ガムラン・ボール
これは464回目。アロマの話だ。
以前書いたことがあるが、男というのは結果的にガラクタを集める癖がある。集めている本人にしてみれば、夢中なのだが、ひとしきり集めてみると、結局ただの無用のガラクタと化す。
女から見れば、一体なんでガラクタばかりを集めるのだと不思議だろう。
およそ使い物にならないものばかり、やたらと部屋の中に散らばる風景は、ふと立ち止まってみると、自分でも無常感に襲われるものだ。
元来、男は小物が好きなのだ。
江戸時代の男は、たとえば印籠や、根付というものにこだわったりしたものだ。
現代の日本の男はどうだろうか?
時計だろうか?
これは日常利用価値はあるし、それなりに値が張る。
わたしも一時、時計にハマったことがあるが、結局腕時計というものは、無くしてしまうことが多く、集めるのをあきらめた。
北京には昔から、瑠璃廠(リュウリーチャン)という骨董街があり、休日にはよく意味もなく趣き、およそ使い勝手の悪いものを買い漁っていたことがある。
戦前の置き時計だ。時間は狂うし、手間はかかるし、どうしようもない。
最終的に行き着いたところが、懐中時計である。
どういうわけかこれは無くすこともなく、大きいので見やすく、講演するときなど時間管理に便利だ。
もう30年は使っているだろうか、わたしはロンジンの戦前のレプリカを購入し、以来ずっと生活の一部となっている。
しかし、小物はなにも「形あるもの」とは限らないのだ。
もう一つ、昔からわたしがこだわっているものがある。
アロマがそうだ。
わたしはある意味、匂いフェチなのかもしれない。
子供の頃から、香水というものにいわく抗し難い誘惑に魅了されてきた。
もちろん、女性がつける香水に、陶然としたものだったが、幼少期に「女」というものを感じた最初の契機は、隣のミヨちゃんでもなければ、小学校の女の先生でもない。香水だったのだ。
中学のとき、鶴見祐輔の「ナポレオン」を読んで、この一代の英傑が異常なほどオーデコロンを体中に振りかけていたことを知った。
この「ナポレオン」は戦前の本だが、わたしが読んだのは潮文庫からでた復刻版だ。
文語風の表現が混じった、かなり大時代的な伝記だが、当時は感動に心を震わせたものだった。
欧州の香水というものは、そもそも街が不潔で、人も不潔で、その悪臭から逃れるために香水が発達したという話は、誰でも知っていることだ。
しかし、ナポレオンは異常なほど風呂好きで、始終熱い風呂につかっていた。
そのたびに、オーデコロンを体に振りかけていたらしい。
ということは、彼の香水というのは、要するに悪臭を消すためではなく、純粋に匂いフェチだったということなのだろう。
話がそれた。
男の小物に話を戻す。
この匂いということでは、女性なら匂い袋とすぐ発想が飛ぶだろう。
わたしは男だからなのかわからないが、和風の匂い袋にはすぐに発想がいかない。
いや、試みてはみたのだが、どうもいけない。
気恥ずかしくて匂い袋など身につけることなどできなかったのだ。
何十年と、この欲求と現実の乖離にどれだけ悩まされたことだろう。
そこに、救世主が表れた。
別に、商品宣伝をするつもりはないのだが(もちろんリベートなどもらっていない)、武蔵小杉-新丸子の中程に、Cocobari(ココバリ)という小さなアジア雑貨の店がある。たぶん、新丸子から行ったほうがわかりやすい
ココバリ:
https://www.coco-bari.com/freepage/raiten.html
都内でも、ここが取り扱っているものは売られていると思う。
主にインドネシア産のものが多いようだ。
いわゆるガムランボールの専門店だ。
そこにあったのだ。
いわゆるアロマ・オイルを染み込ませたコットンを、入れてアクセサリーにする小物が。
アロマ・ペンダントと呼んでいるようだ。
(アロマ・ペンダント)
ガムラン・ボールの付属品として、一緒にアクセサリーとしてぶら下げるのである。
ガムランというのは、バリ島に古くから伝わる青銅製の楽器で、宗教儀式の際に、神に捧げる音楽を奏でるものとして欠かすことができない。
このガムランの音を再現したのがガムラン・ボールだ。1.5cmから2cmほどの小さなものだ。
バリでは邪気を払うとして重宝されてきた歴史がある。
現地では、ボラ・ミンピと呼ぶそうだ。身につけていると願い事叶うとか、幸運を呼ぶとも言われているらしい。
(ガムラン・ボール)
銀細工の球体で、親指の頭ほどの大きさでしかない。
チェーンにつないで振ると、「シャリーン」と微妙な音色を奏でる。
一説には、脳が「心地よい」と感じる脳内モルヒネ(β=ベータ・エンドルフィン)が分泌され、ゆったりした気持ちよさを誘い、幸福感を高める作用があるそうだ。
(ガムラン・ボールと鈴の音色の違い)
このガムラン・ボールと一緒に、Chantiでアロマ・ペンダントを買い込んだ。
それを、くだんの懐中時計にくくりつけたのだ。
もう20年くらい前の頃だろう。
以来、ロンジンとガムラン・ボールはいつも一緒だ。
さて、そこで匂いフェチが炸裂する。
小さな円筒形の銀細工であるアロマ・ペンダントの中には、同じく円筒形のコットンが入っている。
これにアロマ・オイルを染み込ませておくわけだが、どういうアロマ・オイルを使うかが問題なのだ。
もちろんひとそれぞれだから何でもよいのだ。
わたしの場合、たくさんのアロマ・オイルのうち、フランジパニを選んだ。
要するにプルメリアである。
本当は、フィリピンのサンパギータ(白い芳香性の強い花、フィリピンの国花でもある)が好きなのだ。一種のジャスミンである。
が、無かった。
かなりそれに近い(と勝手に自分でそう思っただけなのだが)のが、フランジパニだったわけだ。
これを購入して、家に帰り、いそいそとコットンに染み込ませてみた。
いいじゃないか。
懐中時計に、ガムラン・ボールとペンダントがぶら下がり、そこから得も言われぬ神の音色と芳香がほのかに漂ってくる。
これを至福のひとときといわず、なんとしよう。
わたしはこんなもの一つで、地球上で一番幸せな人間だと思ってしまえるほど単純なところがある。
味をしめた匂いフェチのわたしは、そこでは止まらない。
今、狙っているのは、サシェである。
フランジパニにすっかり惚れ込んでしまったわたしは、ウェストバッグにサシェを忍ばせたいと思い始めたのだ。
しかし、匂いというのは、仄かに漂ってくるからこそ価値がある。
体中あちこちフランジパニの香りがぷんぷんしていたら、もはや悪趣味以外のなにものでもあるまい。
この加減というのが、難しい。
ナポレオンのように、頭からオーデコロンを浴びるのは、さすがにいただけない。
悪趣味を通り越して、ほとんど病気である。
そこでふと問題にぶちあたった。
フランジパニをコットンに染み込ませたのはいいとしよう。
しかし、一方でわたしはいわゆる体につけるオードトワレもよく使うのだ。
むかしから、ポロ・スポーツを使うことが多かった。
これは爽やか系なのである。
フランジパニの濃厚な甘さとは、およそ系統が違う。
さあ、困った。
こうなると、フェチというのは困ったものである。
重大な悩みができてしまったことで、夜も寝られない。
どうしたらいいだろうか?