機的状況」と言われたピーク時の2002年の38.5%に過ぎない。石川県を除く46都道府県で前年を下回ったのだ。大半の罪種で減少し、殺人や窃盗は過去最少となった。

警察によるパトロールの強化や、地域の防犯活動の活発化、とくに大きかったと言われているのが防犯カメラの増設だ。これで「警戒の目」が密になったことが大きいと分析されいる。もっとも、件数は減っているのだが、検挙率のほうもどんどん下がっているのが問題なのだ。

殺人は未遂も含め11.5%減の933件となり、1000件を下回るのは13年以来2回目。このほか強盗や強姦(ごうかん)、強制猥褻など重要犯罪の全てで減少した。もちろん2015年の統計だから、それから5年経過しているので、現在どうなのかはチェックしていないのでわからない。が、さほど大きな変化があったとも思えない。

前にも書いたことだが、確かにわたしの子供の頃、つまり昭和30年代といえば、都会ですら、空き地が多く、野原さえあり、電灯などまばらであった。バラックや廃屋なども数多残っており、夜ともなればそこかしこに「闇」が広がっていた。いまのように、真っ暗な空間を探すことのほうが難しいのとは、えらい違いだ。当然、犯罪も昔のほうが、やりやすかった。

今のように、必ず鍵をかけるなどということも、かなりずさんで、わたしの横浜の実家でも、夏など雨戸はおろか、縁側向きは全開のまま寝ていたものだ。

終戦直後の昭和20年代から30年代といえば、年間殺人件数は毎年3000人をくだらなかった。つまり、この70年間で、3分の1に激減したことになる。これも、統計が教えてくれる「事実」だ。日本の治安はけしてわるくなっていない。どころか劇的に改善しているというのが事実だ。

もちろん総人口対比で考えれば違うだろう、という意見も出てくるだろうが、それでも減っているのだ。終戦後、復員者が戻ってきて、日本の総人口は8200万人。現在1億2000万人であるから、人口増加は46%だ。しかし先述通り、殺人件数は3分の1である。明らかに「減っている」のだ。この間、外人居住者は飛躍的に伸びているにも「かかわらず」である。

やはり、日本人が全体的に、戦争という異状事態から遠いところに生きてきたことによって、「優しく」なってきたのであろうか。しかし、その反面、そうとも言えない別の統計もあるのだ。

なんと、幼児に対する家庭内暴力による死亡・負傷事件は、ここ15年で、なんと6倍近くに増大しているという事実がある。つまり、日本人が粗暴から穏和になってきた一方で、その心の悪は非常に陰湿になってきているということだ。

つい先年も、2m近い大男が、3歳児を1時間にわたって、殴る蹴る投げ飛ばすなどして殺害してしまったような目を覆う事件が起きた。母親が以前つきあっていた男だそうだが、実はこうしたパターンは結構ある。

なんとも痛ましい。社会の最弱者である幼児が、ゴミのように殺されていっているわけだ。世の中では「命の尊さ」という表現をつかうが、私に言わせれば、「畏(おそ)れ」を失ったとしか思えない。なにものかを「畏れる」気持ちを失った人間は、もはや人間ではない。動物でさえ、畏れるのだ。いや、人間だからこそ、ときに「畏れを」忘れてしまうくらい下等なのかもしれない。

一般庶民の生活がデフレ経済で悪化しているというのは、理由にならない。昭和30年代は、明らかにそこに絶対的貧困が存在していたのだ。比較になどならない。

強いて経済的要因に求めるならば、当時の社会は明らかに「上向き」だったが、この15年というもの、一貫して「下向き」だったということだ。毎日、朝起きれば一日一日世の中がどんどん豊かになっていくという幻想を抱けていた時代と、明るい明日のイメージがまったく抱けなかったこの15年では、人間に与える影響がもしかしたら、本当に大きいのかもしれない。

0-17歳の孤児の人数は、統計上は世界全体で合計1億4340万人。日本の総人口より多いではないか。インドと中国で全体の約38パーセントを占めている。 一日に約392人の子供が孤児となり、 一時間に約16人の子供が孤児になっていることになる。一体人間の世の中というのはどうなっているのだろうか。

これもちょっと古いだが、日本では2008年の統計では、孤児の施設数 570、 在所児 28,188名、従事者数 15,477名。入所児童の平均年齢は10.6歳ということだ。

近年は純然たる「孤児」というより、資金的に養育できないが、子供を手放すつもりはない、ということで、「預けられている」ケースが増えているようだ。これも時代の流れなのだろうか。

仮に、約2万8000人を「孤児」だとして、日本人がみなわたしのようなつもりになれば、日本の5400万全世帯として、1世帯がたった1人の孤児の里親になれば、統計上は一瞬で孤児がなくなる勘定だ。

こういう計算がばかばかしいことは百も承知。数字で人間を測ること事態が問題だというのもわかる。

数字上はいとも簡単なはずだが、現実に2万8000人の孤児が存在するということが問題なのだ。確かに、子供1人を育て上げるのは、資金的にも大きな負担であることはわかる。

ものの試算によれば、出産から大学卒業までとして、最も安価なコースをたどったとしても、1人あたり2900万円の資金が必要だというのであるから、たまらない。

施設では、県立のような場合、乳児から子供時代のすべてを計算した場合、なんと平均1億422万円のコストがかかっているそうだ。このうち、人件費が8350万円である。差し引き、すべてが子供に直接使われたとしても、2072万円だ。民間施設の場合は、コストは1人当たり5046万円。このうち、人件費が3433万円であるから、子供が直接享受しているのは1613万円でしかない。

もちろん、親のない子供にとっては、安心して夜寝ることができる空間、最悪の事態に際して、守ってくれる人たちが周囲にいるという空間、なにも心配することなく、三食にありつくことができるという空間、そうした絶対的必要空間の存在は、なにものにも代え難い。

その上で、人間やはり教育がすべてであり、その反面で「遊び」の部分も豊かであることもきわめて重要だ。そして、なにより、チャンスを掴むことができる環境だろう。

人間に絶対的に必要なものを一つ挙げよと言われたら、あなたは何だと答えるだろうか。水だ、食べ物だというハードはここでは除外しておこう。

わたしは、チャンスだと思っている。とくに子供はそうだ。人間、チャンスが与えられないことくらい悔しいことはない。

サン=テグジュペリの言葉を引用したことがあると思うが、ここでもう一度書いておこう。

『死に逝くときに、かけがえのないものを、この世の中に残していくことができるとは、なんて幸せなんだろう』。

わたしはそれを、希望と名付けた。



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