それは、少年の心に最初に火をつけた。

雑話

これは470回目。
幼少期に読んだとおもわれる懐かしい絵本の世界だ。
まだ言葉が不確かな時分、絵を目で追い、親に読んでもらっていた「はず」なのだが、わたしの場合、とんと記憶がない。

ネットで調べてみた。
しかし、どの年代別でみても、小学校に上がる前に読んでいたとされる懐かしい絵本のリストを見ても、ほとんど覚えがない。
復刻版の「ちびくろサンボ」が入っていたが、せいぜいこのくらいである。
ただ、まったくイメージが思い起こされないのだ。
存在は知っていたと思うが、おそらくわたしは目を通していないのだろう。

どこをどう探してもまずないので、小学校1ー2年生くらいの時分にずらして思い起こしてみると、唯一人生の中で、絵本(に近い)ものがすぐ頭に浮かぶ。
「少年ケニヤ」だ。

もともとこれは東京中心に紙芝居だったものらしい。
紙芝居そのものはよく幼稚園の頃に、路上で見た記憶はあるが、「少年ケニヤ」ではなかったと思う。明らかにわたしは絵と文章おりまぜたものを読んだのだ。というより、熱狂して読んでいた記憶がある。

記憶に非常に鮮明に残っているのは、床屋においてある「少年ケニヤ」に首っ引きだったから、その光景を覚えているのだ。だから、毎月床屋に行くのが楽しみだった。
帰りに、口いっぱいの大きなミカン色のガム一個くれたのも懐かしい。

「少年ケニヤ」は、いわゆる元祖・絵物語の山川惣治の原作。
戦後まもなく、街頭紙芝居『少年王者』で東京近郊の子どもたちを夢中にさせた山川は、1947年に紙芝居を絵物語化した単行本『少年王者』を集英社から描き下ろした。
これがベストセラーになった。

そして「少年ケニヤ」は、彼が人気絶頂の1951年から55年にかけて『産業経済(産経)新聞』に連載したのだ。
当時産経新聞、もともと大阪新聞という地方紙で、産経新聞に改題して、東京へ進出する際の目玉連載にするため、山川に新作を依頼したものだった。

ストーリーはこんな具合だ。
舞台は太平洋戦争中のアフリカ大陸。
1941年11月半ば。ケニヤの東海岸にあるモンバサで貿易商を営んでいた村上大助は、現地で生まれて10歳になったばかりの息子・ワタルとともに商談のために内陸の街・ナイロビに向かった。

しかし、現地で村上はたいへんなニュースを耳にする。日本がアメリカとイギリスに宣戦布告したというのだ。当時のケニヤはイギリス領だった。イギリスの役人の捕虜にされることを恐れた親子は、ジャングルの奥に逃げ込む。そして、離ればなれになってしまった。

熱病に冒されたマサイの大酋長・ゼダの命を救ったワタルは、ゼダの助けを借りて父親を捜す旅を続けることになった。
旅の途中で大蛇のダーナや巨象のナンターとも友達になったワタルは、さまざまな困難を乗り越えながら旅を続ける。

3年近い歳月を経てたころ、ワタルは原住民のポラ族にさらわれ「神の使い」として幽閉されていたイギリス人の少女・ケート(かなり性格はツンデレで、わたしは幼心にもぽ~っとなったものだ)を救い出し、両親を捜す仲間に加わることになった。

一方、ワタルの父も、何度も命を落としそうになりながら、息子を捜してジャングルをさまよっていた。果たして、親子は再会できるのか? そして、ふるさと日本に帰ることはできるのか?

