隷属への道

政治・経済

これは453回目。

わたしたちは多くのことを忘れながら生きている。
思い出せば、解ける謎もあるかもしれないのだが、なるべく思い出さないようにしているフシすらある。

ニュースというものは、どんどん流れていくから、かなり衝撃的なものでも、あるていど時間がたつとわたしたちの興味の対象からだんだん外れていく。

思えば、時代が進むにつれて、言ってはいけないこと、書いてはいけないこと、見せてはいけないことなど、さまざまな禁止事項が増えた。
近年はとくにそうだ。
思えば、ネット社会が浸透していくにつれて、その傾向は強まっているような気がする。

ネットという世界は圧倒的な自由が、その真骨頂であったはずだ。

たしかに、匿名性が生み出す誹謗中傷や、あらぬ誤解、嘘八百を拡散する迷惑など、副産物も問題視された。

しかし、だからといって自由が束縛されたのでは、意味がない。

ネットによって、飛躍的に利便性は進歩した。
人間の選択肢も驚くべき広がりを見せた。

人類は、劇的な自由を得た。

誰もがそう思った。

ところが、現実はどうだろうか。
支配的な階層にとって都合の悪いことは、検閲され、削除され、封殺され始めている。
現に、世界の先頭を走っているアメリカの大手メディアや、SNSの非道を見れば一目瞭然である。
彼らと、人民日報や新華社、スターリン時代のイズヴェスチヤ、ヒトラー政権下におけるゲッペルス宣伝相の大本営発表と、なにも変わらないことに気づく。

そんな名前だけリベラルという理想主義の偽装をし、正体そのものは実はただの既得権者として世界の利益を分割享受しようとする連中に、わたしたちは騙されてはいけない。

リベラルにせよ、共産主義者にせよ、ファシズムにせよ、独善的な政治思想というものは常に、国民に最低限の安全と幸福の「おこぼれ」を与えることで、すべての異議や反論を封殺する。

国民は、この安全の保証と、個人の自由のバランスの中で統制され、反抗する意欲すら失う。

かつて、ベンジャミン・フランクリンは言った。

「僅かな一時的な安全を手に入れるために、根本的な自由を放棄する人は、自由と安全の両者をもつに値しない」

今、それが西側諸国の国民は問われている。

自由というものが、物理的犠牲を払う覚悟がなければ、得られないのだということを、わたしたちに思い出させる名言である。

日本では、とりわけ、親たちがこどもに、公務員や大企業に入れと勧めてきた。
戦後ずっとそうだった。

近年それは崩れかけたかと思ったら、今度は自由が欲しいというのは名ばかりで、要するにただ私的な趣味的世界への逃避行動へと、自由の価値が堕落した。

自由の消滅である。

19世紀、ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、今、「自由が死んでしまった」のだ。

自由とはなにかを、人々は忘れてしまったのかもしれない。
それを勝ち取るのに、どれだけの血が流されてきたかは、遠い歴史書の中にセピア色と化してしまった。

フリーターやニートと呼ばれる人たちは、ある意味、終身奴隷労働が当たり前の社会主義国・日本にあって、はじめてその欺瞞に気づいた階層かもしれないと思ったこともある。
が、しょせん彼らも、ただの意気地なしでしかないことを、今、自分たち自身、身にしみているだろう。

ハイエクは、『隷属への道』の中で、こう書いている。

「特権の与えられている人の数が増え、彼らの社会的保証と、それ以外の人たちとの差が大きくなるに従って、新しい社会価値体系が次第に生まれてくる。社会的地位や身分を与えるものは、もはや独立ではなく、保障である。青年に結婚の適格性を与えるものは、彼らの有為性ではなく、ただ相応の権力と年金を受け取る資格にすぎない。」

そうなのだ。
今、西側諸国の国民は、経済的保障がなければ、自由は「持つに値しない」ものだと感じ始めている。
そして、その保障のために、喜んでかけがえのない自由を犠牲に供するようになりつつある。
日本などは、その意味では典型的な自発的な社会主義性を見事にそなえた国民だとも言える。

アメリカでは、半分の人間がこの病理に冒されている。
が、しかし、残りの半分は不正を訴え、絶対自由を手放すまいと立ち上がっている。

日本では、後者の部類はほとんどいないかもしれない。

自由は、失ったときにはじめてその価値がわかるというが、日本人は失ってもそれを不幸なことだとは感じないのかもしれない。
それほど、国家権力や既得権者たちにとって扱いやすい国民もほかにはなかろう。

それでいいのか?



政治・経済