コーヒーでいいや?

雑話

これは409回目。

片岡義男氏の近年の書物の中に、「コーヒーでもいいや」という注文を巡っていろいろな考えかた、時代の変化におもいを巡らした内容です。

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一つには、何と失礼な、という見方がある。コーヒーに対して。そして、おいしいコーヒーを出したい、と思っている人に対して。

『金を払うのは俺だ、だから俺がどう思ってコーヒー注文するかは俺の勝手だ』、というのはつまらない消費者の「おごり」だ。消費させてもらって、ありがたいと思うくらいでないと、人間ろくなものにはならない。

よくいるであろう、レストランでも居酒屋でも、コンビニでも、やたらえらそうな客というのが。ひどいのになるとぽんと金を投げ出すやつもいる。ああいうのは、傍からみていても実に不愉快だ。

なので、喫茶店を前にして、「コーヒーでいいや」はないだろうというのだ。「コーヒーを飲もう」だ、と。

コーヒー党の人にとっては、コーヒーというものは「コーヒーでいいや」という対象ではない。コーヒーを味わいたくないなら、飲むなということだとわたしは思う。

そもそも、嗜好品というのは、惰性でやってはいけないのだ。最たるものがタバコだろうが、酒も同じだ。

「とりあえず、ビールで」ということは、ナンセンスなのである。「まず、ビールを飲みたい」のはずなのだ。でなければ、飲むな。

選択をするということが、わたしたち人間の責任のような気がするのだ。「~でいいや」「なんでもいいよ」「とりあえず~で」は、自分を駄目人間にしてしまう。

けっきょくそれが「はずれ」だったとしても、選択の意思を告げる言葉をできるだけ気をつけて使おう、そんなふうに思った次第。

なにをそう堅いことをと言われそうだが、そういうちょっとした自分に対する負荷(気遣いといってもいい)があるかどうかで、一日がぴりっと引きしまうような気はする。

つらつら考えるのだが、嗜好品というものは、ちょっと我慢するといいのかもしれない。その分、美味さが引き立つ。

たばこだってそうだろう。人間ドックに半日入っただけで、その前の晩からたばこも吸わないでいるわけで、ドックから出てきてからの一服というのは、これは一瞬、ニコチンが体中を巡ってくらっとくるくらいだ。あれがいい。しかも、昼飯の前、空きっ腹状態でである。

酒もそうなのではないか。ちょっと断酒したら、おそらく飯を食うまえの一杯は、格別なのではないだろうか。

ひょっとすると、コーヒーというのは飯を食ったあと一杯、なのではなく、たばこや酒と同じで、空きっ腹の一杯が実は一番うまいかもしれない

習慣というのは恐ろしいもので、どうしてもコーヒーというと先入観で、飯の後の一杯と決めてかかっている自分がいる。ついつい忘れてしまうのだ。。こんどやってみよう。



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