(余談:最近知った話だが、当時、新聞連載中、大蛇のダーナが登場する日には、株式相場が上がるということで、これまた空前の産経新聞購読者数が増えたということだ。)

・・・

時代的には、太平洋戦争で敗れた日本が、サンフランシスコ条約に調印(発効は1952年)し、ようやく占領から解放され、戦後から高度成長時代へと向かおうとしていた時期だったのだ。

アフリカのサバンナの描写もリアルだが、山川自身はアフリカに行ったことがないと言う。すべて資料と空想をもとに描いたものだ。
それにもかかわらず、動物たちの動きや表情は豊か。登場人物も魅力的だ。

作品は1961年に実写版のテレビドラマになった。幼稚園生だったから同時代の人はその映像の記憶があるだろうが、わたしには無い。というのは、うちでテレビを買ったのは、1963年11月にケネディ大統領が暗殺される直前だったからだ。

ただ「少年サンデー」で同年に、石川球太の手により漫画化、連載されており、これは読んでいた記憶がある。
しかし、一番最初の記憶はなんと言っても、それ以前の絵物語本の「少年ケニヤ」だ。

余談だが、当時記憶では、「少年サンデー」は一冊30円、「少年マガジン」は40円だったと思う。
この10円の差が大きく、どうねだっても幼稚園生に母親が買ってくれたのは、ごくごくまれなことにも30円の「少年サンデー」だった、とそんな記憶がある。

それも一年に何回あるかどうかだ。
とどのつまりは先述通り、床屋に足繁く通い、ボロボロになった昔の絵物語の「少年ケニヤ」を読みふけることになった。

いわゆる「愛と冒険、そして勇気」がテーマの、和製ターザン物語だから、直球で子供心に訴えてくるインパクトがあった。
絵と文章が半々だったか、やや文章のほうが多かったか、いささか記憶が定かではないが、強烈な印象を残したのはやはりその絵だ。

後に、横尾忠則が評して、「いい絵はみんなエロチックな要素を持っている」と書いていたが、まさに「少年ケニヤ」は、今見てもエロティックである。
この艶っぽさはおそらくその後の、どの漫画家にもできない芸当のような気がする。

挿絵より遙かに絵の占める部分が多い。だから絵物語なのだが、空前の人気作家として頂点を極めた山川は、1954年に長者番付で画家部門の1位になるが、50年代後半になっていくと、いわゆる現在のようなコマ割り漫画の人気にとって代わられて人気が退潮。

山川は絵物語の復権の夢をかけるが失敗。財産を失い、借金返済の生活に陥る。
この後、山川は第一線を退いて、横浜市根岸の高台にドルフィンというレストランを経営して過ごすようになる。

ちなみに、このドルフィンは、荒井由実(ユーミン)が女子高生時代に八王子から電車を乗り継いで通い、初期の名曲「海を見ていた午後(荒井のセカンドアルバム、MISSLIM(1974年)」に登場する。

・・・山手のドルフィンは、静かなレストラン。晴れた午後には、遠く三浦岬も見える・・・

荒井由実が通っていたころには、すでに石油コンビナートが完成していたはず(1964年完工)だから、絶景ということは無かったはずだが、今でもわずかに、晴れた日には房総半島がくっきり見えることは間違いない。

1982年秋頃に山川は手形詐欺にあいドルフィンは破産。一家は離散し、またも借金に追われる山川夫妻は新小岩など住居を転々とする。

1983年山川の窮状を知って、即断即決で大量の復刻版文庫と映画によるメディアミックスを断行して山川の窮地を救ったのが、角川春樹だ。

1992年12月、心不全で逝去。
同年山川のチャリティー絵画展の初日に、先述の横尾忠則が来場し、作品を依頼していたが、山川の死後入手した2点のうち1点は未完だったという。

山川の人生は、こうしてみると天国と地獄の往復だ。
「少年ケニヤ」の苦難につぐ苦難、けっしてあきらめず、へこたれない生き様と重複するものがあるのは不思議だ。

一体、ロマンとはなんだろう?
やはり読み手の想像力を限界まで広げる感動のことだろう。

漫画は素晴らしいと思うが、やはり絵とセリフで「説明が多すぎる」のである。
想像力を膨らませる余地がほとんどない世界だといってもいい。

絵物語は違う。
絵本というのもそうだろう。

不幸にしてわたしは絵本の記憶がないのが残念だが(それゆえ想像力が貧困なのかもしれないが)、「少年ケニヤ」が少年時代に熱く胸を焦がす最初の着火点だったといえる。

たぶんあれが、わたしの「ロマン」への憧れの初体験だったのだろうと思う。



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